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届かない言葉 / 届く言葉  作者: 夕陽野 ゆうひ


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届かない言葉 III『赦しが死ぬ夜』

 夜は、火の色だけで温度を持っていた。


 秩序帝国軍の前線野営地は、灰と濡れた土の匂いが混じっていた。魔導砲の残滓が空気に細い金属臭を残し、鎧の継ぎ目に入り込んだ砂が、動くたびに耳障りな擦過音を立てる。焚き火は規定の高さに抑えられ、煙は結界の縁でいびつに裂けて、風に散った。


 カイエル・ヴァリンは地図台の前に立ったまま、夜が深くなるのを待っていた。待っていた、というより、待てる形に整えていた。


 報告は整然と並ぶ。補給線の寸断。避難民の列。偵察の帰還率。魔導砲兵の弾数。損耗の数字。数字は、誰も泣かない。


 泣くのは、数字になりきれないものだけだ。


「……次だ」


 声は短かったが、荒げないように抑えていた。部下に向けた丁寧さは、今夜は自分の首を締める鎖でもあった。焦りを渡せば、現場が燃える。燃えれば、民が焼ける。だから、燃やさない。


 だから、彼は親指で人差し指の関節を押した。


 癖は、判断を切り出す刃の柄だった。押し込むたび、思考が少しだけ静かになる。――はずだった。


 今夜は違った。


 押した瞬間、胸の奥が熱に満ちて、それから一息遅れて氷のように冷えた。熱と冷えの境目が曖昧なまま、喉の奥が痛む。理由のない涙が、視界の端に薄く滲んだ。


「……隊長?」


 副官のグレンが、紙束を持ったまま、少しだけ眉を寄せた。気づいたのだろう。気づかないふりができる男でもあったが、今は距離を詰めてくる。


 カイエルは短く首を振り、手を離した。指先に残る圧が、妙に重い。


「大丈夫だ。続けろ」


 グレンは頷き、声を落とした。


「沿岸連盟側が、今夜中に渡河点を変える可能性が高い。結界の揺らぎが――」


 結界。


 守るための嘘。


 その言葉が胸に触れると、熱と冷えがまた揺れた。会議場の石造の廊下。規定の距離を保つ通路の交差点。短い会話。名を名乗った瞬間の、あまりに人間的な間。


 リラ・セフィラ。


 名は杭だった。戦場で、いちばん簡単に刺さる杭。


「……揺らぎは?」


「東側の尾根沿い。誰かが結界に“守る”以外の目的を混ぜてる。視界が、必要なところほど抜けない」


 グレンの言い方は慎重だった。単純悪の黒幕を想定する口調ではない。だが、構造の中に意図が混じっていることも、否定しきれない。


 カイエルは地図の東側を指でなぞり、言葉を選んだ。


「渡河点を変えるなら、民の列とぶつかる。……避難導線は?」


「途中で途切れてる。橋が落ちた。昨夜の砲撃だ。連邦側の魔導砲が――」


「断定するな」


 声が少しだけ硬くなった。グレンが目を伏せる。


「……すまない。記録は“砲撃と推定”だ」


 推定。推定で人は死ぬ。推定で村が焼ける。推定で名が憎しみに育つ。


 カイエルは息を吸って、吐いた。吐息が白くならない季節なのに、胸の中だけが冷える。


「橋を落とすのは、簡単だ」


 誰に言うでもなく、口から出た。簡単だ。民の避難も、敵の侵攻も、一本の橋で止められる。簡単だ。簡単で、汚い。


 グレンが言葉を飲み込み、代わりに焚き火の音が強くなる。木が弾ける音は、遠くで骨が折れる音に似ていた。


「……簡単な解は、後で何倍も戻る」


 カイエルは地図台の縁を握り、指の関節の癖を抑えた。押せば、また胸が乱れる。乱れれば、判断が焼ける。


「橋を作り直す。今夜中に。避難導線を結ぶ。撤退線を二重にする。敵が渡るなら、渡らせた上で――」


 言いかけたところで、外から叫びが入った。


「敵襲! 南側! 民の列に――!」


 野営地の空気が一瞬で変わった。整然としていた紙束が、意味のない紙になる。夜の温度が、火で急に上がる。


 カイエルは立ち上がり、鎧の留め具を引いた。


「グレン、連絡。民の列を“止めるな”。止めれば固まって狙われる。歩ける者を前へ、負傷者は後ろへ回す」


「了解!」


「魔導砲兵は撃つな。撃てば、火が広がる。……俺が前へ出る」


 グレンが一瞬、口を開きかけた。止めたかったのだろう。だが、止める言葉は届かない。ここは、言葉が届かない世界だ。


 だから、カイエルは先に矢面に立った。


 ◆


 前線は、想像よりも近かった。


 土の上に、荷車が倒れている。車輪の軸が折れて、木が裂けていた。泣き声が混ざる。泣き声は結界の縁で歪み、どこから聞こえるのか分からない。分からないのに、胸だけが痛い。


