奴隷
人はなぜ生きるということに、そう簡単に飽きないのだろう。いや、違う。本当は飽きている。けれど、「在りたい」というのは、存在の基本に刷り込まれた、唯一絶対の、しかも最上位に位置する価値観なのだ。多分。生きたくて生きているではなく、終わりに対する忌避感が、根源的に植え付けられているのだろう。生き物だから度し難い。
とことん飽きているのに、倦みきっているのに、「よろしかったらどうぞ」とくれば、さもしく、懲りずに「じゃあ、一つよろしくオネガイシマス」と、そういうことだ。
年を取りたくない。いや、中高年の姿のほうが、今の気分にふさわしい、永遠の赤ん坊は周りが迷惑するからそこはいま一つどうか、一切合切、美しくありたい、醜くありたい、個性的で、いかにも整形見え見えに、いやいや、なるべく没個性に……。全くもって欲望は満たされる都度、満たされたということを忘れてしまうものらしい。死ぬことすら、取りあえずやってみることができるとなれば、小さな見栄や好奇心で、簡単にその尊厳の一番デリケートだった部分を越えてしまう。
だから、罪なき単純な欲望は、ほどほどにしないと醜く惨めな毒になる。
町並みは一見、歴史映像で見る、千年以上前の必然的に死す人々がいたころと変わらない。大人も子供も、年寄りも若者も、見かけの美しい人も、醜いと評するしかない人も、ちゃんと存在して見えるが、更新する人ばかりなのが現状だ。新しい命に見える赤ん坊でさえ、一回や二回は老人だったに違いないのだ。
もっとも、赤ん坊を楽しみたいなんていうのは、変わり者と相場が決まっている。幼く、やわらかく、未発達な脳に、積み重ねてきたすべての記憶を乗せることはできない。だから、人であろうと、機械であろうと他者の手間暇を借りることを前提にするしかない。つまり、自分に戻れない可能性も踏まえてのやり直しになる。
それは贅沢なことかもしれないし、また賭けという娯楽でもあるのかもしれない。
本来、命がはじまるときというのは、誰もそれを自分で選んではいない。下手をすると与える側にいる方でさえ、意図していなかったりするかもしれない。
それは、境遇や立ち位置、富の多寡や健康状態などといった分かりやすい尺度で計れる幸福度ですら、意志で選べないのと似ている。
命ではなく、意識とか、自我と言い換えていいなら、マンもボックスも、こんなふうにあろうとなど、一度として考えてここにいるわけでない。
有機物かそうでないか、創造主が不明か明白か程度の違いで、彼らは王であり、我らは奴隷である。