TRACK-2 アーバン・レジェンド・クラブ 5
一般人のリカは、人捜しの術に心得がない。出来ることといえば、誰かに尋ねるという、確実性の低い地道な手段しかなかった。
例えばインターネット上で「誰かこの人を知りませんか?」と呼びかける。NCTが発達した現代なら、数件の目撃情報くらいたちまち寄せられるだろう。
または、警察に捜索願を出す。探偵を雇う。思いつくのはその程度だ。
しかし、どの手段にも頼りたくなかった。ネット上での呼びかけは、不特定多数の他人に広まるのだし、どこで誰が繋がっているか分からない、という恐ろしさがある。警察には、根掘り葉掘り事情を尋ねられるだろう。では探偵はどうだろうか。良心的な探偵事務所に当たればいいが、もしいかがわしい所の門を叩いてしまった場合、法外な依頼料を吹っかけられるかもしれない。十代の学生が自由に使える金額など、たかが知れている。かといって、家族に頼るなど論外である。
無い知恵を絞って考えてみたが、どれも有効とは思えなかった。考え過ぎても仕方のないことだが、どうしても行動は慎重になる。
街で偶然見かけることはないだろうかと、周囲にいる男性に注意しながら歩くこともあった。だが、そんなラブストーリーの定番のような展開が、起こるはずもなかった。
捜したいのに、どうやって捜せばいいのか分からない。
ただ時間だけが流れ、そうやって三年の月日が流れた。
もはや諦めるしかないのだろうか。
失意の只中にいる折のことだった。
大学で“彼”を見たのは。
それもまた七月のことだった。大学が化け物の群れに襲撃される前日、構内で偶然“氷の王子”を見たのである。
遠目からではあったが、間違いない。リカには確信があった。
急いで追いかけたのだが、間に合わずに見失った。彼の姿を見かけた地点や、その上下の階まで、出来る範囲で捜したのだが、会うことは出来なかった。
吉報だったのは、彼を見たという学生の話を拾えたことだ。その学生は、とある部屋から出てくる彼の姿を目撃したのだそうである。
もちろんすぐに、その部屋の主に彼の話を聞きに行った。しかし、知らぬ存ぜぬを押し通され、何も聞き出すことが出来なかった。
何度も食い下がったが、そのたびにつれない反応を返されてしまい、リカは退散せざるを得なかったのである。気難しい相手だとは聞いていたが、口の堅さは予想以上だった。
でも。
スーのおかげで証拠となる画像を手に入れることが出来た。親友がくれた大切な切り札で、再び挑む。
今のリカが得られる解決の糸口は、これしかないのだ。簡単には引き下がれない。
リカは胸いっぱいに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。自らを鼓舞するため、小さく頷いてから、目の前のドアをノックした。
「どうぞ」
低い声がドアの向こうから返ってきた。
「失礼します」
緊張しながら、リカはドアを開ける。すっとした化学薬品のかすかな匂いが、彼女の小さな鼻をくすぐった。
部屋の主は奥のデスクに座っていた。小柄な人影は山積みの資料とコンピューターに埋もれ、頭だけが辛うじて覗いている。
訪問者がリカだと気づくと、部屋の主は眉根を寄せた。六十を過ぎた顔には、重ねた年月を物語るしわが刻まれている。いつも不機嫌そうな仏頂面で、他人を寄せつけない空気を醸し出している人物である。
「また君か」
抑揚のない声で一言。リカがこの部屋を訪ねる理由を、すっかり心得ているのだ。
「お忙しいところ申し訳ありません。少しお時間いただけますか、オズモント教授」
リカが恐る恐る伺うと、部屋の主の表情は、ますます険しいものになった。
彼はシーモア・オズモント。ワーズワース大学の生物学教授である。気難しく、とっつきにくそうな印象とは裏腹に、構内の隠れ人気講師であった。リカは彼の講義を受けていないので、聞いた噂程度の知識なのだが、どうやら講義の内容に定評があるらしい。
このシーモア・オズモントこそ、“氷の王子”が訪ねた人物であった。
