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TRACK-3 少女と異形 2

 考え事をしていると、頭は徐々に下を向いていくものだ。ぼうっと物思いにふけっていたリカは、いつの間にか自分の膝を見つめていた。

 正確には、膝の上に乗せた手の中の、携帯端末エレフォンディスプレイを。

 そこには、スーツを着た黒髪の男の、勇ましい姿が表示されている。

 はっと我に返ったリカは、慌てて画像を消した。きょろきょろと周囲に視線を走らせるが、誰かに見られているわけではなかった。

 別にやましいことではないが、気恥ずかしい。いったいいつ画像を表示させたのか、自分でも分からなかった。無意識に手が動いたのだとすれば、それはそれで困ったことである。

「何やってるんだろ、私」

 蜃気楼を追いかけている気分だ。

 追っても追っても近づけない。どんなに手を伸ばしても届かない。掴めたと思えば、それは幻。

 気がつけば霧の中に迷い込んで、戻り方が分からなくなっている。

 スーが気にかけてくれているのも、よく分かっているつもりだ。彼女は二次元の世界を愛する者だが、身の回りの現実をちゃんと受け入れ、折り合いをつけ、そのうえで趣味に没頭している。ふわふわしているようでいて、実はしっかりと地に足をつけているのだ。

 だからリカよりも冷静に、物事を見ることが出来る。

 対する自分はどうだろう。スーが言ったように、思い出を美しく捉えすぎてはいないだろうか。

「会えない方がいいのかな……」

 憂鬱なため息が、唇の隙間からこぼれた。携帯端末の呼び出し音が鳴り出したのは、その時だった。

 誰からの電話なのか。ディスプレイの着信通知を確認すると、知らない番号だった。

 間違い電話だろう。出るべきか無視するか迷った。

 しかし相手が番号間違いに気づかないままでは、また何度も掛かってきてしまうかもしれない。それなら一度出て、間違ってますよと教えた方がいいかもしれない。

 変な人じゃありませんように、と祈りながら、リカは端末を耳に当てた。

「もしもし」

 一、二秒の間が空く。


『なぜ僕を捜す?』


 やや低くも、耳に心地いい男の声だ。

 一瞬何のことだか分からなかった。だがすぐに脳内に閃光が走った。

 リカは息を飲み、反射的に立ち上がる。バッグが倒れた。

「あ、あの……ひょっとして」

 心臓が跳ね、胸は熱くなる。

「あ、あ、あなたは……その」

 どうしてこの番号を知っているのか、今はそんなことはどうでもよかった。

 端末を耳に当てたまま、せわしなく周囲を見回す。たくさんの通行人の中、電話をしている人の姿はあちこちにあった。

 電話をしている人の中に、眼鏡をかけたスーツ姿の男性がいないだろうか……。

『見るな。君の前には出て行かない』

 突き放すような一言が、耳に帯び始めた熱を冷ます。

 ――ああ、でも。

 どこかに“彼”がいるのだ。このフロアのどこかに。

 そこで、こちらを見ているのだ。

 見るなと言われても、目は周囲を探ってしまう。

「わ、私、あなたを、ずっと」

 言葉がうまく紡げない。

『捜していたんだろう?』

「……はい」

 こちらの事情を承知だということも、不思議に思わなかった。オズモントから何か聞いたのかもしれないし、“彼”なら自分で情報を掴むのも容易いのではないかと、そう考えた。

『忘れろと言ったはずだ』

「でも」

『僕に会っても意味はない。礼など不要だ』

 スピーカーから聴こえてくる“彼”の声は、冷たいと思えるほど落ち着き払っていた。あくまでも静かに、リカを諭すように語りかける。

『僕はやるべき仕事を片付けたまでだ。その課程で、君を助ける形になった。それだけだ』

「でも、助けてくれたことに変わりはありません。だから」

『仕事に対する見返りは、報酬だけで充分だ。僕は君から何かを受け取るつもりはない。言葉であっても、それ以外のものであっても』

 彼の拒絶は、垂れ落ちた絵の具のように、リカの胸に沁みこんでいった。全身が震え、目頭が熱くなっていく。

 彼の所在が分かっても、会うことが叶ったとしても、拒まれてしまうのではないかという不安は常にあった。

 それでも命を助けてくれた人なのだから、快く受け入れてくれるかもしれない、という期待の方が大きかったのだ。

 期待は、虚しく砕けた。

「い、一度だけでいいんです。会ってもらえませんか?」

 

 あなたに会いたい。

 会って話がしたい。

 ずっとそれだけを望んできたのに。


『駄目だ』

 目尻からぽとりと、雫が流れ落ちる。

「お願いです。一度だけでいいから」

 喉と唇が震えて、声がかすれた。

『今日限りで、僕のことは忘れろ。この番号に掛け直しても無駄だ』

 追い縋るリカを、彼は無慈悲に突き放す。

 行ってしまう。彼が行ってしまう。

 

 ――行かないで。


 そう叫びかけた時。

 長い髪に覆われた首筋に鳥肌が立った。

 ぬるぬると厭らしい感覚が、全身にまとわりつく。

「嘘……こんな所に、そんな……」

 いる。あれ(・・)がいる。すぐ近くに。

 リカは迷わず天井を見上げた。厭らしい感覚が、どこからしみ出てきているのか、すぐに分かった。

 スピーカーから『どうした?』と彼の声が聞こえた直後、天井のガラスが音を立てて割れた。


        *


 二階から一階へ降りたレジーニは、大花壇近くの柱に身を潜めた。ここからだと、花壇周辺の様子がよく見渡せる。それに加え、花壇の周りにいる人々からは死角になる、絶妙なポイントだ。

