昇進の夜、すべてを失った男
二十時三十分を少し回った頃、俺は会議室の壁掛け時計を見上げていた。
客先常駐の長い一日が終わり、ようやく自社に戻ってきたあとの呼び出しだった。フロアにはまだ明かりが残っているものの、時間帯のせいか空気は少し緩んでいる。廊下を行き交う人もまばらで、コピー機の駆動音だけが妙に大きく聞こえた。
向かいに座る上司は、ノートPCを閉じると、机の上で指を組んだ。
「正式発令はまだ先だけどな」
前置きの段階で、俺はなんとなく察していた。
この時間にわざわざ呼ばれる話など限られている。案件炎上の火消しか、評価の話か。そのどちらかだ。
「次の評価で、相澤をマネージャーに上げる方向で進んでる」
一拍遅れて、言葉が意味を持った。
「……本当ですか」
「まだ内示だ。口外はするなよ」
「はい。もちろんです」
口では落ち着いたふりをした。だが、心臓はうるさいくらい鳴っていた。
マネージャー。
その単語が頭の中で何度も反響する。
シニアコンサルタントとマネージャーでは響きが違う。ただ一段階上がる、という話ではない。プレイヤーとして成果を出す側から、チームや案件全体を動かす側へ回る。社内での見え方も、客先での立ち位置も、年収も、責任も、全部変わる。
ついに来たか、と思った。
いや、来るべくして来た、の方が正しい。
これまで散々やってきた。火を噴いた案件も、要件が曖昧なまま走り出したプロジェクトも、無茶なスケジュールも、理不尽な仕様変更も、全部飲み込んで回してきた。現場と顧客の板挟みになりながら、それでも納期を守り、資料を作り、会議を回し、上の意向にも下の不満にも対応してきた。
評価されて当然だ。
少なくとも、そのくらいは思っていた。
上司は俺の表情を見て、小さく鼻を鳴らした。
「浮かれるなとは言わない。実際、ここまではよくやった」
「ありがとうございます」
「ただ、相澤はプレイヤーとしては優秀だが、人の上に立つ資質がもう完成してるわけじゃない」
そこで一度、言葉を切る。
「正しいことを、正しい順番で、正しい資料に落とし込むのは上手い。頭も回る。詰めも速い。だが、速いやつは時々、人を置いていく」
少しだけ、胸の内に引っかかるものがあった。
だが、それも高揚感の前では小さかった。
「意識します」
「意識しろ。マネージャーは、自分ができるやつのことじゃない。周りにやらせて、結果まで持っていくやつのことだ」
「はい」
返事はしたものの、その時の俺は、正直そこまで深く考えていなかった。
頭の中はもっと別のことでいっぱいだった。
同期より先に上がれるかもしれない、という優越感。
社内での見られ方が変わる、という期待。
ここから先は“使われる側”ではなく、“使う側”に近づいていくのだという、甘い万能感。
上司はそれ以上何も言わず、軽く顎を引いた。
「以上。明日からも手は抜くな」
「はい。失礼します」
会議室を出た瞬間、無意識に息が漏れた。
廊下のガラスに映った自分の顔は、疲れているくせに、妙に晴れやかだった。シャツは少しよれていて、ネクタイも緩んでいる。だがそれすら、戦って勝った人間の勲章みたいに思えた。
自分でも、少し笑っていたと思う。
◇
本来なら、そのまま真っ直ぐ帰るべきだった。
客先貸与のノートPCが入ったバッグを持っている。社内ルール上、飲酒は明確にNGだ。たとえ一人で軽く一杯でも駄目。紛失、置き忘れ、盗難、のぞき見。インシデントの芽はいくらでもある。
そんなことは分かっている。
分かっているが、その夜の俺は浮かれていた。
「今日くらいはいいだろ」
誰に言い訳するでもなく、駅前の小綺麗な居酒屋の暖簾をくぐった。
別に高級店ではない。カウンターが十席ほど、奥に四人掛けのテーブルが三つ。仕事帰りの会社員が数組いる程度の店だ。だが、普段なら入らないくらいには、少しだけ“自分へのご褒美”感があった。
