届く言葉 I『出会いの設計』
ガラス張りのビルは、朝の光を受けてやけに静かに見えた。だが中へ入った瞬間、相澤の耳は別の温度に包まれた。空調の乾いた音、キーボードの連打、遠くの笑い声。誰かの端末から漏れる通知音が、短い針みたいに空気を刺していく。
受付で借りた入館証のストラップが、胸元で小さく揺れた。新しい職場の匂いは、紙とコーヒーと、どこか焦げたような電子機器の熱だった。
エレベーターを降り、フロアに足を踏み入れた途端、視界の端に「炎上案件」という言葉が浮かんだ。ホワイトボードの隅に、赤いマーカーで丸を付けられている。火そのものは見えないのに、熱だけが先に伝わってくる。
牧野が、早足で近づいてきた。相澤より少し背が低く、しかし姿勢の角度が、他人に頼むことを日常にしてきた人のそれだった。
「相澤さん。来てくれて助かった。紹介するね。ここが当面の戦場——じゃなくて現場」
牧野は冗談のつもりでそう言ったが、笑いは薄かった。笑える余裕が、チーム全体に欠けているのが分かった。
視線を巡らせた先、一定のテンポで歩いてくる女性がいた。髪を耳にかける仕草が妙に滑らかで、歩幅もぶれない。机の間をすり抜けても、誰とも肩が触れない距離感を維持していた。
「篠原。例の案件、実務の中心。相澤さん、立て直し担当」
篠原結衣は、名を呼ばれても表情を大きく変えず、軽く頭を下げた。
「篠原です。よろしくお願いします」
丁寧だった。けれど、その丁寧さは壁でもあった。相澤の中で、無意識に親指が人差し指の関節を押した。いつもの癖だ。考えが散らばりそうなとき、骨の角度を確かめるみたいに指先で自分を固定する。
その瞬間、胸の奥に、理由の分からない痺れが走った。痛みではない。熱とも違う。ただ、何かが「触れた」感覚だけが残った。
相澤は息を飲みそうになり、喉を軽く鳴らして誤魔化した。
「こちらこそ。……現場の状況、まず教えてください。あなた——篠原さんが見ている“今いちばん危ないところ”から」
篠原は目を細めた。相澤の言い換えを聞き逃さない人の目だった。
「“危ないところ”は、二つあります。ひとつは外。ユーザーの不満が増えている。もうひとつは内。チームが、誰を信じていいか分からなくなっている」
火種の説明として、これ以上ないほど正確だった。相澤は頷きながら、あえて結論を急がずに言葉を整えた。
「分かりました。外は数字と反応で追える。内は、構造で守らないと燃え続ける。……今、誰が何を判断しているか、整理させてください」
篠原は一拍だけ間を置き、首肯した。その一拍が、相澤には小さな承認に思えた。
◆
最初の定例ミーティングは、予定より五分遅れて始まった。遅れた理由は誰も口にしなかった。言い訳が増えると、それだけで余計に空気が濁る。相澤は、その“濁り”が言葉を届きにくくすることを知っていた。
会議室のガラス壁越しに、フロアの動きが見える。透明なはずなのに、内側と外側で温度が違う。相澤は、席の配置を変えた。責められやすい担当者を、上司の真正面に置かない。声の大きい人を中央に置かない。視線の矢印を、なるべく交差させる。
「今日の目的を二つに絞ります」
相澤が言うと、何人かが訝しげに顔を上げた。“目的を絞る”という行為自体が、この現場では贅沢に見えるのだろう。
「第一に、現状を“誰の責任か”ではなく“何が起きているか”で揃える。第二に、今日決めることと、決めないことを分ける。ここで全解決はしません。代わりに、解ける形にします」
「全解決はしない」という言葉が、場の緊張をわずかに下げた。諦めではなく、設計の宣言として響いたからだ。
篠原は相澤の斜め向かいに座っていた。背筋は崩れず、ペン先だけが静かに動いている。相澤が“決めないこと”を口にした瞬間、篠原の肩がほんの少し緩んだのが見えた。
議題が進むにつれて、いくつかの発言が刺さり始めた。
「つまり、実装が遅いのが悪いんだよね?」
誰かが、矢印を人に向けた。空気が一段乾いた。
相澤は、すぐに遮らなかった。代わりに、ホワイトボードに線を引いた。言葉が刃になる前に、刃先を図に落とす。
