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届かない言葉 / 届く言葉  作者: 夕陽野 ゆうひ


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届かない言葉 II『名前だけが残る』

 霜の薄膜が、踏みしめられた土の凹みにだけ残っていた。夜明け前の前線は、音が少ないぶん、匂いが濃い。湿った革、油、乾ききらない血の鉄臭さ。焚き火の名残が白い息と混ざり、遠くで魔導砲の試射が地面の奥を震わせた。


 カイエル・ヴァリンは、野営地の端に張られた幕舎の中で、封蝋を指で割った。赤い蝋が欠ける感触は、いつも「決定」の手触りに似ている。紙束を開いた瞬間、胸の奥に冷たい針が一本、まっすぐ刺さった。


 作戦書の二枚目。敵前線指揮系統の欄に、整った文字で記されていた。


 ――リラ・セフィラ。


 カイエルの親指が、無意識に人差し指の第一関節を押した。骨の内側へ圧を沈めると、考えがまとまる。そういう癖だと自分では理解していた。だが今朝のそれは、ただの思考のスイッチではなかった。圧の下で、胸の奥がほんのわずかに熱を帯び、すぐに冷えた。火を見誤ったときの、あの熱と冷えの切り替わりに似ていた。


 会議場の通路の交差点。距離を守るために引かれた目印の線。その線の向こうで、彼女は端正に名を名乗った。名を名乗った瞬間だけ、敵味方の境界が薄くなった気がしたのに――こうして紙の上の文字になった途端、名は杭になる。


「隊長」


 副官のグレンが、眠れなかった目で書類を覗き込んだ。


「……ああ。確認した」


 カイエルは声の温度を一定に保った。兵の前で、名に揺れは見せない。名が揺れれば、役割も揺れる。役割が揺れれば、隊は壊れる。守るべきものが先だ。理想は後回しになる。そう決めてきたはずだった。


「敵は、自由連邦の結界隊を前面に押し出してくる。……やつらの“守り”は、こちらの視界を奪う」


 結界。守るための嘘。会議場でそれを見たとき、カイエルはその嘘が「善意」から生まれることも知っていた。だからこそ、厄介だった。悪意なら切れる。善意は切った瞬間に、自分の刃が正しさを失う。


「俺たちは、目を奪われる前に退路を作る。撃つな、追い詰めるな。押し返す。押し返して、住民を流す」


 作戦書の行間には、もっと単純な命令が漂っていた。勝て。殺せ。奪え。だが紙は、言葉をきれいに整える。整った言葉ほど、現場の泥に足を取られないふりをする。


 カイエルは書類を畳み、革袋へしまい込んだ。その指が、もう一度、関節を押した。自分に言い聞かせるように。


 ――名はただの記号だ。敵の指揮官の名は、敵の指揮官の名だ。


 だが、会議場で聞いた声の残響は、記号になりきれずに残る。



 午前の斥候が、川沿いの集落の近くで敵影を捉えた。地形は悪かった。川は浅いが幅が広く、渡河点が限られる。渡河点を押さえれば勝てる。押さえれば、民が巻き込まれる。


 カイエルは地図の上で、渡河点から一つ外れた旧道に指を置いた。そこは小さな祠と、崩れかけた石橋がある。橋を渡れなくすれば敵は止まる。止まれば、こちらが先に陣を整えられる。だが橋は、民も使う。民が逃げる道でもある。


「橋を落とすか?」とグレンが言った。


 問いは短い。答えは長い。


「落とさない」


 カイエルは即答した。言葉が刃になる前に、言葉を固定する。固定しなければ、誰かが「一番簡単な答え」を勝手に選ぶ。


「代わりに、旧道の先を燃やす。林だけだ。煙で視界を奪って、結界の展開を遅らせる。民は川沿いの畑道に誘導する。避難導線は俺が組む」


 火。火は温もりにも喪失にもなる。焚き火は手を暖めるが、火は村を奪う。火の二つの顔を、カイエルは知っている。だから火に命令するのは、できれば避けたかった。だが避けることで、もっと大きな火を呼ぶのなら。


 副官が一瞬だけ眉を動かし、すぐに頷いた。


「了解。……燃えるのは林だけだな」


「林だけだ」


 カイエルは自分の声の平坦さが、怖かった。平坦であることが、隊長の務めだとわかっている。その平坦さが、何かを削っていく感覚もまた、わかっていた。



 林に火が入ると、湿った葉が一斉に息を吐いた。煙は濃く、甘い匂いと苦い匂いが混ざった。炎は枝から枝へ飛び、空の低いところだけが赤く染まった。民家の屋根が見える距離ではない。理屈では安全だ。だが煙は、理屈の外へも広がる。


