【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜
『騎士団長、酔った勢いで路地裏に乗り込んで説教を試みた結果どうなったか』 ~エルザ様のことを語ろうとしたのに、なぜか自分が泣いていた話~ ep-10
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本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。
「二十年ぶりに酒を飲んだ。理由は、エルザ様がやっと人間になったからだ」
部下からの報告はこうだった。
「エルザ様が、変わられました」
残業をしなくなった。休暇を取るようになった。仕事を他の者に振るようになった。
部下たちは廊下で囁いている。
「エルザ様がおかしくなった」
「あの完璧な方が、まさか」
「何かに憑かれたのではないか」
報告を聞きながら、ベルクマンは部下たちを順番に見た。
全員、心配している顔だ。
だが心配の中身が、自分とは全然違う。
部下たちは「エルザ様が壊れた」と思っている。
ベルクマンには、わかっていた。
壊れたのではない。
やっと、人間になったのだ。
ハインリヒ・フォン・ベルクマン騎士団長、五十二歳。王国最強の剣士にして、王宮きっての堅物として知られる男が、今夜だけは、酒瓶を三本空にした。
理由は、うまく説明できない。
ただ、あの方がやっと人間になったという事実が、何か重いものを胸の奥から引き出してきた。
そして今、ベルクマンは路地裏に立っていた。
暖簾が一枚、風に揺れている。
◇
暖簾をくぐると、揚太郎が振り向いた。
一瞬、目が細くなった。
「……またお前か。今度は連行しに来たわけじゃないだろうな」
「飯を食いに来た」
「酔っているな」
「酔っていない」
「三本飲んだ顔だ」
ベルクマンは止まった。
「……なぜわかる」
「においがする」
リーネが厨房から顔を出した。
「お客さんですか? あら、騎士団長さんじゃないですか」
「知っているのか」
「王宮の騎士団長さんといえば有名ですよ。ベルクマン様でしょう」
「……そうだ」
「何て呼べばいいですか」
「ベルクマン騎士団長だ」
「長いですね」
「長くない」
「ベル団長は?」
「……それでいい」
「うるさい、仕込みを続けろ」と揚太郎が言った。
リーネが「はいっ」と言いながらも、ベルクマンをちらちら見ている。
アル爺が蒸籠を磨きながら言った。
「騎士様か。珍しいな、こんな路地裏に」
「飯を食いに来た」
「酔った顔で来る飯屋じゃないがな」
「余計なお世話だ」
「そうかもしれん」
皿が出てきた。
ベルクマンは一口食べた。
ザクゥゥゥッ。
目の奥が、じわりと熱くなった。
(……うまい)
だが今夜は、それだけではなかった。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。
(……エルザ様)
二十年間、あの方の背中を見てきた。
どんな無理難題も、感情を見せずに処理し続けた。誰よりも早く出勤して、誰よりも遅く退勤した。
自分はそれを、見ていた。
見ていながら、何もできなかった。
騎士団長として、組織の論理に従い続けた。
(……俺も、共犯だったのかもしれない)
「ベル団長、どうしたんですか。泣きそうな顔してますよ」
リーネが身を乗り出していた。
「泣いていない」
「目が赤いですよ」
「酒のせいだ」
「三本飲んだんですか!?」
「飲んでいない」
「においがするって、お兄さんが——」
「うるさい」
アル爺が蒸籠を磨きながら言った。
「騎士様、何かあったのか」
「何もない」
「三本飲んで路地裏に来る人間が、何もないわけがない」
ベルクマンは黙った。
揚太郎が振り向かずに言った。
「エルザの話か」
ベルクマンの手が、止まった。
「……なぜわかる」
「エルザが変わった頃に来た客は、大体エルザの話をする」
「……そうか」
ベルクマンはしばらく黙った。
