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【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜

『騎士団長、酔った勢いで路地裏に乗り込んで説教を試みた結果どうなったか』 ~エルザ様のことを語ろうとしたのに、なぜか自分が泣いていた話~ ep-10

掲載日:2026/05/04

数ある作品の中から見つけてくださりありがとうございます!

本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。

「二十年ぶりに酒を飲んだ。理由は、エルザ様がやっと人間になったからだ」


 部下からの報告はこうだった。

「エルザ様が、変わられました」


 残業をしなくなった。休暇を取るようになった。仕事を他の者に振るようになった。

 部下たちは廊下で囁いている。


「エルザ様がおかしくなった」


「あの完璧な方が、まさか」


「何かに憑かれたのではないか」


 報告を聞きながら、ベルクマンは部下たちを順番に見た。

 全員、心配している顔だ。

 だが心配の中身が、自分とは全然違う。

 部下たちは「エルザ様が壊れた」と思っている。


 ベルクマンには、わかっていた。

 壊れたのではない。

 やっと、人間になったのだ。

 ハインリヒ・フォン・ベルクマン騎士団長、五十二歳。王国最強の剣士にして、王宮きっての堅物として知られる男が、今夜だけは、酒瓶を三本空にした。

 理由は、うまく説明できない。

 ただ、あの方がやっと人間になったという事実が、何か重いものを胸の奥から引き出してきた。

 そして今、ベルクマンは路地裏に立っていた。

 暖簾が一枚、風に揺れている。


 ◇


 暖簾をくぐると、揚太郎が振り向いた。

 一瞬、目が細くなった。

「……またお前か。今度は連行しに来たわけじゃないだろうな」


「飯を食いに来た」


「酔っているな」


「酔っていない」


「三本飲んだ顔だ」


 ベルクマンは止まった。

「……なぜわかる」


「においがする」


 リーネが厨房から顔を出した。

「お客さんですか? あら、騎士団長さんじゃないですか」


「知っているのか」


「王宮の騎士団長さんといえば有名ですよ。ベルクマン様でしょう」


「……そうだ」


「何て呼べばいいですか」


「ベルクマン騎士団長だ」


「長いですね」


「長くない」


「ベル団長は?」


「……それでいい」


「うるさい、仕込みを続けろ」と揚太郎が言った。

 リーネが「はいっ」と言いながらも、ベルクマンをちらちら見ている。


 アル爺が蒸籠を磨きながら言った。

「騎士様か。珍しいな、こんな路地裏に」


「飯を食いに来た」


「酔った顔で来る飯屋じゃないがな」


「余計なお世話だ」


「そうかもしれん」

 皿が出てきた。

 ベルクマンは一口食べた。


 ザクゥゥゥッ。

 目の奥が、じわりと熱くなった。

(……うまい)

 だが今夜は、それだけではなかった。

 胸の奥から、何かが込み上げてくる。

(……エルザ様)

 二十年間、あの方の背中を見てきた。

 どんな無理難題も、感情を見せずに処理し続けた。誰よりも早く出勤して、誰よりも遅く退勤した。

 自分はそれを、見ていた。

 見ていながら、何もできなかった。

 騎士団長として、組織の論理に従い続けた。

(……俺も、共犯だったのかもしれない)


「ベル団長、どうしたんですか。泣きそうな顔してますよ」

 リーネが身を乗り出していた。


「泣いていない」


「目が赤いですよ」


「酒のせいだ」


「三本飲んだんですか!?」


「飲んでいない」


「においがするって、お兄さんが——」


「うるさい」

 アル爺が蒸籠を磨きながら言った。

「騎士様、何かあったのか」


「何もない」


「三本飲んで路地裏に来る人間が、何もないわけがない」

 ベルクマンは黙った。


 揚太郎が振り向かずに言った。

「エルザの話か」

 ベルクマンの手が、止まった。


「……なぜわかる」


「エルザが変わった頃に来た客は、大体エルザの話をする」


「……そうか」


 ベルクマンはしばらく黙った。

 それから、口を開いた。

「……部下たちは、エルザ様がおかしくなったと言っている」


「おかしくなったか」


「俺はそう思わない。やっと人間になったと思っている」


 揚太郎は鍋に向き直ったまま、何も言わなかった。


「……だが俺は、あの方がそうなる前に、何かできたはずだった。騎士団長として、もっと組織に物を言えていれば、あの方の負担は減っていた。だが俺は、エルザ様が有能だからと言い訳して、何もしなかった」


