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届かない言葉 / 届く言葉  作者: 夕陽野 ゆうひ


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届く言葉 II『名前で呼び合う』

 深夜のオフィスは、音が薄かった。


 空調の低い唸りと、遠くのコピー機の乾いた作動音。モニターの白が疲れた眼を刺し、ガラス張りの会議室に反射した自分たちの影が、ずっと残業している別世界の住人みたいに見えた。


 相澤は、自席に戻るたび親指で人差し指の関節を押していた。癖は、整理の合図だったはずなのに、今夜は違った。押すたびに胸の奥が、理由のない熱を帯びて、次の瞬間には冷える。身体のどこかが、言葉の順番より先に、何かを知っているような反応だった。


 画面には、障害対応のタイムライン。更新されるコメント。誰かの「すみません」が、誰かの「それは仕様です」に跳ね返り、誰かの「確認します」が空中でほどけていく。


 炎上は、外から来る。だが、火が燃え広がる燃料は、たいてい内側にある。


「……相澤さん」


 少し離れた席から、篠原の声がした。いつも通り丁寧で、しかし遠慮がない。彼女の背筋は崩れていないのに、肩だけが僅かに固い。髪を耳にかける指の動きが、いつもより早かった。


「今のログ、見ました? 切り戻しの判断、現場が怖がってます」


「うん。怖がってる理由は“責任”だね。技術じゃない」


 相澤は、すぐに言ってから、言葉の温度を測り直すように一拍置いた。責めるための断定に聞こえないように。


「責任の所在が曖昧だから、誰もスイッチを押せない。切り戻しは失敗として記録される。成功は“偶然”で処理される。だから現場は、いつも一番危ない選択を先延ばしにする」


 篠原は、肯定も否定もしない。眉がほんの少し動いた。相澤の言い方が、観測に近いのを知っているからだ。


「……それを“設計”で解消するって言いましたよね。どうやって」


「会議を作り直す。判断をする人を決める。判断基準を文章にして、今夜の一回だけじゃなくて、次に同じ火がついたときにも使える形にする」


 相澤は立ち上がって、会議室のガラス扉を押した。中の白いテーブルが無機質に光っている。そこへ、火の代わりに言葉を置く。


「十五分だけ。関係者、最小限。結論は二つに絞る。“切り戻すか”“切り戻さないか”じゃない。まず“誰が”決めるか、次に“何を見て”決めるか」


「……それ、いけますか」


 篠原の声が、僅かに低くなった。仕事の声だ。だが、奥に別のものが混じる。失敗の記憶を持つ人間の、慎重さ。


「いける。いけるようにする」


 相澤は言い切ってしまった自分に、小さく息を吐いた。言い切るのは、時に暴力だ。だが、今夜の現場は、その暴力に近い確信を必要としている。


 篠原が、会議招集のメッセージを打つ。Slackの通知音が、雨粒みたいに短く鳴った。


 ◆


 会議室に集まった顔ぶれは、疲れで表情が薄い。牧野は眉間に皺を寄せ、安藤は何かを言いかけては飲み込んでいる。現場のエンジニアが二人。顧客対応窓口が一人。


 相澤は立ったまま、ホワイトボードに四つの枠を引いた。


「今から十五分で決めます。責任追及はしない。判断のために必要な情報だけ出す」


 言い切って、相澤はわざと笑いを一滴だけ落とした。


「……こういうときに責め始めると、僕らの仕事が増えるので」


 笑いは起きない。だが空気が、少しだけ緩む。シリアスの九に対して、呼吸の一。


「まず“判断者”。牧野さん、ここはあなたが決める。僕が設計する。現場は事実だけ出す。篠原さんが漏れを潰す」


 篠原はその言い方に、一瞬だけ目を細めた。「漏れを潰す」が、彼女の役割として自然に置かれたことに気づいたのかもしれない。役割を与えられるのは、拘束でもある。だが、今夜は拘束が安全になる。


