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届かない言葉 / 届く言葉  作者: 夕陽野 ゆうひ


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届かない言葉 I『対話の芽』

 中立地の国境会議場は、石造りの壁と鉄骨の梁が、仮設の頑丈さを誇っていた。寒さが骨の奥まで入り込む季節で、廊下の隅に置かれた火鉢の火だけが、ここが「人の集まる場所」だと辛うじて証明していた。


 カイエル・ヴァリンは、火の揺らぎを横目に、来賓通路の角に立った。騎士団の制服は埃ひとつなく整っているのに、靴底だけがわずかに灰を踏んでいた。昨日から、会議場の外では焚き火の数が増えている。誰も口にはしないが、兵の数も増えていた。


 考えるたびに、右手の親指が人差し指の関節を押す。癖だった。痛みの有無を確かめるように押し、痛みがないことに腹を立てるように押し、押すほど頭が冷えていく。


「隊長、結界の調整が増えてます。向こうの術者が、また層を重ねたそうで」


 副官のグレンが、短い報告を寄越した。声音は平静を装っていたが、呼気が白く長い。


「守るための仕事だ」


 カイエルはそう返しながら、言葉の端に小さな棘が残るのを感じた。守るため。守るために、ここまでやるのか。結界の層を重ねれば、盗聴や狙撃は防げる。だが同時に、音も匂いも、視線さえも、余計に歪む。見たいものほど見えなくなる。聞きたい言葉ほど、遠くなる。


 会議場の中心には、両陣営の代表が座る長卓がある。その周囲を囲むように、警備の導線と、術者の配置が組まれていた。秩序のための設計だった。カイエルは設計の意図が読める人間だった。だからこそ、設計が「守るための嘘」を内蔵していることにも気づく。


 外交官たちは言葉で戦い、兵は沈黙で待つ。ここで勝つべきは、剣でも砲でもないはずだった。



 中立地の規定で、双方の警備隊は一定の距離を保つ。通路の交差点に立つのは互いの「監視」の意味合いもあるが、本当は、偶発的な衝突を防ぐための仕組みだった。距離があれば、衝動は抑えられる。距離があれば、誤解は減る。そう信じたい。


 交差点の向こうに、大国Bの警備隊が見えた。歩調が揃っている。揃いすぎていて、機械仕掛けのようにも見える。その先頭に立つ女が、結界術者の証である細い銀の紋章を胸に留めていた。


 女は緊張した瞬間、髪を耳にかけた。動きは小さく、しかし無駄がない。目線の置き方が、戦場のそれだった。周囲を守るために、感情を内側に収める目。


 彼女が、こちらに気づいた。


 数十歩の距離。互いに武器を持ち、互いに「敵側」の制服を着ている。距離があるのに、距離がないようにも感じられた。カイエルは親指で関節を押した。骨の奥に、なぜか熱が宿った気がした。火鉢の熱とは別の、説明できない温度だった。


 女が一歩進み、規定の線で止まった。


「そちらの導線、今朝変えましたね」


 端正な声だった。問いではなく、確認。責める調子ではない。彼女は言葉を、刃物のように振り回さない。


「代表団の到着が早まった。混雑を避けるためだ」


「衝突を避けるため、という言い方もできます」


 皮肉ではなかった。むしろ、同じ目的を、別の角度で言い直しただけに聞こえた。


 カイエルは、一瞬だけ言葉を選んだ。ここで不用意に「同意」を示せば、部下の目が変わる。敵に理解を示す指揮官は、戦場では疑われる。役割が言葉を縛る。


「……そうだ。あなたの側も、術式を重ねている。音が籠もる。指示が届かなくなる」


 女の眉が、ほんの僅かに動いた。


「届かなくなるのは、指示だけではありません」


 その言い方に、カイエルは胸の奥が狭くなるのを感じた。彼女は、会議場の外で起きることを知っている。知っていて、ここに立っている。


「結界は守るためにある。……あなたの国は、そう教えるのか」


 カイエルが言うと、女は一度だけ頷いた。肯定でもあり、疲労でもある頷きだった。


「守るために必要な嘘もあると、私たちは教わります。あなたの国は?」


 問い返された。短い沈黙が落ちる。双方の兵が息を呑む気配が、結界の薄膜越しに伝わった。


「秩序は、人を守る」


 カイエルは答えた。自分が信じてきた言葉だ。信じたい言葉だ。だが、その言葉の裏にある現実――秩序の名の下で切り捨てられるもの――が、脳裏に浮かんだ。


 女は、視線を外さずに言った。


「秩序も自由も、同じことを言っているのかもしれませんね。守りたい、と」


 その一言が、なぜか痛かった。痛くて、同時に救いにも似ていた。


 カイエルは、言ってはいけないことを言いそうになり、関節を強く押した。部下の前で、敵に「同じだ」と言うことはできない。だが、否定もしたくなかった。


「……名を」


 喉が勝手に動いた。名を聞けば、距離が縮む。縮んだ距離は、戦場では毒にも薬にもなる。


 女の目が細くなった。警戒ではない。むしろ、同じ危うさを理解した人間の目だった。


「リラ・セフィラ」


 名が落ちた。落ちた瞬間、火鉢の火が揺らいだように見えた。結界が、わずかに唸る。


 カイエルは、名を返した。


「カイエル・ヴァリン」


 自分の名が、敵の口に載る前に言ってしまいたかった。誰かに、敵ではない音で呼ばれる前に。


 リラは一度だけ息を吐いた。その白い息が、二人の間の距離を埋めた気がした。


 ――もし、ここが戦場でなければ。


 思考がそこまで伸びた瞬間、奥の広間から、乾いた音がした。金属が床に落ちたような、短い音。それが、次の瞬間、叫びに変わった。



「動くな!」


 カイエルは反射で部下を制した。広間の入口付近で、誰かが倒れた。外交官の一人だ。胸元を押さえ、血ではなく、黒い染みが広がっていく。毒か。魔導器か。どちらにせよ、ここで起きてはいけない種類の出来事だった。