それから、口を開いた。
「……部下たちは、エルザ様がおかしくなったと言っている」
「おかしくなったか」
「俺はそう思わない。やっと人間になったと思っている」
揚太郎は鍋に向き直ったまま、何も言わなかった。
「……だが俺は、あの方がそうなる前に、何かできたはずだった。騎士団長として、もっと組織に物を言えていれば、あの方の負担は減っていた。だが俺は、エルザ様が有能だからと言い訳して、何もしなかった」
「それをエルザに言ったか」
「……言えなかった」
「なぜ」
「エルザ様は、弱みを見せることを嫌う方だ。俺がそういう話をしても、『業務上の問題ですか、私情ですか』と言われるのが目に見えていた」
揚太郎がわずかに口の端を上げた。
「それはそうだ」
「笑うな」
「笑っていない」
リーネが「笑ってましたよ」と言い、揚太郎が「うるさい」と言った。
ベルクマンは二口目を食べた。
うまかった。
うますぎて、余計に泣きそうになった。
「……エルザ様は今、この店には来ているのか」
「たまに来る」
「どんな様子だ」
揚太郎は少し間を置いた。
「最初は手帳を開きながら食べていた」
「やはりそうか」
「今は開かない」
ベルクマンが顔を上げた。
「……開かないのか」
「ただ食べている」
「それだけか」
「箸の持ち方が、回を重ねるごとに丁寧になった」
ベルクマンは固まった。
それだけのことが、なぜかひどく胸に刺さった。
手帳を開かずに、ただ食べている。
箸の持ち方が丁寧になった。
二十年間、あの方が食事を楽しんでいる姿を、一度も見たことがなかった。
「……あの方は、子供の頃から食事を楽しむことが苦手だった。食べることより、仕事のことを考えてしまう方で」
「知っている」
「知っているのか」
「来るたびに手帳を開いていたと言った。途中から開かなくなったとも言った」
ベルクマンの目から、一粒だけ涙が落ちた。
二十年間、部下の前で涙を見せたことはなかった。
だが今夜は従者もいない。
揚太郎も、リーネも、アル爺も、何も言わなかった。
ただ店内に、油の音だけが響いていた。
ジュワァァァ……バチバチバチッ。
ベルクマンは涙を拭いて、残りの定食を全部食べた。
皿が空になった。
銀貨を三枚、カウンターに置いた。
立ち上がりかけて、止まった。
「……一つ聞いていいか」
「なんだ」
「エルザ様は、この店で、幸せそうだったか」
揚太郎は鍋に向き直ったまま、少し間を置いた。
「箸の持ち方が丁寧になった、と言った」
「……それが答えか」
「それが答えだ」
ベルクマンは深く息を吸った。
それから、深々と頭を下げた。
「……うまかった」
「また来い」
「来る」
ベルクマンが出口に向かいかけたとき、リーネが声をかけた。
「ベル団長、エルザさんに伝えたいことがあるなら、手紙を書けばいいと思いますよ」
「……エルザ様が読んでくださるかどうか」
「読まなくても、書くことが大事なんじゃないですかね」
ベルクマンはリーネを見た。
天然で、アホ毛が揺れていて、味噌だらけのエプロンをつけている。
だが今の一言だけは、二十年の騎士経験より鋭かった。
「……そうかもしれない」
アル爺が蒸籠を磨きながら言った。
「素直な人間の言葉は、案外正しい」
「アル爺、褒めてくれたんですか!?」
「褒めていない」
「褒めてましたよね!?」
「うるさい、仕込みを続けろ」
「それはお兄さんのセリフです!」
ベルクマンは店を出た。
路地裏の夜風が、酔いを少し冷ました。
懐から手帳を取り出した。
騎士団長の手帳だ。いつもは作戦と報告書しか書かない。
今夜初めて、別のことを書いた。
「エルザ様へ。遅くなったが、申し訳なかった」
それだけ書いて、手帳を閉じた。
送るかどうかは、まだわからない。
だがとりあえず、書けた。
ジュワァァァ……バチバチバチッ。
路地裏の奥から、今夜最後の揚げ物の音がした。
(完)
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