一話
ぐつぐつと鍋の煮立つ音。
包丁のリズムのいい音が響き、辺りには鼻腔をくすぐる匂いが広がっている。
初めて足を踏み入れた台所は広く、使い込まれているようだった。
あまり料理をしなく、台所に立たない彼女でも使い勝手が良かった。
一生懸命慣れない料理に奮闘する少女。
「あ、出来たかな?」
そっと鍋のふたを開けると、野菜がたっぷり入った味噌汁の香りが台所に充満した。
少女が満足そうに微笑んでいると、驚く声が聞こえ、ふと顔を上げる。
「夏梨様!?」
血相を変えて飛び込んできたのは梶だ。夏梨はきょとんとして動かしていた手を止める。
「何をしているのですか!?」
「な、何って……朝食の準備、ですけど……」
戸惑う夏梨の言葉に、梶は驚いた面持ちで口を開く。
「夏梨様にこのようなことをして頂くわけにはまいりません」
「あ、あの、料理は上手くないですけど、このくらいは大丈夫です!」
慌てて夏梨は手を振り、ばつの悪そうな顔をしている梶に頭を下げた。
「勝手に使ってすみません」
何も言わず、勝手に使ったことに怒っているのだと思ったのだ。
謝罪する夏梨に驚く梶は、細く息を吐く。
「いえ……好きに使っていただいて結構なのですが、その……あまりこのようなことは」
小首をかしげ、梶を見上げていた夏梨は噴き出した鍋にはっとする。
慌てて火を止め、胸を撫で下ろす。
「あの、一緒に作りませんか?」
ひとりであの分の料理を作るのは無理だ、そう判断した夏梨は梶に向き直る。
「そんなに上手くは作れないんですけど……」
「ですが――」
尚も止めようとする梶。
しかし、じっと見つめてくる夏梨に諦めたように肩を落とした。
「わかりました……よろしくお願いします」
その言葉に、夏梨の顔に安堵の色が広がる。
梶は微苦笑して、その姿を見つめた。
「では、夏梨様。煮物をお願いします」
「はい」
頷いて返事を返すと、いそいそと野菜の入った冷蔵庫へと向かい、梶は手を洗って別の作業へと取り掛かる。
「あの、なぜこのようなことを……?」
器用に野菜の皮をむき、それを細かく切り刻んでいく梶は、隣でサラダを盛り付ける夏梨に声をかける。
「え?……一応、居候の身なので」
ここへ来たのが本心ではないのにしろ、ここに居候しているのには違いない。
それに、梶がひとり慌しく動き回っているというのに、自分は部屋でのんびりしているというのが落ち着かない。
それがそもそもの理由だった。
「そう、でしたか」
夏梨の答えが自分が思っていたものとは違っていたようで、目を見開いていた。
そして、もう一つの疑問を投げかける。
「ここにいるのは、嫌ではありませんか?」
ぴくりと、夏梨の動いていた手が止まった。
「……嫌では、ないです」
初め強引に連れて来られたとき、逃げようとも思った。嫌だとも、嫌いだとも。
けれどいつの間にか、嫌いではなくなっていたのだ。
「嫌ではないのですか」
夏梨の言葉を反復するように、言葉を口の中で転がす。
たぶん、ここにいるのが不快ではなくなったのは――。
「……ここの庭が、気に入ったからです」
ふわりと微笑んだ夏梨を見て、梶は驚いた顔をする。そしてすぐに、安堵のような微笑に変わった。
「え、梶!?」
突然、明るく元気な声が台所に飛び込んできた。
振り返ると、耳をぴくぴくさせ、目を瞬いている双子の姿があった。
「なんで夏梨がいるの!?」
「あ、もしかして二人で?」
台所に入るなり、鍋の中や盛り付けている途中のお皿を覗いたりしている双子。
尻尾を嬉しそうに振りながら、目を輝かせている。
「おいしそう~!!」
「か、海斗様も陸斗様も、大広間で待っていてください」
忙しなく動いている双子を慌てて梶が呼びかけるが、ふたりは不満そうに口を尖らす。
「む~、分かったよ」
「ごはん、早くしてよ!!」
そういい残して廊下へと消えていった。
「は、早く作りましょうか」
あのふたりはお腹をすかしているのだろう。これ以上待たすとまた台所へ来るかもしれない。
そう思って夏梨は困った顔をする梶を促す。
「そうですね――」
梶が苦笑しながら同意したとき、また廊下から足音がした。
でもそれは双子のような軽い音ではなく、重く大きなものだった。
その足音の主を分かった夏梨は、足音に続いて顔を覗かせる少年に微笑する。
「おはよう、凛」
まだたどたどしく、違和感は抜けないが、それでも普通に挨拶ができた。
そんな彼女を見て目を瞬かせる凛――。
ちらりと横にいる梶に目を向け、また夏梨に視線を戻す。
何か言おうと口を開けるも、きゅっと口元を結び、廊下へと戻ってしまった。
「夏梨様」
名残惜しそうに入口を見つめていた夏梨に、ひとつの疑問をぶつける。
「どうして、この村へ来たのですか?」
たぶん梶にとっては、一番の疑問だったのだろう。
しかし夏梨はびくりと肩を揺らし、視線を床に落とした。
「ですが、この村のものではないあなたは……」
梶は言いにくそうに言葉を濁す。
夏梨は床の一点を見つめ、細く息を吐く。
そして、何かを堪えるように、静かに双眸を閉じた。
――彼女もまた、暗い過去を背負ったひとりだった。