TRACK-2 アーバン・レジェンド・クラブ 2
クライスト学園は、中高一貫制の私立校である。
アトランヴィル・シティ第九区グリーンベイのほぼ中心地にあり、同区ではもっとも有名な学校だ。
夏休みはとうに終わり、新学期を迎えた生徒たちは、気持ちも新たに勉学に取り組んでいた。
とはいえ、まだ完全に長期休暇気分が抜けきっていない時期である。夏休み明けの月末にはテストが待ち受けているという現実から、どうにか目をそらそうと、誰もが躍起になっていた。
そんなクライスト学園の高等部では今、二つの話題で盛り上がっている。
話題の一つは、二人の編入生についてだ。
放課後、校庭の球技場スタンド席の一箇所に、人だかりが出来ている。授業が終わり、クラブ等に所属していない生徒たちが、物見遊山で集まってきたのだ。
授業以外での球技場は、フットボールクラブが練習活動に使用している。クライスト学園のフットボールクラブは、大きな大会の出場常連チームであり、学園の花形ともいうべき存在だ。卒業生の中には、プロチームに所属し、スター選手にまで登りつめた者もいる。
学園のフットボールクラブに所属する男子生徒は、当然のように女子生徒に人気が高い。クラブ活動日には、スタンド席に女子生徒が押し寄せ、目当ての選手に熱い視線と黄色い声援を送っている。
いつものように集まった女子生徒らが、きゃあきゃあとはしゃいでいるのだが……今日は少し事情が違っていた。
スタンド席に集まった顔ぶれに、普段フットボールに興味を持たない生徒らが含まれているのだ。
彼らが珍しく球技場を訪れたのは、噂の編入生の一人を見たいがためだった。
フィールドのセンターサークルに、少年と少女が向かい合って立っている。東側にいるのはこのクラブのエース、高等部一年生のエリックだ。ツンツンと立った短い髪に、白目勝ちの双眸――いわゆる三白眼というやつである。その目のせいで近寄りがたい雰囲気を醸し出している彼だが、純粋にフットボールを愛する真面目な少年だ。
エリックは練習用のユニフォームに身を包み、向かいに立つ黒髪の少女を睨みつける。敵意を隠そうともしないエリックの眼差しに、しかし少女は怯みもしない。
「呼び出して悪かったな編入生。時間を割いてくれたことには、一応感謝する」
少しも悪気を感じている口調ではないが、彼なりに相手を気遣っているのだった。
エリックの言葉に、黒髪の少女は首を横に振った。
「別にいいよ、全然不愉快に思ってないから」
小柄な少女だ。エリックと並べば、頭ひとつ分は優に差があった。艶やかな漆黒の髪は顎のラインで切り揃えられ、大きな瞳は明るい橙色である。エリックと違って制服姿で、スカートの下にはスパッツを履いていた。
「でもさあ、クラスメイトなんだから、そろそろ“編入生”じゃなくて名前で呼んでくれないか。ボクにはちゃんとシェン=ユイって名前があるんだけど」
黒髪の少女――シェン=ユイは、やや不満気に唇を尖らせた。
「な、名前なんかどうでもいいだろ。今日はそんなことで呼び出したんじゃねーよ」
エリックは両耳を赤く染めた。周囲の目が気になるのか、そわそわしている。
「この前のリベンジだ。今日こそお前に黒星付けてやる」
先週のことだ。放課後、いつも通りに練習していたフットボールクラブに、突如乱入してきた生徒がいた。その生徒は、スパイクも履かずにフィールドを駆け、クラブ員たちの足元から軽やかにボールを奪い、あっさりとゴールを決めた。
何人もの部員が乱入者と勝負したが、誰一人として、相手からボールを奪い返すことが出来なかった。エースのエリックでさえ、手も足も出なかった。
予測不可能な動きで部員を圧倒し、気が済んだらさっさと姿を消した。その乱入者というのが、シェン=ユイなのだ。
強豪と名高いチームの部員が、たった一人の少女に翻弄された。このニュースは瞬く間に全校に広まり、少女は時の人となったのである。更には、新学期に編入してきた同学年生とくれば、校内生徒の好奇の目線を集めるのに不思議はない。
「リベンジって言ったって、ボクは勝負のつもりじゃなかったんだけど」
「だったら余計にだ。勝負するつもりもなかった奴に、あんなふうにコケにされたままで終われるか!」
「コケにした覚えもないよ。ボクはただ、学校のスポーツクラブがどんなものなのか、ちょっと体験したかっただけだってば」
ユイはフットボールクラブを陥落させた後、他のスポーツクラブも尋ね、次々と攻略していったらしい。彼女の驚異的な身体能力とスポーツに対するセンスを買い、各クラブのコーチや監督がスカウトしたが、彼女はどの誘いにも乗っていないという。
エリックは唇を噛み締め、ユイに人差し指を突きつけた。
