(File40)鎌田正信の殺意⑨
鎌田正信は生殺与奪の権を奪われて、心の底から傷心していた。
もう終わった。
何もかもがうまくいかない人生だった。
そう半生を振り返る。
「お兄ちゃんはねえ、」
それが母親の口癖だった。
「お兄ちゃんはねえ、部活動をやらせたら、いつだってレギュラーに選ばれているわ。それがあなたは何? 補欠? 代打だか代走だか守備要員だか知らないけどねえ。さすがに恥ずかしくて、あんたの試合なんか観に行けないわ!」
中学生になって、初めて本塁打を打ったときには、思わず母親に自慢してしまったものだが、そう辛辣に返されたことを鎌田正信は覚えている。
「お兄ちゃんはねえ、彼女もいるし、友達も大勢いるし、おまけに勉強もできるのよ。それがあなたは何? たかだか1科目だけ100点とったからって、バカみたいにあわててすっ飛んできて。わかるかしら? お兄ちゃんはねえ、毎回この点数なの! たかだかこれくらいのことで浮かれないで頂戴!」
得意教科で初めて満点をとったときも誉めてもらえなかった。
「お兄ちゃんはねえ、」
学校の授業をサボって、公園のベンチで佇んでいたら、またあの忌々しい肉声が耳に届いてきた。ただしそれは鎌田正信に向けられたものではなく、住宅街の歩道で井戸端会議をする主婦同士での会話だった。
「利発的で気が利くし、みんなから好かれる人気者だけどねえ……」
鎌田正信は、なるべく声を聞かないようにしようと、ぴゅるると口笛を吹いて、それについても、「お兄ちゃんはねえ、そんな蚊の泣くような音で口笛を吹かないわ。それがあなたは何? 口笛も満足に吹けないわけ?」そうののしられたことを思い出してうつむいた。
「正信はダメね。親の言うことなんか全っ然聞かない! もう我が道を行く、ただそれだけ! お兄ちゃんはねえ、私の言う通りにしたから、あんなにいい子に育ったのよねえ。本当に同じ兄弟なのかって疑っちゃうくらい!」
へええ、と感嘆する主婦たちだが、そのエピソードは捏造だった。鎌田正信は怒鳴りたくなる気持ちを自制する。遊んでばかりで家事については歯牙にも掛けないのが兄貴で、親の目ばかりを気にして、なんとしてでも好かれようとへつらってきたのが自分だと、そう自信を持って言えるからだ。
「いやねえ。うちなんて一人っ子だから、もう一人産んでおけば良かったわ!」
「あらやだ。お宅だって、立派なお子さんがいるじゃないの!」
「鎌田さんとこのお兄ちゃんと比べたら、大したことないわよ!」
「またまた、そんなこと言って。お上手ねえ!」
買い物袋を地面に下ろしながら、きゃははと笑う母親の声が憎らしかった。
「くそ、誉められるのはいつも兄貴ばかりだ。兄貴だって、俺と同じように、不幸な目に遇えばいいのによ」
鎌田正信は目元をこすりながら、呪詛のように呟いた。
彼にとって、兄とは、コンプレックスの権化のような存在だったのだ。