 花壇の向こう側に、長い赤毛の華奢な後ろ姿を確認した。レジーニはスーツジャケットの内ポケットから携帯端末エレフォンを取り出す。

 彼女の電話番号は、オズモントから聞いた。だが会うためではない。忠告するためだ。

 自分を捜しても無駄だと、はっきり言わなければならない。彼女がどんなに感謝の意を伝えたがっていようとも、姿を見せるつもりは毛頭ないのだ、と。

 まだ十八歳の少女だ。衝撃的な出来事の中での出会いに、何かしらの幻想を抱いてしまってもおかしくない歳である。時間が経つにつれて記憶が美化されていくのも、よくある話だ。 

 レジーニは長い指をディスプレイに走らせ、番号を打つ。

 呼び出し音が鳴っている間、花壇の向こうの赤毛を見つめる。


 あの髪の感触は、あいつと同じなのだろうか。

 

 そんな考えがふっと過ぎる。

 何を馬鹿なことを。自虐めいた笑みをかすかに口元に浮かべ、軽く頭を振って思考をリセットした時、電話が繋がった。


『もしもし』


 溌剌とした、少女らしい声だった。

 一呼吸空けて、口を開く。


「なぜ僕を捜す?」


 感情を込めずに、淡々と言った。

 

 端末越しに言葉を交わすにつれ、少女の声が震えていくのが分かる。

 レジナルド・アンセルムともあろう者が、耳元で少女に泣かれた程度で心を揺るがせてはならない。あくまでも冷静に、情けをかけずに話さなければ。

 突き放せば突き放すほど、スピーカーの向こうの声が小さく掠れていく。

 最後の一言を告げると、少女はついに声を詰まらせた。

 後ろめたさはあるものの、これでいいのだと言い聞かせる。

 花壇の向こうの少女を見やると、彼女は上を向いていた。 

『嘘……こんな所に、そんな…』

 スピーカーから聴こえてくる声は、やはり震えている。だが、さきほどとは違っていた。悲しみで震えているのではない。これは――怯え?

「どうした?」 

 レジーニは少女の目線を追い、顔を上げた瞬間、ガラス天井にヒビが走った。


        *

 

 相棒の命令を素直に聞き入れたエヴァンは、通路の手摺りに両腕を乗せ、右手で頬杖をついて階下を見下ろしている。

 花壇の縁に座る少女の様子や、彼女からは死角となる位置にレジーニが移動していくのが、はっきりと分かる。

「あの、一体誰なんだ?」

 遠目から見ても、まだ十代だろうということは察しがついた。だが、彼女と相棒との接点が思いつかない。

 エヴァンの乏しい人生経験から、考えられるのはただ一つ。恋愛沙汰だ。

 何かのきっかけがあり、少女がレジーニに恋をした。しかし相棒にはその気がない。なので、彼女に諦めるよう申告しに来た。そんなところではないか。

 同じ男として少々面白くないが、レジーニの容姿に惹かれる女性は多い。あの少女も、そのうちの一人なのだろう。

 腑に落ちないのは、わざわざレジーニがここまで出向いた点だ。

 これまで数え切れないほどの女性――たまに男性も混じる――に言い寄られてきた相棒だが、その一人ひとりに丁寧に対応したわけではない。ほとんどが無視だ。

 かつて、全身全霊をもって愛した恋人を亡くした経験上、そう簡単に新たな恋人を作ろうという気になれないのだろう。

 今では過去を受け止め、前を向けるようになったはずだが、心に受けた傷は深く、完全に癒えるにはまだ時間がかかりそうだ。

 エヴァンとしては、レジーニの心の支えになるような女性が現れてくれるのは、大変喜ばしいことだった。愛する人、守るべき人の存在は、生きる活力をもたらしてくれる。そのことは、誰よりもレジーニ自身が知っているはずだ。

 あの少女が、レジーニの新たな光になってくれるのだろうか。だからここまで来たのか。

 しかしながら、レジーニの動きを見てみると、彼女の前に出て行く気はないらしい。

 柱の影に隠れたまま、どうやら電話を掛けているようだ。少女の方にも動きがあった。携帯端末エレフォンを握り締め、立ち上がった。電話の相手はレジーニに違いない。

 相棒は電話だけで事を納めるつもりなのだろう。これでまた一人、涙を流す女性が増えてしまう。

 軽い批難を込めて、エヴァンは物陰に潜む相棒を睨んだ。相棒は、わずかだが身じろぎしていた。

 他人の目にはすました立ち姿に映るだろうが、コンビを組んで一年以上経つエヴァンには、普段のレジーニには見られない、細かな異変が確認できた。

 本当に些細なことだが、レジーニという男を知る者にとっては、驚くに値する異変である。

「何あいつ、そわそわしてんの?」

 思わず口元が綻ぶ。レジナルド・アンセルムが、十代の少女に心を揺り動かされている。これはちょっとばかり、いや、かなりそそられる。

「なんだよ、結構まんざらでもねぇんじゃん」

 殴られると分かっていても、茶々を入れずにはいられないネタだ。

 こちらに戻ってきたらどう言ってやろうかと、いたずら心に火が点く。

 だがその火はすぐにかき消された。

ねっとりとまとわりつくような視線を感じ、うなじの産毛が逆立つ。

「マジかよ、こんな時に!」

 視線の出所を辿って天井を見上げた。砕けたガラスの破片が、雨あられと降り注ぐ。


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