「“遅い”は観測結果です。原因に分解しましょう。遅いのは、仕様の確定が遅いのか、確認が遅いのか、判断が遅いのか。——篠原さん、現場の詰まり、どこだと思いますか」
名指しされた瞬間、篠原が髪を耳にかけた。癖が出るのは、緊張と集中が同時に走るときだ。
「判断です」
短かった。だが、短いほど嘘が混じらない。
「確認して戻すたびに、別の人の“正しさ”が増えて、仕様が太っていく。誰も悪くない、っていう顔で。でも、その間にユーザーが離れる」
会議室の空気が、いったん黙った。誰も否定できない事実が、言葉として置かれたからだ。
相澤は頷き、親指で関節を押した。今度は胸の痺れは来なかった。代わりに、目の奥がじわりと熱を持った。理由は分からない。ただ、今の言葉は届いた、と身体が先に判断した。
「ありがとう。なら、判断を軽くする。決める人を減らすんじゃなくて、決めやすくする。——今日、判断のための“前提”を揃えます」
会議は、いつもより静かに進んだ。静かさは、言葉が通るための余白だった。
◆
昼を過ぎ、フロアの窓辺に日が差し込んだころ、Slackの通知が続けて鳴った。インシデントの報告だった。数字が跳ね、問い合わせが増え、誰かの手が止まる。
相澤は立ち上がり、篠原の席へ向かった。距離を詰めるときに、速く歩きすぎない。追い詰められている人は、速さに追われる。
「篠原さん。今、どこが一番危ない?」
「決済周り。エラー率が上がってる」
篠原は画面を見たまま答えた。声は落ち着いているのに、指先の速度が上がっていた。相澤は椅子の背に手を置き、覗き込む角度を少しずらした。真正面から覗くと、監視になる。隣から覗くと、伴走になる。
「対応は?」
「仮説はある。でも——」
篠原は言いかけて止めた。“でも”の後ろに、誰かの顔があるのが分かった。過去に、言ったことで責められた記憶がある人の止まり方だった。
相澤は、言葉の出口を設計する。
「今ここでは、当てに行かなくていい。仮説を三つ並べて、検証の順番を決めよう。外れたら、外れたって言える形にする」
篠原は一瞬だけ相澤を見た。評価ではなく、確認の目だった。“責めない”が本当かどうか。
「……分かりました」
相澤は、その「分かりました」を軽く扱わなかった。了承は、積み上げるものだ。ここで一度でも裏切れば、二度目はない。
緊急対応は、夜まで続いた。誰かが「すみません」と言い、誰かが「分かる」と返し、誰かが黙ってログを追う。相澤は何度も“言葉の通る経路”を作り直した。誰がいつ何を決めるか、誰に何を共有するか、誰が何を抱えないようにするか。
篠原は疲れているはずなのに、姿勢が崩れなかった。崩す余裕を自分に許していない。その強さが、危うさでもあると相澤は思った。
終電が近づくころ、ようやく火の勢いが落ちた。数字が戻り始め、問い合わせの増加が止まる。相澤は、息を吐く音を自分の中に探してから、やっと口にした。
「お疲れさまでした。……篠原さんがいなかったら、判断が間に合わなかった」
篠原は、ほんの少し口元を緩めた。しかしすぐに元の表情に戻った。笑うより先に、現実が来る癖だ。
「相澤さんの“決めない宣言”が効きました。あれがなかったら、もっと燃えてた」
燃える、という言葉が、二人の間に落ちた。今日一日、誰もが見ないふりをしていた火を、篠原は淡々と名付けた。その名付けが、相澤にはありがたかった。名前がつくと、扱える。
相澤は、また親指で関節を押した。今度は、胸の奥が小さく鳴った気がした。痺れではない。どこかで焚き火がぱち、と爆ぜる音に似ていた。
◆
ビルを出ると、夜の空気が肌の表面を洗った。冷えているのに、妙に軽い。帰り道の川沿いへ出ると、水面が街灯を引き延ばし、静かな火のように揺れていた。
篠原は一定のテンポで歩いている。疲れているはずなのに、そのテンポは崩れない。相澤は、歩幅を合わせた。合わせるのは、相手にとって「邪魔じゃない距離」を探す作業だ。
少し歩いたところで、篠原が言った。
「相澤さん、転職組ですよね」
「そうです」
「前の会社でも、こういう……燃えてる案件、やってた?」
