さて、仕事に取りかかろうじゃないか
愛する人に食べさせたい。
長年この仕事をしてきたが、中でもとびきり奇妙な部類に属する希望だろう。生命と思考に対する理解と解明が進んだ現在において、人という生き物はおそらく物理的な意味と、時間的な意味での永遠を手に入れた。もちろん「金」がある場合に限定しての永遠だけれど。
人生においてのどの時間軸からでも、どれだけの成熟度からでも、記憶の分岐、つまり大きな人生の分岐となった出来事によっても、あるいは全くのすべて、好きな場所から好きに人生を再生できる。
それが恩恵だったのかどうかは、今の退廃したというか、倦みきっているくせに表面だけは華やいで見える世界が、好きか嫌いかだけで判断すればいいだけの話なのかもしれない。
ともあれ、課せられた仕事の難易度が高いからなどと文句を言うのは、美しくない。むしろ、今まで積み重ねてきた経験と、学んできた知識を総動員して、クライアントの希望を叶えることだけが、仕事なのだ。
まずはちゃんとオーダーシートを読み込むのだ。本当にどんな最期を望んでいるのか。クライアントの希望は、ボックスにとって許容できうるものなのか。
たとえば、加害者がサディスティックな変態で、愛するものを殺して食するという行為に対して、鈍感であれば手間という点から見て、難易度は格段に下がる。逆に精神的に追い詰められてなお、殺すという行為にも、捌いて食べるという行為にも拒絶感を示すような種類の人間だと、この依頼は相当困難だ。
クライアントの希望を叶えるために、加害者の人権に配慮しつつ洗脳する許可をボックスがくれたとして、彼のこの先の在り方まで全て変えてしまう形まで許可がでるとはかぎらないし、そうなるとやりようは相当に制限されてしまう。
もちろん、このクライアントが我が社を選ぶにあたって重視したのは、他の法令のぎりぎりを縫うようなタイトな仕事を嫌うおざなりなLD業者ではないというところに違いない。こんなレアな要望には、マスターたちの業者では、なかなか取扱いきれないだろう。色々な意味で。
もっとも、我々のような業者がいるからこそ、こんなマニアックなニーズが、依頼として成立するのかもしれない。
とはいえ、この世界で踏んだ場数には自信がある私でさえ、軽く5分はフリーズした。並の業者であれば、受けた途端、発注者を医療連携プログラム送りにするだろう。
ともあれ、こんなものでまで遊んでしまうのは、宗教用語で言うところの「業深い」ということだろう。まあ、魂などマスターたちが抱く幻想だ。我々には関わりの全くない世界で間違いない。だからこそ、我々は繊細に美しく、確実な仕事をしようではないか。
私達らしく。