TRACK-2 アーバン・レジェンド・クラブ 4
ワーズワース大学の正門から学舎へと続く道沿いには、広々とした緑地帯が設けられている。芝生が絨毯のように地面を覆い、そこかしこに植えられた欅や楡がさわやかな木陰を落とす、和やかな場所だ。
緑地帯にはベンチやテラステーブルが置かれ、学生らが勉強したり、ランチを広げたり、談笑したりと、銘々の時間を過ごすために活用していた。
今日の全講義は、三十分ほど前に終了した。授業から解放された学生たちが、緑地帯でゆったりと時間を潰している。サークル活動に精を出すグループもいれば、さっそく宿題にとりかかる真面目な者もいる。特に用のない者は、いそいそと帰路につく。七月に大惨事に見舞われた時のショックなど、とうにどこかへ消えてしまったかのように、構内の日々は平穏だった。
だが、破壊されてしまった学舎は、未だ修復工事中だ。順調に進んでいるものの、年内に完了するかどうかは怪しかった。
緑地帯からは、修復工事現場が見える。学生も教職員も、建て直されている学舎の姿が視界に入るたびに、七月の悪夢を思い出さないではいられなかった。
あの日の悪夢を忘れたいがために、皆、努めて明るく過ごしているのかもしれない。
そんな風に、リカ・タルヴィティエは思った。
それなら私も同じだと、ほんの少し共感を覚える。
自宅に帰るため、正門までの道を歩いていたリカは、ふと足を止めて来た道を振り返った。腰まで届きそうなほど長い髪が、優しい風に吹かれてかすかに揺れる。その髪は、薄い色味ながらも明るく輝く赤毛で、非常に珍しい髪色である。
体形はスレンダーで、女性にしては背が高い。百七十センチは優にあるだろう。クリーム色のカットソーと青いタイトワンピースという服装は、シンプルながらも、十八歳という年齢にふさわしい爽やかな印象を与える。ニーハイソックスとダークブラウンのローファーを履いた足元は、彼女の脚線美を引き立たせていた。
孔雀藍の瞳で見つめるのは、学舎修復工事現場だ。手前の棟に阻まれて全容は見えないが、クレーンの頭が動いている様子は確認できた。
リカの視線は、工事現場から緑地帯へと移る。大勢の若者たちが、青春を謳歌している場所へ。
彼らの中には、事件当時、破壊された学舎の中にいた者もいるはずだ。あの日に受けたショックから立ち直れた者、未だに苦しめられている者。衝撃的な事件は、様々な形であちこちに爪痕を残した。
あの事件がどれだけ恐ろしいものだったかは、多くの人々が理解している。
しかし、“どれだけ重要な出来事だったか”に気づいた者は、果たして何人いるだろうか。
あの時。リカも現場に居合わせた。
そして出くわしてしまったのだ。
恐ろしい、白い悪魔に。
――見つかってしまった。
そう思った。
思い出しただけで身体が震える。
金風の吹く季節にはまだ早いというのに、リカの背筋に冷たいものが走った。無意識に、自分を抱くように両腕を交差する。
肩にかけたバッグの中から携帯端末が鳴った。NCTでメッセージを受信した音だ。のろのろと片手をバッグに突っ込み、端末を取り出す。
画面を見れば、メッセージの差出人は友人のスーだった。ツールを開き、メッセージを確認した。
【おまたせ! 見つかったよ!】
簡素な一言だった。メッセージにしろ実際の会話にしろ、スーは主語を飛ばして結果を話す癖がある。付き合いが長ければ、彼女が何について話しているのか、それまでの流れで察しがつく。だが、このメッセージは脈絡がなさ過ぎて、話題の見当がつかない。
【何が見つかったの?】
と返すと、数秒後に新たなメッセージが送られてきた。
【決まってんじゃん、例の人だって! リカの愛しの“氷の王子様”だよ】
氷の王子様、という雅な単語を見た瞬間、リカの心臓が跳ね上がった。慌てて返信文を入力するが、興奮で指先が小刻みに震え、タッチキーを上手く打てない。
【本当に!? でも、どこを探しても画像は無かったって】
なんとかそれだけ返信した。すると画面が切り替わり、電話の呼び出し音が鳴り出した。電話の相手はスーだ。
「もしもし」
端末を耳に当てた途端、スーの甲高い声が鼓膜を直撃した。
『あんたねー、私を甘く見てるでしょ。ネット散歩が趣味のこの私だよ。見つからなかったー、で終わらせたままなんて、プライドが許さないの』
高校時代からの友人、スーことスーセントマリエ・コネルは、暇さえあればコンピューターにかじりついている、インターネット中毒者だ。加えてアニメやコミックに心酔するオタクである。大学には進学せず、アルバイトで自立した生活を送っている社会人なのだが、稼ぎのほとんどを趣味につぎ込んでいる。そのため、同じ年頃の女の子のようなおしゃれには興味を示さず、色恋沙汰にも無頓着だ。
変わり者呼ばわりされているスーだが、根が真っ直ぐで裏表がないので、リカにとっては信頼できる大切な友達である。
リカは、あるお願いをスーにしていた。それはあの事件当時、大学にいたであろう人物の画像をネットから探し出してほしい、という内容だ。
大学には、あちこちに防犯カメラが設置されている。あの日“彼”が構内にいたのであれば、きっとどこかのカメラに映り込んでいるはずだ。そう考えたリカは、こういった分野が得意のスーに頭を下げたのである。