篠原は“燃えてる”と言うときだけ、声をほんの少し落とした。火は見せない。けれど、温度は共有したい。そんな言い方だった。
相澤は、正直に答えるべき範囲を測った。過去を語りすぎると、同情を引き換えに距離を歪める。語らなさすぎると、壁になる。
「やってました。……ただ、最後はうまく守れなかった。だから今は、先に設計して、燃えにくくしたい」
“守れなかった”と言った瞬間、相澤の喉が少しだけ痛んだ。篠原はすぐに踏み込まなかった。踏み込まないことが、相手を尊重する一つの技術だと知っている人だった。
「設計で、衝突が減るって……本気で思ってるんですか」
問いは鋭かった。だが刺すためではなく、確認のために尖っていた。
相澤は立ち止まらずに答えた。歩みを止めると、言葉が重くなることがある。歩く速度が、言葉の温度をちょうどよく保つ。
「全部は無理です。でも、減らせます。衝突そのものじゃなくて、衝突が“誰かを焼く形”になるのを減らしたい」
篠原は、川面を見ながら小さく息を吐いた。
「……私、言葉が苦手です。正しく言おうとすると遅くなる。遅いと、誰かが先に決める」
「それは、言葉が苦手なんじゃない。言葉を裏切りたくないんだと思います」
相澤がそう言うと、篠原の歩調が一拍だけ揺れた。揺れたあと、元に戻った。癖のように、髪を耳にかける。
「そんな言い方、ずるい」
篠原は笑っていないのに、言葉に角がなかった。相澤は、その柔らかさに驚いた。今日一日で初めて、篠原の“外側の壁”の内側に手を伸ばせた気がした。
川沿いのコンビニに寄り、二人はホットコーヒーを買った。紙カップの熱が掌に伝わる。火ではない。だが、確かに温度がある。相澤は、カップを持ったまま親指で関節を押しそうになり、やめた。代わりにカップを両手で包んだ。
「篠原さん」
「はい」
「今日、あなたが“判断が詰まってる”って言ってくれたの、助かりました。あれがなかったら、また誰かを責める会議になってた」
篠原は、カップの縁を見つめたまま言った。
「責めるのは……簡単だから。名前を呼んで、責任を置いて、終わりにできる」
その「名前」という単語が、相澤の胸の奥に小さな棘を残した。名は距離を縮める。だが同時に、敵意を固定する杭にもなる。今日の昼、会議室で自分がしようとしたことは、まさにその杭を抜く作業だった。
相澤は、川面に伸びる光を見た。揺れる光は、形を決めない。決めないからこそ、冷たい水の上でも消えない。
「終わりにしないために、名前を呼ぶ前に、言葉を通す。……そのために、僕はここに来ました」
篠原は少しだけ顔を上げた。
「相澤さん、今日みたいに毎回うまくいくとは限らないですよ」
「分かってます」
「それでも?」
「それでも。設計して、言葉が届く確率を上げたい」
篠原は、ホットコーヒーを一口飲んだ。熱が喉を落ちるのが見えるようだった。そこでようやく、ほんの少しだけ笑った。誰かに見せるための笑顔ではない。温度を確かめるための笑顔だった。
「……じゃあ、まずは一つ。相澤さん、私のこと、“あなた”って呼ぶの、やめてもらえますか」
相澤は、思わず瞬きをした。距離を詰める要求だと思った。だが篠原の目は真剣だった。
「“あなた”って、丁寧なんですけど……線を引かれてる感じがする。線があると、言葉が届く前に跳ね返る」
相澤は、喉の奥で笑いそうになった。これが、現実の呼吸だ。緊張の合間に入る、ほんのわずかな緩み。
「分かりました。……篠原さんって呼びます」
「それは今もそうです」
「じゃあ、……篠原さん、のままで。線は、別のところで引く」
篠原は、小さく頷いた。
相澤は、関節を押す癖を思い出した。今日、何度も押した。そのたびに、胸の奥で何かが反応した。理由の説明はできない。だが、今はその説明不能さを怖がらなかった。怖がるより先に、確かな手触りがあった。
言葉が、届くときの手触りだ。
川風が、二人の間をすり抜けた。冷たいのに、紙カップの熱は残っている。距離はまだある。役割もまだ重い。けれど、言葉の通る経路が一本だけ、確かに開いていた。
「言葉なら、届くかもしれない。」