「それをエルザに言ったか」


「……言えなかった」


「なぜ」


「エルザ様は、弱みを見せることを嫌う方だ。俺がそういう話をしても、『業務上の問題ですか、私情ですか』と言われるのが目に見えていた」


 揚太郎がわずかに口の端を上げた。

「それはそうだ」


「笑うな」


「笑っていない」

 リーネが「笑ってましたよ」と言い、揚太郎が「うるさい」と言った。

 ベルクマンは二口目を食べた。

 うまかった。

 うますぎて、余計に泣きそうになった。


「……エルザ様は今、この店には来ているのか」


「たまに来る」


「どんな様子だ」


 揚太郎は少し間を置いた。

「最初は手帳を開きながら食べていた」


「やはりそうか」


「今は開かない」

 ベルクマンが顔を上げた。

「……開かないのか」


「ただ食べている」


「それだけか」


「箸の持ち方が、回を重ねるごとに丁寧になった」


 ベルクマンは固まった。

 それだけのことが、なぜかひどく胸に刺さった。

 手帳を開かずに、ただ食べている。

 箸の持ち方が丁寧になった。


 二十年間、あの方が食事を楽しんでいる姿を、一度も見たことがなかった。

「……あの方は、子供の頃から食事を楽しむことが苦手だった。食べることより、仕事のことを考えてしまう方で」


「知っている」


「知っているのか」


「来るたびに手帳を開いていたと言った。途中から開かなくなったとも言った」


 ベルクマンの目から、一粒だけ涙が落ちた。

 二十年間、部下の前で涙を見せたことはなかった。

 だが今夜は従者もいない。


 揚太郎も、リーネも、アル爺も、何も言わなかった。

 ただ店内に、油の音だけが響いていた。


 ジュワァァァ……バチバチバチッ。

 ベルクマンは涙を拭いて、残りの定食を全部食べた。

 皿が空になった。

 銀貨を三枚、カウンターに置いた。

 立ち上がりかけて、止まった。


「……一つ聞いていいか」


「なんだ」


「エルザ様は、この店で、幸せそうだったか」


 揚太郎は鍋に向き直ったまま、少し間を置いた。

「箸の持ち方が丁寧になった、と言った」


「……それが答えか」


「それが答えだ」


 ベルクマンは深く息を吸った。

 それから、深々と頭を下げた。

「……うまかった」


「また来い」


「来る」


 ベルクマンが出口に向かいかけたとき、リーネが声をかけた。

「ベル団長、エルザさんに伝えたいことがあるなら、手紙を書けばいいと思いますよ」


「……エルザ様が読んでくださるかどうか」


「読まなくても、書くことが大事なんじゃないですかね」

 ベルクマンはリーネを見た。

 天然で、アホ毛が揺れていて、味噌だらけのエプロンをつけている。

 だが今の一言だけは、二十年の騎士経験より鋭かった。


「……そうかもしれない」


 アル爺が蒸籠を磨きながら言った。

「素直な人間の言葉は、案外正しい」


「アル爺、褒めてくれたんですか!?」


「褒めていない」


「褒めてましたよね!?」


「うるさい、仕込みを続けろ」


「それはお兄さんのセリフです!」


 ベルクマンは店を出た。

 路地裏の夜風が、酔いを少し冷ました。

 懐から手帳を取り出した。

 騎士団長の手帳だ。いつもは作戦と報告書しか書かない。

 今夜初めて、別のことを書いた。


「エルザ様へ。遅くなったが、申し訳なかった」

 それだけ書いて、手帳を閉じた。

 送るかどうかは、まだわからない。

 だがとりあえず、書けた。

 

 ジュワァァァ……バチバチバチッ。

 路地裏の奥から、今夜最後の揚げ物の音がした。


(完)


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