スーはというと、面倒臭がるどころか、大張り切りでリカの依頼を引き受け、さっそく画像探しに取り組んだ。
セキュリティの敷かれた防犯カメラの映像といえども、何かしらのルートによってインターネット上に流れてしまうもの。スーはそういった“拾い物”の集まるサイトを渡り歩き、“彼”が写っている画像を探し回ったのだ。
始めのうちは、該当するものがまったくヒットしなかった。スーが言うには、
「事件直後に、流出した画像が消去されたみたい。しかも徹底的に。手ごわいね」
ということだった。
スーがネット関連でお手上げ状態になることは滅多になかったので、リカは大いに落胆してしまった。
だがリカよりも、スーの方が諦めていなかったらしい。プライドと執念をかけ、微に入り細を穿って調べ上げてくれたのだ。
『あんたから聞いてた特徴が、すっごい個性的だったからね。氷の剣を持ったスーツの男、なんて、どこのアニメキャラよって感じじゃん? だからこれは、リカの“氷の王子様”に間違いない。いやー、本当にいるとはねー』
「スー、その“氷の王子様”っていうのは、ちょっとやめて?」
聞いているリカの方が恥ずかしくなる単語だ。捜してほしい人物の特徴を伝えてすぐに、スーが命名してしまったのである。
声を潜めるリカに対し、端末から聞こえるスーの声は実に楽しそうだ。
『いいじゃんいいじゃん。まあ、それより画像だよね。いくら徹底的に削除したっていっても、どこかに見落としがあるもんよ。根気さえあれば見つけられるってことを、この私が証明したってわけ。たった今、画像を端末に送ったから、確認して』
言われてリカは通話を保留にし、端末をチェックした。たしかに、一件のファイル添付メッセージを受信している。
逸る気持ちを抑え、添付の画像ファイルを開いた。
表示されたのは、どこかの街中だ。夜間らしく、背景にネオンが輝いている。その画像の中心には“彼”が写っていた。
片手に蒼い光を抱く剣を携えるスーツ姿の男。黒い髪と端麗な顔立ち。眼鏡の奥には、寂しげな碧の瞳。
リカは孔雀藍の眼を見開き、画像の中の“彼”を見つめた。
――ああ、やっと……。
長い間、胸の内に秘めていた想いがこみ上げてきて、瞼の裏が熱くなる。
目尻からこぼれ落ちそうになったものを慌てて拭った。画像を保存し、保留にしていた通話を再開する。
「スー、ありがとう。間違いなく彼だわ」
声が震えているのを悟られないよう、リカはゆっくりと話した。スピーカーの向こうから、スーの歓声が上がる。
『やったあ! 王子様との再会、果たせたね』
「うん。本当にありがとう、スー。でも、再会って言うにはまだ早いわ」
『言うだけならタダだからいいの。にしても、こんな美形だとは思わなかったよ。もう完璧王子様じゃん』
「う、うん」
スーは画像についての補足説明をした。
撮影されたのは七月。ロックウッドでも怪物が現れ、街が大混乱に陥った事件が発生した。その時、怪物とたった一人で戦っていたのというのが、この画像に写っている“氷の王子”だ。
彼の勇姿と怪物は、多くの野次馬によって端末撮影され、NCTにアップされたことだろう。だが画像及び動画は、事件直後にことごとく削除されたらしい。スーが拾い上げたのは、辛うじて削除の難から逃れられた一枚なのだ。
ロックウッドの怪物事件の話は、リカの耳にも届いている。あちらの一件も大学の事件同様、かなりの騒ぎになった。どちらの事件も同じ月、近い日にちで起きている。双方に関連性があるのは明らかだった。
だが、やはり解決には至っていない。
『で、なんでこの人を捜してるのかとか、捜し出してどうするのかとか、そういうところは訊いちゃダメなんでしょ』
痛い部分をずばりと突くが、空気も読めるのがスーセントマリエ・コネルである。
「ごめんね、スー。ここまでしてくれて本当に感謝してる。でも、今は話せない」
事情を打ち明けるとなれば、リカ自身の秘密をも明かさなければならなくなる。スーならば、リカの秘密を知ったからといって、離れて行きはしないだろう。だが、それによって彼女を巻き込むことになる可能性がある。大切な友達を、自分の不注意で失うなど、決してあってはならないのだ。
スーにもしものことがあれば、リカは一生自分を許せない。
『ま、いいよ。リカがあんなに熱心に頼み事するなんて、滅多になかったからね。ちょっと張り切ったんだ。頼ってくれて嬉しかったよ』
スーの朗らかな声が、耳に心地いい。
『せっかく拾い上げたんだから、上手に使いなよね、その画像』
「うん。ありがとう」
画像のお礼に、人気店の限定パフェを奢る約束をして、電話は終了となった。
スーには心から感謝している。こちらが隠し事をしているにも関わらず、何も聞かずに協力してくれたのだ。後ろめたさは残るが、スーが与えてくれたチャンスは、活かさなければならない。
携帯端末のディスプレイに、再び彼の画像を表示させる。
三年間、ずっと会いたいと願ってきた。どこの誰かも分からない相手を、当てもないのに闇雲に捜した。
端末を握り締め、リカは学舎へと戻るのだった。