「動け!」


 カイエルは叫んだが、声は自分の口の中で跳ね返った。届かない。届かない。言葉が空気の中で解体される感覚。会議場の廊下と同じだった。


 視界の奥に、淡い光が見えた。結界の光。守るための嘘の光。だが、その光があることで、敵の姿が見えにくくなる。必要な真実ほど抜けない。


「隊長、右から!」


 誰かの声が背中に刺さる。カイエルは身体が先に動いた。剣を抜き、刃で相手の刃を受ける。金属音が夜を裂く。


 相手は鎧の形が違う。自由連邦軍。沿岸連盟。敵。敵であるはずの、誰か。


 その瞬間、相手の肩越しに見えた。


 髪を耳にかける仕草。歩調の一定さ。結界の縁に沿って、避難導線を作るような動き。規律の維持。撤退支援。


 リラ・セフィラ。


 名が、喉の奥で燃えた。


 呼べば、届くのだろうか。呼べば、この場の火が少しでも弱くなるのだろうか。――そんな理想は、今夜は贅沢だった。


 カイエルは呼ばなかった。呼べなかった。役割が、名を封じる。封じたまま、刃だけが届く。


 民の列の近くで、誰かが倒れた。倒れた影が、子どもの影だったのか、兵の影だったのか、結界の歪みで判別がつかない。判別できないまま、血の匂いだけが届く。


「下がれ!」


 カイエルは命令し、剣で相手を押し返した。殺すためではない。押し返して、間を作るためだ。間があれば、民が抜けられる。間があれば、火が燃え広がらない。


 だが、間はすぐに埋まる。戦場は、隙間を許さない。


 背後で魔導砲の轟音がした。撃つなと言った。言ったはずだった。


 爆風が、夜の火を増やした。土が跳ね、耳が痛む。視界が白くなる。


「……誰が撃った!」


 叫んでも届かない。届かない声は、自分の喉を削るだけだった。


 煙が流れ、火が民の荷車に移った。布が燃え、木が燃える。火は温もりではなく、喪失の形で広がった。


 その火を、淡い光が包んだ。結界が火の進行を遅らせ、煙の流れを変える。守るための嘘が、今度は確かに守っていた。


 なのに。


 結界の光は、別の誰かの目には「隠蔽」に見える。敵の目には「策略」に見える。味方の目にさえ「裏切り」に見える瞬間がある。


 カイエルはその構造を、痛いほど知っていた。知っているのに、止められない。


 火の向こうで、グレンが誰かを抱え上げた。抱え上げた身体が軽すぎて、カイエルの胸が冷えた。軽い。軽いという事実が、何かを確定させる。


「……隊長!」


 グレンの声が揺れていた。揺れて、届いた。届いてしまった。


 カイエルは走った。走りながら、指の関節の癖が疼く。押したい。押せば、整理できる。整理できるはずだ。――だが、今夜は整理では済まない。


 近づくほど、現実が具体になる。


 抱えられているのは、兵だった。若い。顔の半分が土と血で覆われている。呼吸が浅い。目が、まだ開いている。


「……グレン、そいつは」


 グレンは首を振った。言葉を使わずに、答えた。


 カイエルは膝をつき、兵の胸当てに手を当てた。温度が、指先に残る。残るだけで、流れていく。


 兵の唇が動いた。何か言いたい。言いたいのに、結界の歪みと煙と血で、声が形にならない。


 カイエルは耳を近づけた。近づければ、届くはずだと信じてしまった。


 信じたい衝動が、ここでも、胸の奥にあった。


 だが、届いたのは言葉ではなく、空気の震えだった。


 震えの中で、兵の目が少しだけ焦点を結び、カイエルを見た。見て、笑ったように見えた。


「……守れ……」


 かすれた音が、言葉になりきらずに落ちた。


 カイエルは頷いた。頷くことしかできなかった。


「守る。……守るから」