「そんな片手間気分の奴にやられちゃ、俺たちの立つ瀬がないんだよ。お前に勝たなけりゃ、クライスト・フットチームの名折れだ!」
エリックは、クライスト学園フットボールクラブの一員として、誇りを持っている。
小学校に入ってからずっと、大好きなフットボールに青春のすべてを注ぎ込んできた。ひたすら真面目に、ストイックに、フットボールと向き合ってきたのだ。
それなのに、エリックが何年もかけて積み重ねてきた努力の成果を、突如現れた編入生の少女が、あっという間に飛び越えてしまったのである。これを悔しいと思わずになんとしよう。
シェン=ユイに敗北したその日から、エリックの頭の中は、「彼女に勝つ」という執念で満たされたのだった。
エリックは剥き出しの競争心を、ユイにぶつける。しかしユイは、やはり平然としていた。勝負を申し込まれたというのに、緊張感の欠片もない。自分が勝つことに疑いを持っていないのだ。そんな態度も、エリックには癪に障る。
「困らせたのなら謝るよ。そんなつもりじゃなかったんだ。ごめん」
すまなそうに頭を下げるユイ。だがその謝罪は、エリックの炎を更に燃え上がらせるだけだった。
「謝んな! こっちが余計に惨めになるだけだろ!」
「そんなこと言われたって」
「問答無用だ編入生! つべこべ言わずに俺と勝負しろ!」
エリックは足元に転がしていたボールを、右足で引き寄せ、改めてシェン=ユイを見据えた。ボーイッシュであどけない少女は、エリックの眼差しを正面から受け止めている。
(俺はお前に勝つ! プロ目指してる奴の根性なめんじゃねえぞ!)
エリックのスパイクが、フィールドの芝を蹴った。前傾姿勢でロケットスタートを切る。
周囲のギャラリーから、どよめきが起きた。はっとエリックが前方を見ると、そこにユイの姿はない。
(どこに――!)
小柄な少女の行方を捜そうと、視線をめぐらせた瞬間。エリックのすぐ側を、風が吹き抜けた。ほぼ同時に、足元が軽くなる。まさか、と思って風の通り過ぎた方向に首を傾けると。
そこにはシェン=ユイの姿があった。一瞬のうちにエリックから奪ったボールを、華奢な両足で跳ね上げ、軽やかにリフティングしている。
見えなかった。彼女の動きがまるで見えなかった。いったいいつボールが奪われたのか理解出来ない。
「はい、じゃあ一本ね」
呆然としているエリックに、ユイは無邪気な笑顔を見せる。
ドリブルするより早く、あっさりとやられてしまった。その衝撃を振り払い、エリックは方向転換する。
「ま、まだだ!」
果敢にボールを奪い返したエリックは、ユイとの距離を空ける。どんなに運動センスがあろうとも、動作の前には何らかのモーションがあるはずだ。それを見極めれば――。ユイの動きに神経を尖らせ、一挙手一投足に球目する。
が――、
ボールはいつの間にか、また彼女の足元に移っていた。
「二本目だね」
「うるさい! 勝負はまだ始まったばかりだ!」
かくして、少年と少女の戦いが始まったのだった。
フットボールクラブのエースと編入生少女の勝負で、校庭側が賑やかになっている同じ頃。
二年生の教室が並ぶ廊下の片隅に、別の男子生徒と女子生徒がいた。
男子生徒は女子生徒を、壁際に追い込んでいた。女子生徒越しに左手を壁に当て、逃げられないようにしている。
「そろそろ返事を聞かせてほしいんだけど」
男子生徒は、甘ったるい声で囁くように言った。彼――ギャビンはエリックと並ぶ学園の有名人で、数々の女子生徒と噂になったプレイボーイである。雑誌のモデルをやったこともあるという、容姿端麗な少年だ。
「僕は自分から女の子に『付き合ってほしい』って、あまり言わないんだ。仲良くなろうと近づいてきてくれるのは素直に嬉しいけど、僕と付き合うにはみんな似たり寄ったりで、正直なとこつまらない」
彼に想いを寄せる女子生徒は多いというのに、彼女たちが聞いたら泣いてしまいそうなセリフだ。恥ずかしげもなく悪びれもせず言えるのは、自分のルックスに自信があり、もてているということをステータスにしているからに他ならない。
ギャビンがにこりと笑いかければ、女の子たちは舞い上がって黄色い声をあげる。校内でも、街中でも同じだ。ギャビンはどこへ行っても、女の子たちの話題の中心だ。そのことを、ギャビン自身楽しんでいる。
彼がこんな風に、壁際で甘い言葉をかけたなら、普通の女の子ならばたちまち落ちてしまう。自分の容姿と言葉にどんな威力があるのか、ギャビンはよく理解し、うまく使い分けてきた。そのおかげで、学園一の王子になれたのだ。
ところが、今回は雲行きが怪しい。
「ねえ、編入生さん。君は僕が今まで出会ってきた子とは全然違う。君と一緒なら、毎日が楽しいだろうね」
壁に背をつけた女子生徒は、ギャビンに対し、あろうことか鼻で笑ったのだ。
