届く言葉 III『守ると誓う夜』
コンロの火は、小さく、安定していた。青い輪郭が鍋底を支え、湯気が窓ガラスの内側を曇らせる。換気扇の低い唸りが、夜の部屋に一定の拍を作っていた。
篠原結衣はまな板の上で葱を刻みながら、時計を見ないようにしていた。時間を意識した瞬間に、この穏やかさが仕事の延長線に塗り替えられる気がしたからだ。指先に伝わる抵抗と、葱の香りが目に刺す軽い痛みが、今が「家」だと教えていた。
背後で、相澤恒一が皿を拭いていた。布巾の擦れる音が、彼の呼吸のリズムと重なる。仕事中の相澤は、音を切り分けて並べ替えるみたいに場を整える。それが頼もしくも、時々怖かった。全部を自分の手順の中に入れてしまうから。今日の相澤は、ただ皿を拭いているだけなのに、手元の動きだけで、やり過ぎる癖が見えてしまう。
「味噌、入れる?」
結衣が尋ねると、相澤は「うん」と短く返した。そこに余計な理由はなく、確認があるだけだった。それが結衣には心地よかった。会議の場での確認は、ともすれば刃になる。ここでは、刃にしないまま、必要なことだけが通った。
「この前の、赤だし、まだあるよね」
「あります。取ってきます」
結衣は返事の語尾に、いつもの丁寧さを残した。意識しているわけではない。長く同じ部署にいて、長く同じ調子で言葉を使ってきた。崩すのは、勇気がいる。
冷蔵庫の扉を開け、冷気の層に手を突っ込む。味噌のパックを探している間に、背中越しに水の音がした。皿を拭き終えた相澤が、手を洗っている。蛇口を閉める瞬間の、指の置き方が妙に丁寧で、結衣はそれを見ないふりをした。
見ないふりをしたくなる場面が、この数週間で増えた。増えたのは嫌なことではない。むしろ、増えてしまったことが、確かなことだった。
ふたりは「同棲」と呼ぶほどの宣言をまだしていない。だが結衣の歯ブラシが洗面台の端にあり、相澤のマグカップが棚の手前に置かれている。荷物の量と、鍵の受け渡しと、当たり前に夕食を一緒に作る回数が、宣言の代わりに積み重なっていた。
味噌を鍋に溶かし入れると、香りが部屋の中心に広がった。火の熱が、空気の温度をわずかに上げる。結衣はお玉でゆっくり混ぜながら、背後の気配を測った。相澤の気配は、近いのに押しつけがましくない。距離を詰める時にも、彼は「設計」を忘れない。結衣は、その設計の外側に一歩踏み出す練習を、まだ続けていた。
「今日、会社から連絡来てない?」
相澤が不意に言った。声は軽かったが、軽いほど警戒した。炎上は、静かな顔をして戻ってくる。
「……来てません。たぶん、大丈夫です」
「“たぶん”か」
相澤は笑わず、指摘だけを置いた。結衣は、肩の力が抜けるのを感じた。責められたのではない。「曖昧さ」を曖昧なままにしない、あのやり方だった。
「でも、今日は——」
結衣は言いかけて止めた。今日は、仕事の話をしたくない。言いかけた言葉が喉の奥で引っかかり、結衣は鍋の湯気を見た。湯気は、言葉より正直だった。温かく、形がない。
「今日は、しないでいい」
相澤が先に言った。結衣の言いかけに、勝手な続きを足さずに、結衣が選べる余白を残した。結衣は胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
「……ありがとうございます」
「それ、職場の言い方だよ」
相澤は、初めてそこで少し笑った。結衣もつられて口角を上げた。笑いは、ふたりにとって呼吸だった。大げさな冗談は要らない。ひと息分だけ、空気が柔らかくなればいい。
「じゃあ……恒一さん、って呼んだらいいですか」
結衣は、ふいに言ってしまった。言ってから、心臓が一度だけ強く打った。名前の話題は、いつも少し怖い。名前は距離を縮める。縮めた距離は、戻すのが難しい。
相澤はすぐに返さなかった。結衣は鍋の火を弱め、指先でコンロのつまみを回した。火は小さくなり、音も静かになった。その静けさの中で、相澤の返事を待つのは、思った以上に緊張した。
「……結衣さんが、そう呼びたいなら」
相澤は、結衣の自由を守るみたいに言った。「呼べ」とも「呼ぶな」とも言わない。結衣は、その言い方に少しだけ苛立つ自分を見つけて驚いた。守られるのは嬉しいのに、守られ方によっては距離が生まれる。設計が上手すぎると、相手の手触りが遠くなる。