 約束は、ここでは軽い。軽いのに、胸を裂く。


 兵の目が閉じた。


 閉じた瞬間、カイエルの中で何かが折れた。音はしない。音はしないのに、折れる感覚だけがある。


 焚き火の木が弾ける音が、遠くで何度も鳴った。火は燃え続ける。燃え続けることで、喪失を照らし続ける。


 カイエルは立ち上がった。立ち上がって、周囲を見た。見えるものが少ない。煙と結界で、必要な真実ほど見えない。


 だから、名が必要になる。


 名は、見えないものに輪郭を与える。輪郭は、憎しみを育てる。


「……自由連邦の指揮は誰だ」


 自分の声が、自分の耳に冷たく聞こえた。


 グレンが唇を噛み、言った。


「……リラ・セフィラ」


 名が、杭として胸に刺さった。


 刺さった杭は、抜けない。抜けば、血が出る。血が出れば、また誰かが死ぬ。だから、刺さったまま抱えるしかない。


 カイエルは親指で人差し指の関節を押した。


 今度は涙が滲まなかった。熱も冷えも、均一に冷たくなった。冷たさが、判断を早くする。早さが、優しさを殺す。


「……伝令を出せ。今夜の件、向こうの“偽装”だと記録する」


 グレンが顔を上げた。


「隊長、それは――」


「俺たちの兵が死んだ。民が焼けた。責任の矛先がないままでは、部隊が壊れる」


 部隊が壊れれば、次に死ぬのはもっと多い。そういう理屈を、カイエルは知っていた。知っているから言える。言えるから、余計に汚い。


「……真実じゃないかもしれない」


 グレンが絞り出すように言った。


 カイエルは一瞬だけ目を閉じた。閉じた瞼の裏に、会議場の廊下が浮かんだ。名を名乗った瞬間の、あの短い人間性。あの時、確かに「衝突を避けたい」と言った相手。


 真実は、あの廊下に置いてきた。


 今夜は、真実より先に守るものがある。


「……真実は、届かない」


 カイエルはそう言ってしまった。言った瞬間、自分の中の何かが死んだ。赦しの可能性。対話の余地。遅い理想。


「だから、守るための言葉を選ぶ」


 選んだ言葉は、刃だった。


 グレンは黙った。黙って、頷いた。部下の生存率を上げる指揮官の背中を、彼は信じている。信じたい衝動は、ここでは忠誠と呼ばれる。


 カイエルは立ち上がり、燃える荷車の方を見た。火は、誰かの生活を焼いている。火は、誰かの記憶を焦がしている。火は、誰かの憎しみを育てている。


 その火の向こうで、結界の光が揺れた。揺れた光の中に、髪を耳にかける所作が一瞬だけ見えた。


 見えた瞬間、胸の奥に、説明できない痛みが走った。痛みは、誰かの痛みに似ている気がした。似ている、と言葉にした時点で、嘘になる気がした。


 だから、彼は言葉にしなかった。


 代わりに、名を噛んだ。


 リラ・セフィラ。


 その名は、もう、敵を指すための記号ではなくなっていた。


 彼女自身を憎むのではない。彼女の名に釘付けになった憎しみが、勝手に育つ。それを止める方法を、彼は今夜、失った。


 ◆


 同じ夜、自由連邦側の臨時拠点でも、火が燃えていた。


 焚き火は小さく、結界で囲まれていた。囲まれることで安全になり、囲まれることで外の音が歪む。守るための嘘は、今夜も味方だった。


 リラ・セフィラは焚き火の前に膝をつき、手袋を外した。指先が震えている。震えは寒さではない。怒りでもない。怒りにするには、まだ、現実が曖昧すぎた。


 彼女は髪を耳にかけた。癖は、心を落ち着かせるための儀式だった。歩調が一定でいられないとき、髪だけは一定の位置に戻す。


 戻しても、戻らないものがある。


「……ミレア」


