INTRO
世界にはたくさんの秘密がある。
先史時代、一夜にして滅びた巨大文明。
別の世界からの来訪者が遺したといわれる、十字列石群。
青い泉の中央に聳え立つ石碑塔。
宇宙の誕生から終焉までを記したとされる、解読不能の古書。
ヒトは遥か昔から、世界中に存在するそれらの謎を解き明かそうと、何度も何度も挑戦してきた。しかし、宇宙に飛び立つ技術を得た時代に至ってもなお、世界の秘密は解明されていない。
そういった謎の答えは、ヒトの理解の及ばぬところにあるもので、決して触れてはいけないものなのだ、という意見もある。
そうだろうか、と、彼女は思う。
たとえ謎に満ちていようとも、それらは間違いなく存在しているのである。この世にたしかにあるのなら、目に見えて触れることが出来るのなら、いつか解明される時が来るだろう。何十年、何百年と先のことだったとしても、きっと訪れるだろう。
彼女は、そう思っている。
だから彼女が抱えている秘密も、いつかきっと解き明かされる。そして彼女は、秘密から解放される。
そう信じなければ、生きていくことはとても辛いものでしかない。
彼女は、世界の秘密をひとつ、知っている。
その秘密を知ったのは、六歳の時だ。
秋の訪れ間近な九月の末、幼い彼女は自宅の庭で人形遊びをしていた。誕生日にプレゼントされたお気に入りの人形で、豊かな金髪巻き毛に、エプロンドレスを着ていた。彼女はその人形を膝に乗せ、スイングベンチに座ってゆっくりと漕いでいた。
さあっ、と西から風が吹き、彼女と人形の髪を撫でていく。彼女は顔を上げ、風の行く先を目で追い、ぐるりと庭を見渡した。
生垣のところで、奇妙な物体を目にした。
それは、大型の犬に似た“何か”だった。
いったいどこから来たのだろう。犬に似た“何か”は、実におどろおどろしい姿をしていた。
普通の犬と同じように四つの足で立っているが、足の形は昆虫のそれに似ていた。
毛に覆われているはずの全身は焼け爛れ、皮膚が崩れている。頭にも毛がなく、鞣革のようになめらかで、目と鼻と耳がなかった。大きな口だけがあり、ぱかっと開かれ、血のように赤い口腔を覗かせていた。
犬に似た“何か”……異形は、ハッハッと荒い呼吸を繰り返し、ゆっくりと彼女に近づいてくる。
彼女は人形を抱き締め、スイングベンチから降り、ゆっくり歩み寄ってくる異形を見据えた。
この世のものとは思えない生き物だ。あんなモノを見るのは初めてだった。
だが、恐ろしいとは思わなかった。彼女にはあれが「自分に悪さすることが出来ないモノ」だと、直感したからだ。
理由は分からないが、ともかくそういうモノなのだと、本能で理解したのである。
だから、犬のような異形が牙を剥き出して襲いかかってきても、ちっとも怖くなかった。
異形が、汚らしい涎を垂らしながら駆けてくる。彼女は怯まず、それに命令した。近所の家が飼っている犬と遊ぶ時のように。
――おすわり。
途端、犬の異形は、引付けを起こしたように痙攣し始めた。
異形はその場から動こうとしてもがいたが、出来なかった。当然だ。動くな、と彼女が念じたのだから。
異形は、彼女には危害を加えられない。彼女の方がずっとずっと上の存在だからだ。しかし、彼女以外の人間には、襲いかかってしまうだろう。このまま放っておくことは出来ない。
彼女は異形に命じた。
――消えて。
すると、異形はおぞましい奇声を発し、芝生の上でのたうちまわり始めた。昆虫に似た前足を振り上げ、己の頭部や胴を引き裂いた。自分で自分を攻撃した異形は、やがてぱたりと動かなくなった。
異形の屍骸が、臭い蒸気を放ちながら消滅していく。
その様子を、彼女は何の感慨もなく見つめた。
あの異形が何だったのかは分からない。幼い彼女にとって、異形の正体などはどうでもいいことだった。