客先PCの入ったバッグを足元に置いて、ハイボールを頼む。
一杯目はすぐに空いた。
胃の中に炭酸とアルコールが落ちていく感覚が心地よかった。二杯目を頼む頃には、頬のあたりが少し熱い。唐揚げ、刺身、枝豆。つまみは適当だったが、どれも妙にうまく感じた。
スマホを取り出しかけて、やめる。
この時間に誰かへ連絡したくなかった。まだ内示だ。彼女もいない。家族に話すような性格でもない。同期に匂わせるのも違う。だったら今日は一人で噛み締めるのがいい。
目の前のグラスの氷が、からんと鳴った。
マネージャーか。
今までとは景色が変わるだろう。
客先での発言権も増える。案件の論点整理だけでなく、体制や予算、人の配置にまで口を出せるようになるかもしれない。今まで上から降ってきた無茶な指示も、自分が決める側に回れば少しは変えられる。少なくとも、変えられると思いたかった。
結局、こういう世界は結果だ。
どれだけ綺麗事を並べても、最後に評価されるのは数字で、成果で、任せられるかどうかだ。なら、自分が上がるのは自然なことだった。
少し酔っていたのだと思う。
普段なら胸の内に留めるような、いやらしい優越感が、その日は素直に気持ち良かった。
三杯目まではいかなかった。二杯半くらいだったと思う。完全に泥酔ではない。だが、判断が少し緩くなるには十分な量だった。
会計を済ませ、店を出る。
夜風が頬に当たって、少しだけ酔いが回る。視界が揺れるほどではないが、足元はわずかに軽い。今思えば、その状態で客先PCを持ち歩いている時点で十分に終わっている。
俺はバッグのベルトを持ち直し、駅へ向かって歩き出した。
◇
終電まではまだ余裕があった。
オフィス街の人通りは減っていたが、完全に消えてはいない。コンビニの明かり。タクシーのヘッドライト。遠くから聞こえる酔客の笑い声。見慣れた夜景だった。
そのはずだった。
横断歩道の手前で信号待ちをしていた時、不意に、周囲の音が薄くなった。
最初は気のせいかと思った。酒が残っていて、耳が詰まったように感じただけかもしれない、と。
だが違った。
車の音が遠のく。
人の話し声が遠のく。
街そのものが、水の中に沈んでいくみたいに、輪郭を失っていく。
「……は?」
呟いた自分の声まで、妙に遠い。
信号機の光がにじんだ。地面がぐらりと傾いたような感覚に襲われ、咄嗟に踏ん張ろうとする。だが足に力が入らない。視界の端から、景色が剥がれるみたいに暗くなっていく。
酔いじゃない。
貧血でもない。
何かがおかしい、と認識した瞬間には、もう遅かった。
足元の感覚が消えた。
落ちる、と思った。
反射的にバッグを抱え込む。次いで、視界が完全に途切れた。
◇
次に意識が戻った時、最初に感じたのはひどい吐き気だった。
「っ……ぅ、は……」
喉の奥が焼けるように熱い。胃がひっくり返る感覚を必死でこらえながら、俺は咳き込んだ。鼻先には土と草の匂い。背中が冷たい。固い地面に寝かされている。
目を開ける。
暗い。
だが、都会の夜の暗さではない。人工の光がほとんどない、濃い闇だ。上を見れば、木々の隙間から星が見える。信じられないくらい、はっきりと。
しばらくそのまま、呼吸を整えることしかできなかった。
頭が鈍い。酒のせいか、衝撃のせいか、あるいは両方か。頬に当たる空気はひどく冷たく、酔いを一気に引かせていく。
そこでようやく、俺は体を起こした。
「……どこだ、ここ」
問いかけたところで、答える相手はいない。
周囲は薄暗い林のようだった。少し先に道らしきものが見える。舗装された道路ではない。土が踏み固められた、幅の狭い道だ。さらにその先、遠くに灯りが見える。街灯ではない。もっと低く、頼りない、火に近い色の光。
意味が分からない。
酔って転んだ?