「次に“基準”。切り戻しの条件は二つ。影響範囲が広がる兆候があるか。復旧手段の確実性がどちらにあるか」


 相澤は枠の中に短く箇条書きを置く。言葉を短くすると、逃げ道が減る。逃げ道が減ると、誰かの胸が痛む。だから、痛む人が一人で背負わないようにする。


「そして最後。“記録”。切り戻しは失敗じゃない。意思決定の結果だ。意思決定のログは、僕が残す」


 安藤が、やっと声を出した。


「でも……ユーザーが、“戻すな”って言ったら……」


 相澤は、一拍置いた。言葉の距離を測る。ここで「それは違う」と言えば、安藤は自分が責められたと感じる。責任転嫁の火が、またつく。


「そう言われたら、僕が窓口に立つ。交渉の台本も作る。現場は、今夜の復旧に集中する」


 牧野が、疲れた目で相澤を見た。上司の目だ。外部薬を投入した人間の、期待と疑いが混じる目。


「……相澤、そこまで背負うのか」


「背負う、というより。役割を引き受けるだけです」


 相澤はそう言いながら、胸の奥に小さな摩耗を感じた。役割を引き受けるのが得意であるほど、最後に自分が空になる。


 篠原が、突然言った。


「相澤さん。今の言い方だと、“あなたが全部やる”に聞こえます」


 会議室の空気が、少しだけ動く。誰もが、それを言ってはいけないと思っていた言葉だった。


 相澤は、視線を篠原に向けた。近い。これまでの距離より、近い。


「……そう聞こえたなら、修正する。僕がやるのは、交渉の窓口と、意思決定ログ。現場設計は僕。漏れ潰しは篠原さん。牧野さんが決める。チームで持つ」


 篠原は、微かに頷いた。その頷きは、仕事への同意であり、もう一つのものの予告でもあった。


 十五分が終わるころ、結論は出た。切り戻し。判断のログ。交渉の台本。


 会議室を出るとき、相澤は無意識に親指で関節を押した。


 その瞬間、胸の奥が刺すように熱くなり、次いで冷えた。言葉が届かない世界で叫んだ誰かの声が、体内で残響したような錯覚。理由のない涙が、視界の端に滲みかけた。


 相澤は、すぐに瞬きをして誤魔化した。篠原に気づかれたくない。だが、篠原の視線が一瞬だけ、相澤の指先に落ちた気がした。


 ◆


 切り戻し作業は、静かな戦いだった。


 コマンドが走り、ログが流れ、待機の時間が長いほど、怖さが増す。復旧が進んでいるのか、それとも壊れているのか。数字とステータスだけが世界になる。


 篠原は、現場の確認項目を淡々と潰しながら、誰かの不安が言葉になりかける瞬間に先回りして整えた。


「ここは確認済みです。次はこの順番でいきましょう」


 その声は、嘘をつかないように使われている。言葉を裏切らないように。だからこそ、強い。


 午前二時を過ぎたころ、復旧の通知が一つ、二つと積み上がった。顧客対応窓口が、明らかに息を吐く。牧野が、椅子の背にもたれた。安藤が、笑うにはまだ早い顔をした。


 相澤は、その瞬間にこそ危ないのを知っていた。火は、消えかけたときに風を受ける。


「最後に、振り返りの枠だけ作っておきます。責める場にはしない。次に備える場にする」


 篠原が言った。


「“次に備える”って、言い方。好きです」


 相澤は、少しだけ驚いた。仕事の話の中で、「好き」という言葉が出ることの温度。だがそれは、恋の告白の温度ではない。信頼の芽の温度だ。火の小さな種。


「僕も。責めるのは、簡単だから」


 相澤はそう返して、言葉の端に残る疲労を飲み込んだ。責めるのが簡単だと知っている人間ほど、簡単さに負ける瞬間が怖い。


 篠原が、髪を耳にかけた。いつもよりゆっくりだった。歩くテンポと同じように、彼女の内側のリズムが、少しだけ整ってきた合図。


「相澤さん、帰れますか。今夜」


 相澤は、立ち上がって背筋を伸ばした。身体は重いのに、脳はまだ熱い。火は消えない。


「帰れる。……一緒に帰ろう」


 その「一緒」が、仕事の範囲を少しだけ越える音を含んでいた。


 ◆


 エレベーターを降りると、都心の夜は冷たかった。風がビルの隙間を抜けて、熱を攫っていく。川沿いの道へ出ると、街灯の光が水面に揺れ、昼の喧騒が嘘のように遠い。


