TRACK-2 アーバン・レジェンド・クラブ 7
早朝の空気はひんやりとしている。夏はもうとっくに去っていた。二ヶ月後に訪れる厳しい冬の前、穏やかな秋風がアトランヴィル・シティを優しく包み込む。
ポプラ並木はまだ青々としているが、やがて燃えるように色づき、舞い落ちた紅葉で道は埋め尽くされるだろう。
白み始めた空下のポプラ並木を、ランニングウェアを着た男が一人走っている。ペースは一定に保たれ、呼吸も乱れていない、完璧なフォームだ。
他のランナーがいないにも関わらず、ウェアのフードを目深に被って顔を隠すのは。彼の癖だった。もう少しすれば走りに来る人々が増える。そうなったらどうせ顔を隠すのだから、今からフードを被っていても同じことだ。
市民公園の外周を一回りして、自宅である高級マンションへ向かう頃には、日の出の光がビルの合間を縫って射し込んでいた。
エレベーターで八十階建て高層マンションの五十二階まで昇る。朝が早いためか他に利用者はおらず、エレベーターはノンストップだった。
玄関に入ってすぐ、むしるようにランニングウェアを脱ぎ捨てた。短い黒髪が、汗でぐっしょりと濡れている。
部屋の主――レジーニの帰宅を感知した制御システムにより、室内に淡い照明が灯る。外の明るさに合わせて、自動で光量調整される仕組みだ。
玄関から見て左手にキッチンがあり、バスルームは右側にある。正面は広々としたリビングルームで、大きな窓から望めるのは、整然としたリバーヴィルの町並みだ。リビングの右隣がベッドルームで、左奥には小部屋がある。アトランヴィル・シティでの一般的な間取りだが、広さや内装設備はハイグレード仕様である。
レジーニはキッチンでコップ一杯の水を飲むと、リビングを素通りしてバスルームに向かった。
汗まみれのウェアを、脱いだ矢先から洗濯機に突っ込み、自身はシャワー室に入る。センサーに手をかざすと、ノズルから適温の湯が降り注いだ。
細身でありながらしっかりと筋肉のついた身体を、熱い雨が流れていく。胸や腹の筋から、長い足を伝って踵まで。
もともと細い体格だったのだが、裏社会で生き延びるために鍛えた結果、美しく均整のとれた身体つきへと変わっていった。秀才のもやしっ子とからかわれていた学生時代が嘘のようだ。
身体中の泡を洗い流していると、脇腹にある薄い傷痕が目に留まった。普段は目立たないが、入浴時のように身体が温まると浮き出る古い傷だ。
これはいつ出来た傷だろう、と、詮無いことをふと考える。なにしろこういった傷痕が、身体のあちこちにあるのだ。どの傷がいつ出来たものかなど、いちいち覚えていられない。
幸いにも目立つほどの深い傷は残っていなかった。駆け出しの頃に世話になったベテランの〈異法者〉には、痛々しい傷痕がたくさんあったものだ。
そのベテランのことを思い出し、懐かしむ笑みを口元に浮かべつつ、レジーニはシャワーを止めてバスタオルを掴んだ。
リビングに戻ると、窓の外はすっかり明るくなっていた。照明は消えており、太陽の光が室内の隅々まで照らしだしている。
部屋着を着てコーヒーを淹れ、朝食を作るためにキッチンに立つ。
食事はだいたい自分で作る。体力資本の仕事柄、栄養管理は大切だ。たまには外食もするが、基本的には自炊派である。
朝食を済ませた後、午前中は急ぎの用がないからと、思い立ってコンフィチュールを作り置くことにした。市販製品は少々甘いので、これも自分で作ることにしている。小さじ一杯をヨーグルトに混ぜて食べるのが好きだった。
二・三日以内に作るつもりで買っておいたリンゴを、貯蔵庫から適量取り出し、準備にとりかかった。
ペティナイフでリンゴを小さく角切りにしていると、ホルダーに立てかけた携帯端末が鳴り出す。電話だ。レジーニは手を休めず、音声で通話をONにした。
『やあレジーニ、おはよう』
スピーカーから聞こえた声は、シーモア・オズモントのものだった。
「おはよう先生。モーニングコールには、少しばかり遅いね」
軽く冗談を言うと、オズモントの小さな鼻息が返ってきた。彼なりの笑い声である。