異形はその後も、時々見かけた。どれも形状は様々だったが、そのすべてが彼女の命令に従い、自滅していった。
あれらは、他の人たちにとっては悪いモノなのだ。それを知っているのは自分だけだ。
両親には異形の話をした。けれど、子どもの空想だと決めつけて、とりあってくれなかった。
誰も異形のことを知らない。知っているのは彼女だけだった。
何も知らない家族や友達を守るために、誰も傷つけられないように、自分がなんとかしなくてはならない。幼心に、そんな使命感を抱いていた。それが当たり前だと思っていたのだ。
だが成長し、学び、社会を知るにつれて、自分こそが普通ではなかったのだと、思い知らされてしてしまった。
そもそも誰にも視えていなかったのだ。異形が誕生する原因となる、あの輝く霧を。
異形とは、生き物の屍骸に〈輝く霧〉が入り込んで変異したものである。彼女は異形誕生の元である〈輝く霧〉を視ることが出来た。しかし、他の誰にも、その〈輝く霧〉は視えないのだった。ましてや、異形に命令を下せる能力など、誰も持ち合わせていない。
いくら説明しても、誰にも分かってもらえなかった。〈輝く霧〉が見えない人々は、異形の存在を信じられなかったのだ。
あれはとても恐ろしいモノなのだと、どれほど説明しても、両親も友達も学校の先生も、一人として信じなかった。
――どうして誰も信じてくれないの。
――この世界には、屍骸を化け物に変えてしまうモノがあるのに。
なぜそんなモノを視る力が、自分にはあるのだろう。化け物を操る能力があるのだろう。考えても答えは見つからなかった。
彼女はそのうち、周囲の理解を得ることをあきらめた。おかしなことばかり口にする気味の悪い子だと見限られる前に、彼女は〈輝く霧〉や異形のことを話すのをやめた。
視えないふりをしよう。何も知らなかったことにして、ごく普通の女の子と同じように生活しよう。
化け物なんかいない。〈輝く霧〉などありはしない。
自分には何の力もない。
そう思い込もうとしたのである。
*
美しい満月の夜だった。白銀の月光降り注ぐ空き地は、街灯に照らされたように明るかった。
彼女は震える自分の身体を抱き締め、空き地を埋め尽くす雑草の上にうずくまっていた。
遠くの方から、物音が聞こえてくる。雑草を踏みつける激しい足音と、鳥肌を禁じえないけたたましい絶叫。
やがて、身の毛もよだつ大きな奇声が発せられたかと思うと、あたりは急に静かになった。風に乗って、異臭が漂ってきた。
嗅いだことのある臭いだ。化け物が滅びた証である。
ざく、ざく。足音がこちらに近づいてきた。ざく。目の前で止まった。
恐る恐る顔を上げる。
すらりとしたシルエットが、彼女の前に立っていた。
月明かりに照らし出されたその人は、しわ一つないスーツに身を包み、右手に蒼い光を湛える剣を携えていた。
その人は片膝をつき、彼女の顔を覗き込む。碧の双眸は、細い黒縁の眼鏡を通して、ひたと彼女を見据える。
美しくも冷ややかで、どこか寂しげな目だと思った。
――終わったよ。
涼やかな声音で、その人は言う。
大丈夫か、と訊かれたので、彼女は小さく頷いた。
――今夜見たことは誰にも言ってはいけない。忘れるんだ。いいね。
月光の下、彼女の目と彼の碧眼が交わる。
彼女はかすかにため息をついた。
この人は、あれらの存在を知っている。知っていて、そして戦っている。この、氷を生み出す蒼い剣を振るって。
初めて、分かち合える人に出会えた。自分以外にあれらを知る人がいたことに、彼女の心は震えた。
一人ではなかったのだ。
――あなたは何故あれらを知っているの。あなたにも〈輝く霧〉が視えるの。何故戦っているの。
どうして私には、誰にも視えないモノが視え、誰にもない能力があるの。
訊きたいことが山のようにある。
初めて巡り会えた“仲間”。
この人なら――。
――助けて。
すがるように呟いた途端、彼女の意識は遠のいた。