「じゃあ、今だけ。……恒一さん」
結衣が声に出すと、名前は思ったよりも短く、思ったよりも熱かった。相澤は一瞬だけ目を伏せ、それから結衣を見た。目元の疲れが薄く、代わりに何か、柔らかいものがそこにあった。
「うん。……結衣」
呼び返される。結衣の名字ではない音が、部屋の中で落ち着く場所を探して、結衣の胸の奥に辿り着いた。呼び方が変わるだけで、役割の境界がひとつずれる。結衣は、そのずれを怖がるのをやめたかった。
◆
食後、ふたりはソファに並んだ。テレビはつけない。画面の音が、会議の延長に聞こえるからだ。代わりに、窓の外の車の音と、暖房の風の音だけがあった。
相澤はノートPCを開きかけたが、結衣が視線を向けると、閉じた。閉じる動作が早すぎて、結衣は逆に安心できなかった。切り替えが上手すぎる。
「……無理してませんか」
結衣が言うと、相澤は「うん」とだけ答えた。その「うん」が、肯定なのか回避なのか、結衣にはまだ分からない。
「“うん”だけだと、分からないです」
「分からないって、言ってくれて助かる」
相澤は、少しだけ眉を寄せた。真剣に、言葉を選んでいる顔だった。
「無理は……してる。でも、今は、今日だけは、ここを守りたい」
守りたい。相澤がその単語を口にした瞬間、結衣の胸の奥に、小さな違和感が走った。言葉自体は優しい。なのに音の輪郭だけが、別の温度を含んでいる気がした。冷たい刃物を、布で包んだみたいな。
「守るって、どういう意味ですか」
結衣は、自分で自分の問いに驚いた。追及ではない。ただ、確かめたかった。言葉の形を、ふたりで揃えたかった。
相澤は、答えを急がなかった。代わりに、自分の手元を見た。指先が、無意識に動いている。親指が、人差し指の関節を押していた。考える時の癖だと、結衣は知っている。何度も見て、何度も気になって、でも口にしないようにしてきた。
その癖を見た瞬間、結衣の喉がきゅっと縮んだ。理由がないのに、涙が出そうになった。胸の奥が熱くなり、次に冷えた。熱と冷えが、交互に波みたいに押し寄せて、結衣は呼吸の間隔を見失いかけた。
「結衣?」
相澤が名前で呼んだ。呼ばれた音が、現実に結衣を引き戻した。結衣は首を振った。大丈夫だと伝えたかったが、言葉にした瞬間に嘘になる気がした。
「ごめん。……今、変だった?」
相澤は関節から手を離し、掌を膝の上に置いた。自分の癖で相手が揺れたことに気づいている。相澤のそういうところが、結衣は好きだった。無自覚のまま踏み込まない。踏み込んだ時は止まれる。
「変じゃないです」
結衣は嘘をついた。守るための嘘だった。今ここで「分からない胸騒ぎ」を言葉にしたら、ふたりの部屋の温度が変わる。温度が変わったら、元に戻せる自信がない。
「ただ……ちょっと、疲れて」
「疲れは、嘘じゃないね」
相澤は言った。見抜いたのではなく、嘘にしないために、嘘じゃない要素を拾ったように聞こえた。結衣は小さく息を吐いた。
「守るっていうのは……」
相澤はようやく、続きを言った。
「仕事の外側に、ふたりの場所を作ること。そこに、火を灯し続けること。——“誰かのせい”って言葉で燃やさないこと」
火、という言葉が出たとたん、結衣の脳裏に一瞬だけ、別の火が差した。暗い空に赤い舌が立つ景色。焦げた匂い。叫び声のような、でも言葉にならない音。結衣は反射的に目を閉じた。次の瞬間、その景色は消え、ソファの布の匂いと、暖房の風の匂いだけが残った。
「……火を灯し続ける、か」
結衣は、繰り返した。繰り返すことで、今の火だけを確かめたかった。台所のコンロ。味噌汁の湯気。今夜の温度。
「結衣は、どう思う」
相澤が問う。問い方が、会議ではない。答えを引き出すための問いではなく、結衣が自分で言葉を選ぶための問いだった。
結衣は、自分の手元を見た。指先がソファの縫い目をなぞっている。癖が出るのは、自分も同じだ。緊張すると髪を耳にかける。歩くテンポを一定にする。崩れないように、崩れないようにと、身体が先に動く。
「私は……守る、って言葉が、たぶん怖いです」
「怖い?」