『電話をするには、早い時間だったかな?』
「いや、朝食は済ませた。今、コンフィチュールを作ってるところだ』
リンゴは、あえて皮を少し残しておく。ひとつふたつつまみ食いすると、リンゴの甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がった。いい品種だ。次に切ったリンゴをボウルに移し、レモンを絞る。
『ほう、コンフィチュール。君は本当に器用だな』
「よければ、おすそ分けしようか?」
『ああ、それはぜひ』
それなら、もう少し材料を増やした方がいいだろう。
「それで先生、用件は?」
再び貯蔵庫からリンゴを出しつつ、端末に向かって尋ねる。いつも不機嫌そうな表情の老生物学者が、自分からこちらに電話をかけてくるということは、よほど話したい何かがあるからに違いないのだ。
『うむ。君に言っておくべきだろうと思ってね』
「何をだい」
『昨日、私のところに女子学生が一人来たのだが』
「講義内容の質問?」
『いや違う。その子は、これまでにも何度か私を訪ねてきたのだが、用件はいつも同じだった。昨日も例外ではない』
「それで、どんな用件?」
『彼女はいつも同じ質問をしてくる。私に話す気があろうとなかろうと、かまわずに何度もね。なかなかしぶとい』
レジーニは、ペティナイフを動かしていた手を止め、そこにオズモント本人がいるかのように携帯端末を見つめた。
オズモントが、こんな風にもったいぶったものの言い方をするのは珍しい。賢人の如き老生物学者は、常に理路整然と考え、話す。余分な言葉は加えないのだ。
「やけに回りくどいね。その生徒が先生に何を訊くと?」
『人を捜しているのだそうだ。長身の黒髪で、眼鏡をかけスーツを着た、碧眼の男を』
レジーニはペティナイフをカッティングボードの上に置いた。端末の向こうにいるオズモントを、じっと見据える。
「そんな見た目の奴なら、この世に五万といるよ、先生」
『そのとおりだ。だが、七月に大学にいる私のもとを訪れた、長身の黒髪で眼鏡をかけスーツを着た碧眼の男なら、君しかいない』
たしかにレジーニは、七月にワーズワース大学のオズモントを訪ねた。メメントに関する考察を述べ合うためだった。彼の研究室を出入りするところを、学生らに見られていたとしても、なんら不思議はないし、別段困ることもないのだが。
『彼女の携帯端末には、君の画像が保存されていた。その画像を突きつけられ、この男を知らないか、と訊かれたのだ。あれはおそらく、例のコルネリア教会での戦いでの君だな。〈ブリゼバルトゥ〉も映っていた』
「あの時の? たしかに路上でひと暴れして、その様子は野次馬どもがしっかり撮影してくれたけど、事件直後にストロベリーが徹底的に消したはずだ」
『何にでも抜け道はある。いかな密室でも蚊が舞い込むように』
レジーニはうんざりとため息をついた。
「まあいい。それで、その生徒はなぜ僕を捜していると?」
女子大生に行方を探られるほど、何かをした覚えはない。だが、一方的に熱を上げられることはよくあった。何かの拍子で相手に勘違いをさせてしまった、ということも考えられなくはない。
『君が“命の恩人”なのだそうだ。だからお礼が言いたいのだ、と』
「命の恩人?」
思いもよらぬ回答に、レジーニは麗眉を歪めた。
『君に助けられた、命を救われた、だからお礼が言いたい。それが彼女の望みだそうだ』
レジーニは視線を落とし、記憶を探った。はて、これまでに女子大生の命を救うような場面に出くわしたことがあっただろうか。記憶力には自信がある。しかし、思い当たる節はなかった。
「どんな娘なんだ?」
『大学内のコミュニティサイトに、学生たちの写真が載っている。それを送ろう。名前はリカ・タルヴィティエだ』
十数秒ほどして端末の画面に、メールが届いたことを知らせるアイコンが表示された。音声入力でそのメールを開くと、一枚の画像が展開した。
一人の少女の振り向いた瞬間が、そこに映し出されていた。
