三話
与えられた自室へ戻ろうと廊下を歩いていた夏梨は、ピタリと足を止めた。
少し悩み、方向を変え、また廊下を歩き出す。
しばらく進むと、心地よい風が頬を撫でた。
立ち止まった夏梨の目の前に広がるのは、昨夜見たあの縁側だった。
少々遠慮がちに腰を下ろし、視線を庭へと戻す。小奇麗にされた庭、風に乗って舞う紅葉。
「落ち着くなぁ、ここ」
つぶやいて、ふと空を見上げる。無限と広がるその空は、夏梨の不安を洗い流してくれるようだった。
何も知らない、澄んだ青空。
「夏梨様」
ふと聞こえた優しげな声に、夏梨は我に返る。視線を移すと、そこには梶の姿があった。
「ここにいらっしゃったのですか」
そう言うなり、梶も縁側に腰を下ろす。
「あの……?」
戸惑いがちに口を開くと、梶は微苦笑し、空を見上げる。
「いえ。落ち着きますでしょう、ここ」
その問いに夏梨はちいさく頷いた。
「あの、ここって凛が?」
昨夜見た、四角い石の上に置かれた下駄。あれは凛のものだろう。
身を乗り出し、ちらりとその下駄を見る。
昨夜と同じ場所にある、それを。
「……はい、そうです。ここは全て、凛様が」
にっこりと微笑んで、梶は言う。
そこにふと疑問を覚えた夏梨は、躊躇いがちに口を開く。
「梶さんって……その、人間、ですか?」
夏梨の言葉に、梶は目を見開いた。
「あ、あのっ……」
梶に言ったその質問に、急に恥ずかしさを覚えた。
普通なら問わないその質問を、夏梨は聞いたのだ。
うろたえながらも夏梨は必死に言葉を探す。
おかしな奴だと思われただろうか。
朝食の際、いや、朝から凛の耳と尻尾はなかった。隠していたのかも知れない。
双子はそのままだったが、もしかすると気がついていなかったのかも知れない。
何も知らず、ここに雇われただけの人だったら。
あまりにも間抜けな質問をしてしまったことに、夏梨は後悔した。
「……あぁ、そういうことですか」
ぷっと、梶が吹き出した。
きょとんとする夏梨をよそに、肩を揺らし笑いを堪える梶。
「あ、あの、梶……さん?」
「すいません。……私も、狐ですよ」
「え?」
そして一瞬の間に、梶には立派な耳と尻尾が生えていた。
言葉をなくし、呆けた夏梨を見て微笑し、ふわりと己に生えた耳に触れる。
「いつもは隠しているんです。驚かせてしまいましたか、すいません」
「あ、い、いえっ……それって、消えるんですね」
突然現れた耳と尻尾は、隠していたというより今の今まで消えていたようだった。
「はい。ですが、あの双子は消えません。まだ未熟でして」
「そう、なんですか」
「……夏梨様、大丈夫ですか?」
あまりにも唐突な質問に、夏梨は怪訝そうな顔をする。
「今朝、その……凛様に、首を絞められて……」
「っ――!!」
その言葉で、今朝あった出来事が頭の中でよみがえり、悪寒が走った。
今まで、忘れていたのだ。
忘れられないような出来事を、凛を目の前にしてでも忘れていたのだ。
「だ、大丈夫です」
鮮明によみがえった。
凛は、自分を殺そうとした。本気で。
生け贄に捧げられたのだから、仕方ないのだろう。しかし、本意で来たわけではない。
「……すいません。本当は、逃がせて差し上げたいのですが」
その言葉に、夏梨は少しの期待を抱き、小さく口を開く。
「逃げれるん、ですか?」
「無理だと思います。あなた様は一度生け贄として捧げられた身。そう簡単には逃がせてもらえないでしょう」
梶はそっと静かに、双眸を閉じた。
「村人も、あなたを逃がせてはくれないでしょう」