 結界が、鳴った。


 音ではない。耳ではなく、頭蓋の内側に響く圧力だ。誰かが術式を強引に上書きした。守るための膜が、別の意図を通してしまう。


 次に見えたのは、相手側の兵が弓を構える姿だった――ように見えた。だが、見え方が歪んでいる。結界が層を重ねたせいで、距離感も、動きの速度も、正しく測れない。幻術の可能性が、頭をよぎる。


「隊長、向こうが撃ちました!」


 誰かが叫んだ。叫びは、結界で反響し、何倍にも膨れ上がった。膨れ上がった音は、理性を押し潰す。


「待て! 確認――」


 カイエルの声は、広間のざわめきに飲まれた。届かない。届かないのは、声の大きさの問題ではない。人々が、届くべき言葉を選べなくなっている。


 向こう側でも、同じように叫びが上がった。リラの隊が動く。撤退導線へ人を誘導する動きだ。彼女は剣を抜いていない。剣を抜かずに、壁を張っている。守るための嘘――結界が、今度は本当に守るために使われる。


 だが、その結界の光が、別の「証拠」に見えた。


「結界で隠した! 裏切りだ!」


 こちら側の兵が叫ぶ。叫びは正しさの形をしていた。正しさは人を殺す。カイエルはそれを、何度も見てきた。


 広間の中央で、代表団が席を立った。誰かが命令を出す。誰かが命令を聞き間違える。結界が、声を歪ませる。歪んだ声が、さらに結界を歪ませる。


 悪意の姿は見えなかった。ただ、善意と恐怖が、互いを殴り合う構造だけが、目の前に現れていた。


 カイエルは、短剣に手を伸ばす寸前で止めた。抜けば終わる。抜けば、ここが戦場になる。ここを戦場にしてはいけない。


「撤退だ。代表を外へ。負傷者を運べ。撃つな、絶対に撃つな!」


 命令は、部下の耳には届いた。届く範囲の人間がいる。それが、少しだけ救いだった。カイエルはその救いにすがり、導線を作った。椅子を倒して壁を作り、兵の視線を切り、興奮した者を押し戻す。


 その隙間から、リラの姿が見えた。彼女は、同じように撤退導線を作っていた。こちらと同じ。守る。殺さないために、今は戦わない。


 視線が絡んだ。ほんの一瞬。


 その一瞬だけ、会話ができたなら、とカイエルは思った。会話ができたなら、ここを戦場にせずに済んだのか。だが、彼は知っている。会話は万能ではない。会話は設計が必要で、設計は時間が必要で、時間は今ここにはない。


 誰かが投げた小さな魔導具が床で割れ、火花が散った。火鉢の火が跳ねる。焦げた匂いが広がる。匂いが、恐怖を増幅させる。


 カイエルは、咄嗟に代表団の一人を背に庇った。肩に衝撃が走り、熱が滲んだ。刃ではない。飛んできた破片だ。痛みは「生きている」ことを主張していた。


 それでも、胸の奥の痛みの方が強かった。守るための仕事が、守るべき場を壊している。



 夜になった。会議は中断ではなく、崩壊と呼ぶべき形で終わった。双方は互いを非難し、互いを「裏切り」と呼び、互いに「守るために」動員を増やした。


 野営地の焚き火は、昼よりも増えていた。火の明かりが人の顔を赤く照らし、その赤さが怒りにも見えた。火は温もりでもあり、宣告でもある。


 カイエルは、簡易の治療を受けたあと、ひとり焚き火の近くに座った。布で巻かれた肩は重く、眠気は来ない。関節を押す癖だけが、静かに続いた。


 火を見ていると、さっきの広間の光が思い出される。結界の光。守るための膜。守るための嘘。嘘が重なれば、誰も真実を見られない。見られないまま、人は「見えたもの」を信じる。「信じたいもの」を信じる。


 リラ・セフィラ。


 名が胸の内に残っていた。名を得たことで距離が縮み、縮んだことで、彼女を敵として固定してしまう未来が見えた。名は橋にもなるし、杭にもなる。


 カイエルは、自分が何を望んでいたのかを思い出そうとした。会議の護衛。秩序の維持。民の安全。どれも本当だ。だが、その奥に、もっと幼い望みがあったはずだ。剣を抜かずに済む世界。言葉が届く世界。


 焚き火が弾け、小さな火の粉が夜へ飛んだ。火の粉は一瞬だけ明るく、すぐに闇に消えた。


 届くはずだった言葉も、ああやって消えていくのだろうか。


 カイエルは親指で関節を押し、痛みの代わりに胸の奥の鈍い痺れを確かめた。自分の中で何かが、静かにずれていく音がした。


 そして、ずれたまま、戻らない予感がした。


「言葉は、もう届かない。」

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