オズモントはしばしの間、じっとリカを見つめた。そのうち肩の力を抜き、小さくため息をついた。
「まあ、掛けたまえ」
デスクの前に設置された応接用のソファセットを、リカに薦める。
リカが遠慮がちにソファに座ると、デスクから移動したオズモントは、向かいにゆっくりと腰掛けた。
小柄な老人ながらも眼光鋭いオズモントの存在感に、リカはいつも萎縮してしまう。だがここまできて、おめおめと逃げ帰るわけにはいかない。
「では、用件を聞こう。だいたい見当はついているが」
「あ、はい。えっと」
この教授に、回りくどいことは無用だろう。どうせここを訪れた理由はバレているのだ、単刀直入に切り出した方がいい。
「どうしても、あの人について教えていただきたいんです。七月に、教授のところに来たはずの男性についてを。お願いします」
オズモントは眉間にしわを寄せ、右手で顎を撫でた。
「やはりそのことかね。何度も言っているが、私を訪ねる者など、そう滅多にはいないのだよ、リカ・タルヴィティエ君」
老教授の答えは、まずリカの予想通りだった。
「『七月に私を訪ねた男性』と漠然と訊かれてもね。君の勘違いではないのかな。この部屋から該当人物が出てくるのを見た学生がいる、ということだったが、見間違いかもしれないではないか。噂を鵜呑みにするものではないよ」
オズモントは表情を変えず、淡々と、だが理路整然と言い聞かせる。こんな調子で、リカは何度もあしらわれてきたのだ。
怯んではいけない。リカは携帯端末を取り出し、オズモントを真っ直ぐに見た。
「私の勘違いだったとしても、その男性が実在するのは間違いありません。そして教授は彼をご存知のはずです」
端末のディスプレイに、スーがくれた画像を表示させ、オズモントに突きつけた。
身を乗り出したオズモントの鋭い双眸が、ひたりと端末を見据える。リカは、オズモントのわずかな表情の変化も見逃すまいと凝視した。“彼”を知っているなら、何かしらの反応を見せるはずだ。
ところが老教授は、眉一つ動かさない。オズモントはしばし画像を眺めたあと、ソファの背もたれに背を預けた。
「なかなかの色男だ。捜したくなる気持ちも分かるが、しかしね君、あいにく私は学生の恋愛事に手を貸すつもりはないのだよ」
「ち、違います! そんなんじゃありません!」
呆れたようなその物言いに、リカは慌てて首を振り、端末を引っ込めた。恋慕の情に突き動かされて“彼”を捜しているのではないのだ。そんな勘違いは困る。そう、決してそんな感情を抱いているわけではない。
「では、なぜこの人物を捜し求めているのだね、君は」
オズモントは目を細める。
「君は何度か私に、この人物を知らないかと尋ねてきた。もちろん私とは無縁の他人だが、訊かれるからにはその理由を教えてもらう権利はある。だが君は理由を説明しなかった」
老教授の言葉は淡々としているが、正論ゆえリカの胸にちくりと刺さった。
「個人的な事情にむりやり首を突っ込むつもりはないがね。今日、君は、わざわざ画像を用意してまで再度私のもとを訪れた。よほどの理由があるのだろう。それだけの悩みがあるのなら、教育者として学生を助け、守る義務がある」
オズモントの主張はもっともだった。リカは唇を軽く噛む。
(理由を話せば、教授は本当のことを答えてくれるのかしら)
“氷の王子”を捜す理由を正直に話せば、この小柄な生物学者はリカの想いに応じてくれるのだろうか。
一瞬期待に胸を膨らませたが、すぐにしぼんだ。自分の“秘密”を知られるのは怖い。かつて向けられた奇異と畏怖の目を思い出す。あんな目で見られるのはもう嫌だ。
「すみません。それは、言えません」
か細い声を絞り出しながら、リカはうなだれた。
「ただ……、私、この人に助けられたんです」
「助けられた?」
「はい。命を救われました」
美しい満月の夜に。
あの時、リカの能力は効かなかった。リカの能力を超えたモノが相手だったからかもしれない。“彼”が来てくれなかったら、間違いなく殺されていた。