 篠原の歩くテンポは一定だった。相澤は、そのテンポに合わせることを覚え始めていた。合わせるのは、支配ではない。相手のリズムを尊重する、という設計だ。


 沈黙が続いても、苦しくない。言葉が届く経路が、まだ一本だけ、開いている。


「さっきの会議で」


 篠原が言った。声が少しだけ、職場より柔らかい。


「“篠原さんが漏れを潰す”って。役割を言われるの、嫌いじゃないです。でも……」


 相澤は、彼女の言葉の続きが怖かった。役割は人を守る。役割は人を縛る。


「でも?」


「“あなたが全部やる”って聞こえたとき、嫌でした」


 篠原は、まっすぐ言った。言葉を裏切らない人の強さで。


「嫌、というより。怖い。そういう人は、いつか燃え尽きるから」


 相澤は、親指で関節を押しそうになるのを堪えた。押せばまた、胸が変なふうに反応する。理由のない冷えが、夜の風より先に来る。


「……燃え尽きた経験がある。前の職場で」


 相澤は、言い切らなかった。輪郭だけを置く。守れなかった過去の、焦げ跡の匂いだけを。


「だから、“設計”に執着した。燃え広がる前に、火の道を変える。でも、僕は……設計で全部解決できるって思ってるわけじゃない」


 篠原は、少しだけ首を傾けた。


「じゃあ、何でやるんですか」


 相澤は、歩きながら考えた。仕事の答えなら簡単だ。だが、今聞かれているのは、仕事の外側だ。


「……信じたいから」


 言葉が口から出た瞬間、自分でも驚いた。信じたい衝動。環境が変われば、愛にも憎しみにもなる衝動。今は、愛の側へ向かっている。


「人は、責めるより、支え合った方が強いって。そう信じたい。信じるための仕組みを作りたい」


 篠原は、しばらく黙った。川面の反射が、彼女の横顔を揺らす。火ではない光。だが、温度のある光。


「……相澤さん」


 呼びかけは、いつも通り苗字だった。その苗字が、今夜は少しだけ近い。


 相澤は、返事をする前に、胸の奥が僅かに疼くのを感じた。言葉が届かないはずの場所から、何かが触れてくるような違和感。指先ではなく、名前の音に。


「何?」


「私、“あなた”って呼ぶの、やめようと思って」


 相澤は、足を止めかけた。呼び方の変更は、距離の設計変更だ。軽いようで、取り返しがつかないときがある。


「……どう呼ぶ?」


 篠原は、髪を耳にかけた。風で乱れた髪が、すぐに整えられる。一定のテンポで。


「相澤さん、って呼びます。今も呼んでますけど。そうじゃなくて……“あなた”をやめる理由が欲しいから」


 相澤は、その意味を噛んだ。「あなた」は距離を保つ言葉だ。苗字は、社会の距離の言葉だ。だが、今、彼女が言っているのは、距離の話ではなく、責任の話だった。言葉を使う責任。


「僕も、篠原さんを“篠原さん”じゃなく呼びたくなるときがある」


 相澤は、言ってしまったあとで、喉が少し乾くのを感じた。名前は、火に似ている。近づける。焦がす。


 篠原は、表情を変えないようにして、しかし目だけが僅かに揺れた。


「……やめてください。今、それ言うと、今夜帰れなくなる」


 相澤は、笑った。今度は、ほんの少しだけ本当の笑いだった。


「じゃあ、今日は設計の話だけにする。呼び方は、まだ保留」


「保留、って言い方、相澤さんらしいです」


 篠原はそう言って、歩くテンポを戻した。相澤も合わせる。


 川沿いの夜は冷たい。だが、胸の奥には、確かに小さな温度が残っていた。


 それでも、相澤はふと、指の関節に圧をかけたくなった。怖さを整理するために。だが、今夜は押さなかった。


 もし押せば、どこか別の場所の火が、こちらへ漏れてくる気がしたからだ。説明できない胸騒ぎ。言葉が届かない世界の残響。


 篠原が、歩きながら小さく言った。


「……相澤さん。私、怖いって言いましたけど。嫌いじゃないです。そういうところ」


 相澤は、返事を探した。返事が見つからないまま、胸の奥が少しだけ熱くなった。言葉が届く世界で、言葉が追いつかない。


 夜の川面が揺れ、街灯の光が、火のように揺れた。


 ◆


「名前を呼ぶたび、味方になっていく。」

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