 カイエルは煙の境界を見ながら、部下たちを旧道から外へ流した。民を畑道へ誘導するため、村の入口に立つ老人へ短い指示を渡す。老人の目は怯えと怒りが混ざり、どちらが敵かわからない色だった。


「兵さん、また燃やすのか」


 老人の声は、掠れていた。質問の形をしているが、答えを求めていない。過去の火が、老人の中でまだ燃えている。


「燃やさない。逃げ道を作る」


 カイエルはそう言った。言った瞬間、言葉が空に吸われていく感覚がした。結界はここにはない。だが、戦場そのものが結界のように言葉を歪める。守ると言っても、燃やす手が先に見える。逃げ道を作ると言っても、刃の音が勝つ。


 煙の向こうで、金属が擦れる音がした。盾が擦れ、鎧が擦れ、足が揃う。敵の隊列が来る。距離が縮むほど、会話は遠ざかる。戦場の距離は、言葉の距離ではない。剣の距離だ。


 カイエルは部下に合図し、隊列を低地へ沈めた。矢は構えるな。魔導砲の照準は上へ。撃つとしても、まず牽制。殺すのは最後だ。彼は自分の中の「最後」を、できるだけ遠くへ置こうとした。


 煙が薄く切れた瞬間、向こう側の隊列の先頭に、結界の光が走った。薄い膜が空間を撫でるように伸び、地面に淡い紋が刻まれる。彼はあの光の性質を知っている。刃を止めるための壁。視線を曲げるための嘘。嘘は、守るために使われる。


 そして、その嘘を張る手の癖を――彼は、知っていた。


 敵の先頭から少し下がった位置。結界の紋を確認するように、一定のテンポで歩く影があった。歩幅が揺れない。指先が空をなぞるとき、迷いがない。髪が、緊張を隠すように耳へ流れる一瞬。会議場の交差点で見た所作と、重なった。


 リラ・セフィラ。


 距離は三十歩ほど。煙の幕の切れ目が、ふたりの間にだけ偶然の通路を作っていた。互いに、互いを「見える」位置にいる。矢を射れば届く。魔導砲を下げれば届く。叫べば、声は届くかもしれない。


 だが、叫べるのは「役割」ではない。


 カイエルの喉が、瞬間だけ熱を持った。名を呼べば、会議場の続きになる気がした。名を呼べば、敵味方の境界が薄くなる気がした。薄くなった境界の中でなら、戦争の速度をほんの少し遅らせられるかもしれない、と。


 その「かもしれない」が、最も危険だと彼は知っている。かもしれないに部下の命を賭けることはできない。かもしれないに民の命を賭けることはできない。


 カイエルは唇を動かさなかった。代わりに、合図旗を上げた。撤退ではない。押し返し。正面衝突を避け、側面から圧をかける。敵に「退く理由」を作る。勝ち負けではなく、次の火を小さくするための戦い方。


 彼の合図に呼応して、部下が一斉に動いた。煙の中へ走り、低地から高地へ、敵の側面へ回り込む。足音が泥を叩き、鎧が擦れる。


 敵側でも、動きが変わった。結界の光が波打ち、隊列がわずかに開く。開いた隙間に、民が走り抜ける。畑道へ誘導したはずの民の一部が、恐慌で戻ってきたのだ。戦場の設計は、いつも現実に裏切られる。


 カイエルは息を吸い、部下へ叫んだ。


「民を通せ! 刃を下げろ!」


 声は煙に吸われた。吸われながらも、いくつかの耳には届いた。刃が下がる。盾が退く。そこに、敵側の結界が一瞬だけ薄くなるのが見えた。偶然か、意図か。


 煙の切れ目の向こうで、リラがこちらを見た。目が合った――そう錯覚するほどには、距離が近かった。だが実際に見えたのは、視線そのものではない。結界の縁を調整する手の動きと、足のテンポが一拍だけ遅れる、その“癖”だった。


 彼女は、こちらへ刃を向ける代わりに、結界の縁を少しだけ広げた。民が走り抜ける幅ができる。幅は、言葉ではない。言葉の代わりの、間だ。


 カイエルはその間を、見逃さないようにした。間に意味を与えないようにした。意味を与えた瞬間、希望になる。希望になった瞬間、裏切りになったときの憎しみが育つ。


 それでも胸の奥に、熱が灯った。


 指がまた勝手に関節を押した。押した瞬間、胸の熱は刺すような痛みに変わり、すぐに消えた。火に触れたわけでもないのに、火傷のような痛みが残る。何かが、遠いところで同じ癖を繰り返したような錯覚。