どこかの山に運ばれた?
いや、そんな馬鹿な。
混乱の中で、それでも一番先に頭をよぎったのは別のことだった。
バッグ。
「やば……っ」
俺は半ば這うようにして手を伸ばし、すぐ脇に転がっていたビジネスバッグを掴んだ。ファスナーを開ける。書類。充電器。ポーチ。名刺入れ。
そして、客先貸与のノートPC。
黒い筐体の角に触れた瞬間、全身の力が少し抜けた。
「あった……」
心底そう思った。
もしこれを失くしていたら、本気で終わる。顧客情報の有無に関わらず、貸与PC紛失は重大インシデントだ。深夜だろうが休日だろうが即時報告、端末ロック依頼、関係各所への連絡、翌日は事情説明と謝罪、最悪始末書。内容次第では客先対応も発生する。
昇進内示の夜に、そんな事故を起こしたとなれば笑えないどころではない。
「いや、待て」
そこで逆に気づく。
PCはある。バッグもある。なら、今度はスマホだ。
胸ポケットを探る。私物スマホはあった。電源ボタンを押す。画面は点いた。時刻は二十二時台を少し回ったところで止まっているように見えたが、よく見れば数分進んでいる。とにかく電源は生きている。
だが、電波は圏外だった。
会社支給スマホも確認する。こちらも圏外。
「ふざけんな……」
位置情報を開く。だめだ。地図は読み込み中のまま固まる。GPSも拾わない。通信できない。つまり、紛失報告も端末ロック依頼もできない。
冷や汗が出た。
頭の整理が追いつかない。客先PCを持ったまま、知らない場所で通信不能。しかも現在地不明。酔って寝落ちした、なんてレベルではない。
俺は深呼吸した。息が白い。
落ち着け。事実を切り分けろ。
いつものように、会議前に論点整理するみたいに、頭の中で情報を並べる。
一、俺は客先PCと私物・社給スマホを所持している。
二、通信は不可。
三、現在地は不明。
四、周辺環境は都内近郊に見えない。
五、泥酔ではない。記憶も飛んでいない。
思考だけでは足りない気がして、俺は内ポケットから小さなメモ帳を取り出した。打ち合わせで使っている、薄いリングノートだ。ボールペンもあった。
こういう時、書くと頭が整理される。
それは昔からの癖だった。会議でも、ヒアリングでも、要件整理でも、頭の中だけで処理しきれないものは一度紙に落とす。その方が早いし、見落としが減る。
酔いが残る手でノートを開き、箇条書きで状況を書き始める。
現在地不明
電波なし
周辺は森林 or 林縁
遠方に灯りあり
人里の可能性
優先順位①安全確保 ②通信回復可否 ③現在地特定 ④PC保全
そこまで書いたところで、少し違和感があった。
ペンが妙に軽い。
いや、違う。手が速い。
普段から速記には自信があった。会議の議事メモで周りより遅れたことはないし、話しながら論点を整理して文字に落とすのも得意だった。だが今のこれは、そんな次元ではなかった。
思考がそのままペン先に流れていく。
書く、というより出力される感覚に近い。字も乱れていない。酔いが残っているはずなのに、妙に整っている。要点も勝手にまとまっていく。
手を止めて、書いた内容を見直す。
「……なんだ、これ」
自分で書いたのに、異様にまとまっていた。
単に切羽詰まって集中しているだけかもしれない。そう考えようとした時、がさり、と茂みの奥で音がした。
反射的に顔を上げる。
暗がりの中、低い位置に二つ、いや四つの光が見えた。目だ。
夜の中で、獣のようなものがこちらを見ている。