ほっそりとしたシルエットの少女だ。ゆるくウェーブのかかった長い髪は色素が薄く、白に近い金色である。ふさふさの睫毛に覆われているのは、澄みきった空色の目。肌は抜けるように白く、滑らかだ。
ギャビンが出会ってきた中でも、飛び抜けて美しい少女である。夏休み明けに彼女が学園に編入してきた時、ギャビンは真っ先に声をかけた。だが、彼女はギャビンを一顧だにせず、全く相手にもしなかったのだ。
そんなことは、今まで一度もなかった。これは由々しき事態である。
稀に見る美少女で、他の男子も狙っている。彼女と同時に編入してきた一年生の少女も、何かと注目を浴びる話題の存在だ。
ロゼット・エルガー。これほど落とし甲斐のある相手はいない。
「それで、どう? 僕と付き合ってみる気になった?」
伏せられていたロゼットの目が、ギャビンを見上げる。百合のように清らかでありながら、どこか艶めかしさも秘めたその目に、ギャビンは思わずドキッとする。
「冗談でしょ?」
「ロゼット、僕は冗談でこんなこと言ったりしない。本気だ」
「そう? 本気だとは思えないけど。あなたはただ単に、自分のステータスを上げてくれる相手が欲しいだけ。自分を引き立たせ、注目を集めてくれる相手しかいらない。でしょ?」
辛辣な返しにギャビンはたじろいだが、面には出さなかった。自分に対してこんな口を利いた女子も、彼女が初めてだ。
「そんなことはないさ。僕はいつだって本気だ」
「それなら、一度に四人と付き合っていても、その誰もがあなたにとっては本気だというのね。それってあなたには都合のいいことだろうけれど、女の子にしてみればいい迷惑だし、馬鹿にしてるのと同じよ。ただ単に“軽い男”だという印象しか、私にはない。軽い男はいらないわ」
ロゼットの言葉は、いちいちギャビンの胸に突き刺さる。それは、自分の軽薄さを無意識に自覚しているからなのだが、ギャビンは気づいてない。
どんなに甘い言葉でもまったく靡かず、それどころかどんどん冷めていくロゼットの態度に、学園の王子は苛立ち始めていた。
「四人も同時に付き合っているつもりはない。向こうが勝手に盛り上がってるだけさ。僕の本命はただ一人だ」
「本命がいるのに、私を口説こうとしてるわけ?」
「君がその本命だからだよ」
「あらそう」
ロゼットは冷めた目つきでギャビンを睨つけると、おもむろに制服のジャケットから携帯端末を取り出した。
「聴こえたわね? そういうことだそうよ」
耳に当てずに、ロゼットは端末に向かってそう言った。
「な、何をやってるんだ?」
「どうってことないわ、スピーカーをONにしてただけ」
ロゼットは白い掌に収めた端末を、画面をギャビンに向けて振ってみせた。画面に表示されている通話相手の名前は、彼がよく知る人物のものだった。その名を見た瞬間、血の気がざあっと引くのを、ギャビンは感じた。
「あなたの“彼女”が私に言いがかりをつけたの。私があなたを誘ってるって。自分からあなたを奪おうとしてる泥棒猫だって。不愉快だから『あなたの彼氏はただの女好きで、見た目が良ければ誰でもいい馬鹿男だ』と言ってやったわ。そうしたら逆上するから、だったら本人の口から聞けばいいと提案してあげたの。彼女のヒステリー、すごいわね。あなたととっても話したがってるから、ちゃんと聞いてあげるのよ」
「な、な、な、何だって……!?」
ギャビンの目尻と口元が引き攣った。女の子を虜にする甘いマスクは剥がれ、このあと訪れるだろう修羅場に怯えを隠せない。
「ちなみにすぐそこにいるから」
ロゼットが言うや否や、ギャビンの背後の教室のドアが、勢いよく開いた。
弾かれたように振り返ったギャビンが見たのは、屈辱で顔を紅潮させた四人の少女の、怒りの形相だった。
「どうして四人も!」
「一人しかいないなんて言ってないわ」
うろたえている隙に背中を突き飛ばされ、ギャビンはたたらを踏んで、“彼女たち”の前に押し出された。慌てて顔を上げれば、恐ろしい顔つきで睨みつける四対の双眸。
ギャビンの頬を、厭な汗が一筋垂れ落ちる。
「じゃあ、私、帰るわね」
絶体絶命のピンチを迎えたギャビンの背に、ロゼットの無情な一言が投げつけられた。引きとめようと振り向くも、足早に立ち去るロゼット・エルガーの後ろ姿は、早や廊下の向こうへ消えるところだった。
廊下を曲がった直後に、背後から男の情けない悲鳴が聞こえてきた。ロゼットは振り返ることなく、ただ静かに首を振る。
「馬鹿ばっかり。嫌になる」
夏休み明けにクライスト学園に編入してきた二人の少女。
彼女たちは意図していないのだが、何かと注目を浴びる日々だった。
そんな二人さえも、いや、この二人だからこそ気にかけている、学園のもう一つの話題があった。
 