 名を呼ぶと、胸の奥が痛んだ。名は温度を持つ。温度があるから、喪失が伝わる。


 焚き火の向こうで、ミレアの遺体は布に包まれていた。包まれていることで、現実の輪郭が少しだけ柔らかくなる。柔らかくなることで、余計に残酷になる。


「指揮官」


 部下が報告書を差し出した。紙は湿っていた。汗か、涙か、雨か。区別がつかない。区別がつかないまま、記録だけが残る。


「秩序帝国軍が、民の列に向けて砲撃を行った可能性が高い。結界の光が――」


「断定するな」


 リラは自分の声に驚いた。相手と同じ言い方だった。相手の癖が移ったようで、吐き気がした。吐き気は、怒りに似ていた。


「……記録は“砲撃と推定”です」


 推定。推定でミレアが死ぬ。推定で民が焼ける。推定で、赦しが死ぬ。


 リラは報告書の端を握りしめた。紙がしわになり、文字が歪む。結界が歪めるのは視界だけではない。握る手の強さも、判断も、歪む。


 彼女は親指で指の関節を――押そうとして、止めた。


 その癖は、自分のものではない気がした。けれど、今夜、指先がその形を覚えている。誰かの癖が、身体に残っている。会議場で見た、あの男の癖。


 カイエル・ヴァリン。


 名は、杭だった。


 彼女はその名を、敵として認識していた。作戦書の中の記号として。警戒対象として。だが、会議場で名乗り合った瞬間、名は少しだけ人間になった。その人間性が、今夜は邪魔だった。


 邪魔だから、殺す。


 殺す、と言葉にした時点で、何かが楽になる。楽になることが、怖い。


「……ミレアを」


 リラは布の向こうに視線を向けた。布の上で、火の光が揺れている。揺れは、呼吸に似ていた。似ているだけで、呼吸ではない。


「……守れなかった」


 言葉が口から落ちた。落ちた言葉は、焚き火の音に吸われていく。結界の内側で、言葉は反響し、余計に重くなる。


 部下が何か言いかけて、やめた。やめた沈黙が、彼女に答えを与えた。答えは、憎しみだった。


「……向こうは、守るために撃った、と言うだろう」


 リラは静かに言った。静かさは、怒りのための器だった。


「守るために嘘をつく。守るために隠す。守るために殺す。――それが、あいつらの秩序だ」


 口調が端正であるほど、言葉が刃になる。


 リラは髪を耳にかけ、立ち上がった。歩調を一定にする。一定にすることで、心が壊れないようにする。


「……記録に残せ。秩序帝国軍の指揮官カイエル・ヴァリンが、民を盾にした可能性が高い、と」


 部下が目を見開いた。だが、命令に従う。従うことで守られる。守られることで、また戦争が長引く。


 リラはそれを知っている。知っているのに、止められない。


 止めるための言葉は、届かない。


 彼女は焚き火の前に戻り、布の端に手を置いた。布の下の温度が、もう、冷たい。


 冷たい温度が、彼女の中の赦しを殺した。


「……カイエル」


 名を呼んだ。呼んだ名は、会議場の廊下の残響を連れてきた。あのときの“戦争以外”を考える気配。あの短い人間性。


 その残響が、今夜は最悪だった。


 残響があるから、憎しみが“誰か”に固定される。


 固定されるから、刃を向けられる。


 刃を向けられるから、少しだけ楽になれる。


 リラは目を閉じた。閉じた瞼の裏で、火が燃えた。火は温もりではなく、喪失の形で燃えた。


 そして、彼女は言葉を選んだ。


 守るための言葉。守るための刃。


 赦しの死体の上に立つための言葉。


「ぶっ殺してやる」「八つ裂きにしてやる」

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