月明かりのように冷えた眼差しだった。けれど、座り込んだリカにかけられた「大丈夫か」という言葉には、想いの外ぬくもりを感じた。
お礼も言えないうちに、彼はいなくなってしまった。
もう一度だけでも会えるなら、あの時の礼をちゃんと言いたい。聞きたい事だってたくさんある。
だから――、
学舎が怪物に襲われた時、彼も現場に駆けつけたのではないかと、リカは思った。今もあの異形たちと戦っているならば、きっとそうに違いない、と。
彼の姿を捜そうとしたのだが、構内中がパニックに陥っていたせいで、それは叶わなかった。
代わりに、悪魔のような白い少年に見つかった。殺されなかったことが不思議でならない。
「助けてもらったお礼が言いたいんです。ただ、それだけです」
真実を隠してはいるが、嘘はついていない。同情心に訴えるようなやり方は少し心苦しいが、自分自身の秘密は知られたくなかった。
「そうか」
老教授は、呟いて頷く。相変わらず表情に変化はなかった。今回も駄目かもしれない。
「命の恩人となれば、会って礼を言いたいと思うのは当然だ。気持ちは分かる。だが、申し訳ないが、私はその人物を知らないのだ」
「そう……ですか」
深い失望が胸に広がる。リカはのろのろとソファから立ち上がり、オズモントに頭を下げた。明るい赤毛が、さらりと肩から流れ落ちる。
「何度も押しかけてすみませんでした。失礼します」
上体を起こしても顔は上げず、リカは俯いたままオズモントの部屋を辞したのだった。
廊下に出た途端、唇から漏れたのは震えるため息だ。もっとも有効な当てが外れた。“彼”に一番近いところにいるはずの、オズモントからの協力は得られなかった。これでまた振り出しに戻ったことになる。
オズモントは間違いなく“彼”を知っている。ポーカーフェイスで、表情からは心の動きを読めないが、確信はあった。
オズモントが本当に“彼”を知らないのなら、“彼”はなぜ、オズモントの部屋から出てきたのだろう。命を救ってくれたお礼が言いたいのだと知って尚しらを切りとおすからには、“彼”の存在を隠さなければならない理由があるのだ。
画像を突きつければ、観念して話してくれるのではないかと期待したが、甘かった。想像以上に難攻不落だ。
(でも、ここで諦めるわけにはいかない)
少女が去ったあとのドアを、オズモントはしばし見つめていた。
右手で顔を撫で、ソファに深く沈む。
彼女がオズモントの部屋を訪ねたのは、これで何度目だろうか。ある日突然やってきて、
「ここへ来たはずの、眼鏡をかけたスーツの男性を知らないか」
と、訊いたのである。
あまりに唐突な質問だったが、オズモントは慌てずに、知らぬと答えた。
少女――リカ・タルヴィティエの尋ねた人物を、オズモントは確かに知っている。だが彼は平凡な男ではない。一般人が気安く踏み入ってはならない、裏の世界に身を置く者だ。たとえどんな理由があろうとも、みだりに表社会と裏社会の垣根を越えてはいけないのである。
オズモントは一般人の立場にありながら裏社会とも繋がっているが、それは彼自身の意志による結果だ。表と裏の境目をうろついている自分に何が起きても、すべて覚悟の上である。
しかし、リカはただの女子大生だ。表社会で平穏な人生を送る、か弱き乙女である。そんな彼女を裏社会の住人に近づけるなど、出来るわけがない。問題の男の人となりとは関係なく、教育者として、人生の先輩として、そう考えるのは当然だった。
とはいえ――。
「命の恩人、か」
リカがただ単に、容姿端麗な男に恋をしたために会いたいのだ、と主張するのなら、彼女の願いを叶えなかったとしても、心はそう痛まなかった。
だが、命を救われたからお礼が言いたい、となれば、完全に無視してしまうのはためらわれる。
会いたいがための嘘だろうか。それならこのまま知らぬ存ぜぬを貫けばいい。
では、真実ならば?
「さて、どうしたものか」
ポーカーフェイスの老生物学者は、珍しく頭を悩ませるのだった。