 煙は再び濃くなり、通路を塞いだ。ふたりの間の三十歩は、何もなかったかのように消えた。残ったのは、隊列と命令と、名だけだった。



 戦いは小さな勝利と小さな敗北を積み上げて終わった。敵を押し返したが、村の外れの納屋が煙の火種で焦げた。民は生きた。だが「燃やした」という記憶だけが残る。カイエルは納屋の黒い焦げ跡を見て、胸の中で何かが沈むのを感じた。守るために火を使った。その火は、守るべき人の心に、別の火を残す。


 夕刻、回収された敵の伝令袋が幕舎へ運び込まれた。血に濡れた布と、泥に汚れた紙。紙は、戦場の泥を嫌う。だが泥は紙の上にも乗る。乗ってしまえば、紙の言葉は現場の匂いを持つ。


 カイエルは伝令袋の中身を一枚ずつ検めた。結界術式の簡略図、糧秣の配分、撤退の指示。どれも、守るために整えられた設計だった。敵も同じように、衝突を減らし、損耗を減らし、民を守ろうとしている。その事実は、時に救いで、時に絶望だった。互いに守ろうとすればするほど、互いを「守れない原因」として固定する速度が上がる。


 袋の底に、折り畳まれた薄い紙があった。手書きの文字。報告書というより、部下への通達の走り書きに近い。走り書きは、その人の癖を露骨に残す。角を丸めた字。余白の取り方。線の引き方。


 カイエルは紙を開いた。


 そこには、敵側の警戒対象が列挙されていた。名称。部隊。特徴。そして――


 カイエル・ヴァリン。


 彼の名の下に、短い注記が添えられていた。


 「撤退設計が巧い。民を盾にしない。だから厄介だ。油断するな」


 褒め言葉に見える。だが戦場での褒め言葉は、殺すための理解だ。理解は距離を縮める。距離が縮まれば、憎しみは具体になる。


 カイエルは紙を握り潰しかけて、やめた。紙を潰せば、情報を潰すことになる。情報を潰せば、部下が死ぬ。役割は冷静さを要求する。冷静さは、胸の火を封じる。


 彼は紙を丁寧に畳み、革袋へ戻した。指の関節が痛むほど、圧をかけた。圧の下で、胸の奥がまた熱を帯びた。会議場で名を名乗り合った瞬間の熱。煙の切れ目で、間を渡した瞬間の熱。敵の紙に自分の名が載っていた瞬間の熱。


 熱はすぐに冷えた。冷えた後に残るのは、火ではなく、灰に似た沈黙だった。



 夜、野営地の焚き火が赤く揺れた。火はいつも、あまりに無邪気に温かい。人の選択の重さを知らないまま、ただ燃える。燃えることで、手を温め、顔を照らし、影を作る。


 カイエルは焚き火の前で膝を抱えた。鎧の隙間から冷気が入り、体の芯がじわじわと冷える。それでも火の近くに寄りすぎれば、目立つ。戦場では、温もりも危険になる。


 焚き火の向こうで、兵たちが敵の悪口を言って笑っていた。笑いは必要な呼吸だ。息を吐かなければ、彼らは壊れる。壊れた隊は、民を守れない。だからカイエルは止めない。止めない代わりに、聞かないふりをする。聞かないふりが、少しずつ自分の中に溜まっていくのを感じながら。


「リラ……セフィラ」


 口の中だけで名を転がすと、舌に金属の味がした。名は記号だと自分に言い聞かせた。記号なら、殺せる。記号なら、憎める。記号なら、戦いを続けられる。


 だが名は、会議場の通路の冷たい石の感触も連れてくる。煙の切れ目の光も連れてくる。結界の縁が薄くなった一拍の間も連れてくる。


 その全部が、戦争を遅らせるのではなく、憎しみを育てる肥料になりうることを、彼は理解していた。理解してしまったことが、最も苦しかった。


 薪がはぜ、火の粉が一つ、暗闇へ飛んだ。飛んだ火の粉は、すぐに消えた。消えた後に残るのは、見えない焦げ跡だけだ。言葉も同じだと、カイエルは思った。届くはずだった言葉は、届かないまま消え、見えない焦げ跡だけが残る。その焦げ跡に、名が刻まれる。


 彼は親指で人差し指の関節を押した。圧の下で、胸の奥が微かに痺れた。涙は出ない。ただ、息を吸うときに少しだけ、胸が引っかかった。


 ――名は、距離を縮める。


 ――縮まった距離のぶんだけ、憎しみは具体になる薪


 焚き火の赤が、彼の手の甲を照らした。手の甲の影が、骨の形を強調する。その骨の形が、誰かの骨の形と似ている気がした。似ていると思った瞬間に、彼はそれを振り払った。そんな偶然に意味を与えるのは、戦場では死に近い。


 火は燃える。名は残る。距離は縮む。役割は外れない。


 そして、憎しみは育つ。


「名前だけで、憎しみは育つ。」

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