くっきりした目鼻立ちの、美しい少女だ。宝石のようにきらめく孔雀藍の瞳で、こちらを静かに見ている。強い意思を秘めていそうな大きな双眸に見つめられれば、大抵の男は心を奪われるだろう。
だが、レジーニの心を揺さぶったのは彼女の目ではなく、長い長い髪だった。
振り向いた瞬間にふわりと靡き、細い肩にかかった髪の色は、とても珍しい赤毛だったのだ。
薄い色味でありつつ、絹のように明るく艶めくその赤毛を、レジーニはよく知っている。こんな髪の色をした人を知っている。心と身体で、覚えている。
胸の奥が締めつけられた。その瞬間、眠っていた記憶が呼び起こされる。
明るい月の晩、草場に座り込む一人の少女。
レジーニを見上げる目は青く、細い身体は怯えて震えていた。
月光に照らし出された少女の髪、その色は――色味の薄い赤毛。
覚えていたのは、髪の色が同じだったからだ。
かつて、全身全霊を懸けて愛した女性と。
月光の下の少女と、向日葵のように笑うあの女性の姿が重なり合った。
(この娘は、あの時の――)
記憶に揺さぶられるレジーニは、無意識のうちに右手をカッティングボードの上に降ろしていた。
鋭い痛みが走り、レジーニは頬を引き攣らせた。右手を見ると、小指球に一筋の切れ込みが入っていた。じわりじわりと血が滲み出す。ペティナイフの上に手を降ろしてしまったのだ。
いつにない迂闊な行動に、レジーニは思わず舌打ちをする。
『どうかしたかね?』
舌打ちが聞こえたのか、オズモントが尋ねた。
「いや、なんでもない」
レジーニはペーパータオルで血を拭き、傷口を洗うため水を流した。赤いものが、たちまち透明な水に溶けて流されていく。
「思い出したよ。たしかに、メメントに襲われていた彼女を助けた覚えがある。でも、三年も前の話だ」
『では、三年間もずっと君を捜していたのだな』
「先生は、僕にどうしろと?」
こちらからの質問に、オズモントは一呼吸おいて答えた。
『私は立場上、彼女と君を引き合わせるわけにはいかない。そもそも彼女には、君を知らないと言っているからな。しかし、必死な姿を見ると、どうにも心が揺れてね』
孫ほど歳の離れた少女に懇願され、しかめっ面で困惑するオズモントの姿は、容易に想像がつく。
『命の恩人に礼を言いたいというのは、人間として正しき姿だ。私は橋渡し役にはなれないが、かと言って、尊い願いを抱える者を止める権利もない』
「どうするかは僕に任せる、ということだね」
『伝えるべきかどうか、電話の直前まで迷ったのだよ』
「分かってる。話してくれてありがとう」
レジーニたち裏稼業者の協力者とはいえ、オズモントの立場は表社会の一般人と変わりないことになっている。しかも教職者である彼が、ごく普通の学生と裏稼業者を引き合わせるなど、あってはならないことだ。
大学教授としての責任感と、少女の願いを無下にできないという、二つの思いに葛藤した結果、レジーニの裁量に任せる判断を下したのだろう。レジーニへの信頼の証でもある。
電話を終了したレジーニは、オズモントが話してくれたことについて考えた。上の空で水道を止め、新しいペーパータオルで濡れた手を拭く。
少女が一人で、三年間も人を捜し続けたというのは、心身ともに負担のかかったことだろう。あの夜の恐ろしい出来事を、ずっと忘れずにいたのだから。
「リカ・タルヴィティエ、か」
レジーニは少女の名を呟く。亡き恋人と同じ髪をした少女の名を。
傷口の具合を確かめようと、右手に視線を落とした。
「……どういうことだ?」
レジーニの眉が再び歪められた。
右手を顔の位置まで持ち上げ、じっと見つめる。
ペティナイフによって小指球に刻まれたはずの傷が、ない。
確実に痛みはあった。傷は浅かったが出血もあった。その証拠に、血をぬぐって赤く染まったペーパータオルがちゃんとある。
「たしかに切れたはずだ」
左の指で患部だった部分に触れた。例え傷が塞がったのだとしても、それはあまりに早すぎる。どれだけ浅い傷だろうが、ほんの数分足らずで塞がるなどありえない。
「これは、一体……」
説明も想像もつかない事態に、レジーニはただ呆然とするしかなかった。