(File43)鎌田正信の殺意⑫
島崎鳴海は卵殻の中にいるヒナと同じ状態だった。
卵殻の約94パーセントは炭酸カルシウムでできており、その厚さは約0.28mmだった。気孔の数は7,000~17,000個程度で、ここから酸素を取り入れ、内部で発生した空気と交換していた。
卵殻は、島崎鳴海が作り出した、心の状態だった。
失血多量による峠を越え、現在ではすでに意識は回復しているはずだった。
だが精神の方がそれを拒んだ。
――"自分は愛されなかった"。
――"自分は必要のない人間だ"という経験が、生きることを諦めようとしていたのだ。生きて、こんな思いをまた味わうくらいなら、もう生きなくていい。本気でそんなことを考えてしまっていた。
卵殻の表面にはクチクラ層がある。
これは微生物から、内側を守る防壁のようなものだ。
ヒナが外に出るためには、この安全な環境を打ち破って、危険な外の世界へと踏み出なければならない。
それが自分にできようか。
――いや、できない。
意識は混濁していった。
ヒナ鳥が卵殻を割らずにそのまま居残りを決めた場合、そこに待つ運命は"死"しかない。
だから、本当は壊さなければならないのだとわかっている。自分の殻を。
とりあえず、コンコンと軽く叩いてみる。
硬い。とても自分ひとりの力では壊せそうにない。
それでも叩く、叩く。生存本能が働くからだ。
コンコン……、ガンガン……、バンバン……。
壊れない。壊せない。そりゃあそうだ。
自分の心なんて、もう死んでしまっているんだから。
西村くんだってそうでしょ。
西村くんは違う。
西村くん。会いたいよ。
私の心の迷宮も、いつもみたいに推理して解き明かしてよ。
ねえ、西村くん。
「島崎さん。もういいんじゃないですか」
卵殻の中に、ふと、西村の幻影が現れた。
「あなたはよく頑張りました。私を主役にしてくれてどうもありがとうございます。どうぞ安らかにお眠りください」
そこにいる西村はなぜか冷酷だった。
カラに背中を預けて、微笑を浮かべている。
「違う。あなたは西村さんじゃない」
「どう違うの、鳴海」そこには母親もいた。「あなたねえ、恋人の顔も識別できなくなったの?」
「違う。あなたもお母さんじゃない」
「なにを言っているの。お母さんよ」
「そうですよ。そして私は西村京三郎ですよ」
「違う違う。私は、私は」
手の平があたたかくなった。
これは物理的に保温されているのだろうか。
なんだか人肌のようなぬくもりを感じる。
耳の鼓膜が、肉声を捉える。
だが、脳がその情報を処理できていない。
私は、目覚めなければならない。
だれかに呼ばれているような気がするから。
「私は、私を探してくるよ」
そう卵殻を力の限り殴打すると、視界が真っ白になり、目がくらんだ。