犬に似ているが、少し違う。脚が長い。鼻先が細い。背の線が妙にしなやかで、野良犬というよりもっと野生寄りの何かに見える。
まずい。
酔いも昇進もインシデントも、その瞬間だけ全部吹き飛んだ。
戦えるわけがない。武器もない。スーツに革靴。しかも夜の林だ。勝てる要素が一つもない。
まず距離。
ざっと十メートル強。
数。
二匹。たぶん二匹。
こちらの障害物。
足元に石。倒木なし。
逃走方向。
灯りのある道の方。
頭の中に浮かんだ情報を、俺はほとんど反射でノートへ書き殴っていた。
二匹
即襲撃ではない
様子見
威嚇先行
背を見せて走るのは危険
音・威嚇・後退で対応
思考と筆記がほとんど同時だった。
獣の片方が一歩前に出る。喉の奥で低く唸った。
俺はノートをバッグに突っ込み、足元の石を拾った。投げつけるのではない。少し横、茂みの濃い方へ全力で放る。
ガサッ、と大きく音が鳴る。
同時に、腹の底から声を張り上げた。
「――ッ、うおおっ!!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
二匹の獣がびくりと動く。完全に怯えたわけではないが、勢いは止まった。片方が耳を伏せ、もう片方も一歩下がる。
今だ。
俺は視線を外さないまま、ゆっくり後退した。走らない。足をもつれさせたら終わる。灯りの方へ、少しずつ、斜めに下がる。
獣たちは追ってこない。
数歩、十歩、さらに下がって、十分に距離が取れたと見た瞬間、俺は踵を返して走った。
革靴が土を蹴る。枝を踏む。何度も滑りそうになる。だが止まれない。バッグが脇腹に当たって痛い。それでも離すわけにはいかなかった。こんな状況でも、いやこんな状況だからこそ、中のPCを失くすわけにはいかない。
やがて木々が途切れ、視界が開けた。
そこには石壁があった。
低い城壁――とまではいかないが、人の背丈をはるかに超える石造りの壁。その中央に木製の門。左右には焚き火。槍のようなものを持った人影が二つ。
一瞬、安堵しかけた。
だが次の瞬間、その考えを打ち消す。
相手が人間でも、安全とは限らない。
むしろここからが本番だ。身分証も通じるか分からない。言葉も通じる保証がない。スーツ姿で夜の林から飛び出してくる男など、どう見ても不審者だ。
案の定、門番らしき二人はすぐこちらに気づき、険しい声で何かを叫んだ。
聞いたことのない言語だった。
完全に終わった、と思いかける。
それでも俺は立ち止まり、両手を上げた。敵意がないことを示す。それしかない。バッグは肩にかけたまま。ゆっくり。刺激しないように。
頭の中ではまた、さっきと同じように整理が始まっていた。
武装二名。
距離十五メートル前後。
こちらは無力。
優先事項は排除されないこと。
次点は保護対象として扱わせること。
言語不通の前提で、態度と物で示す。
俺は呼吸を整え、ノートとペンを取り出した。自分でも半ば無意識だったが、それが今いちばん頼れる道具のような気がした。
言葉が通じないなら、図でも記号でも、とにかく伝わるものを作るしかない。
マネージャー昇進の内示を受け、その帰りに浮かれてルールを破り、一人で飲みに行った数時間後。
俺は客先PC入りのバッグを抱えたまま、見知らぬ石壁の前で、武装した門番に警戒されていた。
状況は最悪だ。
セキュリティ事故の報告すらできない。
ここがどこかも分からない。
そもそも日本かどうかすら怪しい。
だが――。
「……整理できない問題じゃない」
乾いた喉でそう呟き、俺は異世界で最初の交渉に臨んだ。