「はい。守るって言うと……守れなかった時のことまで、約束に入る気がするから」
結衣は言い切った。言い切るまでに時間がかかった。でも、言い切れた。相澤が待ってくれると分かっていたからだ。
相澤は、頷いた。
「じゃあ、守れなかった時は、ふたりで責任を持つ。……僕が全部抱えない。結衣に押し付けない」
結衣はその言葉に、胸の奥がまた熱くなるのを感じた。今度は冷えに変わらない熱だった。約束の言葉が、刃ではなく手触りを持った。会議の設計ではなく、生活の設計として。
「それ……言えます?」
「言う。ログ、残す?」
相澤が冗談めかして言い、結衣は思わず笑った。笑った拍子に、髪を耳にかける。癖の動作が、今日は自分を落ち着かせるためではなく、照れ隠しのように働いた。
「残さないでください。恥ずかしい」
「じゃあ、口頭で。必要なら、何回でも言う」
相澤は、そこで初めて、結衣に少し近づいた。肩が触れ合う距離。結衣は身を引かなかった。引かない自分を、少しだけ誇らしく思った。
◆
風呂上がり、結衣はキッチンの流しに残ったコップを見つけ、洗おうとして手を伸ばした。相澤が後ろから「置いて」と言った。
「明日でいい」
「でも、気になります」
「“気になる”は、結衣の仕事の癖だよ」
相澤は、結衣の手からコップをそっと取った。奪うのではなく、受け取る。結衣はその動作に、さっきの約束が早速実装されているのを見た気がした。
「今日くらいは、やめよう。結衣が“ちゃんとする”で燃えないように」
燃えないように。相澤は、また火の比喩を使った。結衣は頷いた。頷きながら、胸の奥に残った微かな胸騒ぎが、まだ消えていないことに気づいた。消えていないのに、言葉にしない。言葉にしない選択が、今夜の火を守るためのものだと、自分に言い聞かせた。
寝室の灯りを落とすと、部屋は暗くなり、窓の外の街の光だけが、薄い線で輪郭を作った。結衣はベッドに入ってからも、眠りに落ちる手前で、言葉が喉に引っかかっているのを感じた。さっき見た相澤の癖——指の関節。あの瞬間の熱と冷え。あれは何だったのか。
答えは出ない。出そうとすると、余計に遠ざかる。結衣は、説明を諦める代わりに、確かなことを一つだけ拾おうとした。
相澤が隣にいて、呼吸がある。相澤が「結衣」と呼んだ。結衣が「恒一さん」と呼んだ。名前が、ここでは杭ではなく、灯りになる。
「ねえ」
結衣は、小さく言った。
「うん」
「変なこと言っていいですか」
「変なこと、歓迎する」
相澤は、暗闇の中でも分かるくらいの微笑を声に含ませた。
「……運命、みたいって思った」
結衣は言ってしまってから、すぐに後悔した。禁止していた言葉に触れた気がした。運命という断定は、危うい。言葉は、刃にも杭にもなる。
相澤が沈黙した。結衣はその沈黙に、さっきの胸騒ぎとは違う恐れを感じた。相澤の中で、運命という単語が、どこか別の冷たさに繋がってしまったら——。
だが相澤は、結衣の恐れとは別のところで息を吐いた。
「運命って言葉、僕はあんまり信用してない」
結衣の胸が一瞬だけ沈んだ。やっぱり、と思いかけた瞬間、相澤は続けた。
「でも——結衣がそう感じたなら、その感覚は守りたい。運命かどうかの説明じゃなくて、結衣が今ここで信じたくなった衝動のほうを」
信じたくなった衝動。結衣の胸の奥が、温かくなった。説明ではなく、感覚を守る。守るのは、言葉ではなく、その手前にあるもの。
結衣は暗闇の中で、相澤の手を探した。指先が触れ合い、相澤の手が結衣の手を包んだ。関節の硬さ、皮膚の温度、掌の重み。確かなものが、確かな速度で伝わる。
「……私も」
結衣は言った。言葉を慎重に選ぶのをやめたくなった。選ばなければ、壊れる気がしなくなった。
「私も、守りたい」
相澤の手が、わずかに強く握った。強さは、支配ではなく確認だった。ここにいる、と。
結衣は、胸の奥に残っていた胸騒ぎが、完全には消えていないことを知ったまま、それでも息を整えた。消えない違和感を抱えたまま、今夜の灯りを消さない。それが、ふたりの「守る」なのだと、結衣は理解しようとした。
言葉の届く世界で、届かない影を抱いたまま。火の温もりの中で、火の喪失を知らないふりをせずに。
「失いたくない」「守りたい」




