その7
なんだか巣が手狭だな、とクモは違和感を抱きました。勘違いかとも思いましたが、見回ってみると妙に歩きづらく、今まで糸があったはずのところになく、なかったはずのところにあるのでした。もしかしたら何かの拍子に巣が縮んでしまったのかもしれない、ともっともらしい憶測を立てて気休めにしようとしましたが、居心地の悪さは次第に募り、結局地上に降りることにしました。なんだか体も重いような気がします、あれだけ食えば当然か、とクモは悪びれもせずに笑いました。
下から見てみると、巣にこれといった変化はありませんでした。縮んだ様子もなければ傷一つもなく、まさしく彼が精魂込めて作り上げたあの大作に違いありません。はてな、とクモは漠然とした違和感に向き合っていましたが、なぜかふと振り返りました。そこにいたのは、いつぞやのメスグモでした。彼はこの年増で強気なクモに再び会えたことが嬉しくて歩み寄りましたが、メスグモの方は反発する磁石のようにじりじりと後退しました。彼の知る彼女らしくない行動にクモは小首をかしげます。
「アンタ、見ないうちにずいぶん大きくなったじゃないか。」
そう言われて初めて、クモは自分が彼女を見下ろしていることに気づきました。それと同時に巣や体に感じた妙な心地にも合点がいきました。なるほど、俺の体が大きくなったんだ!そのように自身の体の成長を喜ぶクモを、彼女は無愛想な態度で上から下までジロジロと眺めながら後じさりしていきます。クモはそれに気づかずに、ずんと大きく踏み込んでメスに詰め寄りました。体が大きくなるとともに健康的な自信も身についたような気がして、彼は堂々と切り出します。
「なぁ、俺のものになってくれよ。俺はあんな立派な巣を作ることもできるし、蝶を三匹も捕まえたんだぜ。絶対に後悔させない、あの時食べずに見逃してよかったって思ってもらえるはずだよ。」
メスグモの返事は簡潔で迅速でした。嫌だね、と一言で切り捨てたのです。彼女にとってオスは自分より小さくて弱いことに、捕食対象であることに意味があるのですから。その言葉を受けたクモは頭の中が真っ黒になって、悲しそうな顔をしましたが、わき目も振らず逃げ出すメスを見て、その頭は真っ赤に沸騰しました。彼は数回飛び跳ねただけであっという間に彼女に追いつき、彼女の足をかみちぎりました。メスグモは転び、しかしそれでも必死で逃げようとします。クモはそれを許さず彼女を仰向けにひっくり返しました。
「お願い、見逃しておくれ!腹の中に子供がいるんだ!」
彼女の口がそう哀願します、その切実な震えからしてきっと本当なのでしょう。しかしその命乞いはかえってクモの怒りを猛らせるばかりでした。彼は彼女の口に食らいつきました。キスをするように、愛憎入り混じった感情で、彼女から与えられたあらゆる生と死の印象を否定するかのように、深く喉元まで食い進みました。
顔が大きくへこみ、その時点でメスグモは死んでいましたが、オスグモは彼女の腹部に目をやって不快そうに顔をゆがめました。勢いよく腹を食い破ると、そこから卵ではなく、半透明の赤子がわらわらと溢れてきました。クモはそれを一匹残さず、口の中に入り込んでくる赤子をプチプチかみつぶし、腹の隅々まで食いつくし、彼女の腹がすっかり空洞になると顔を上げました、無表情です。
メスは腹も大きくえぐれて、もはや原型をとどめていません。クモは荒い呼吸を何分もかけて整えてから、その死骸の腹にできた大きな穴に、自身の糸を吐き出しました。全力で、ありたけの糸を吐き出し、死体の全ての穴から糸が吹き出し、亡骸の黒い外皮が破れて白い糸があちこち飛び出るようになってようやく、クモはその生殖めいた行動を止めました。
「これで満足か!これで満足か!」
彼はそう吐き捨てて、そこから去りました。
気づけば古いお堂のすぐそば、目の前にはいつかのミツバチがいました。見上げると緑深く葉の茂った木があり、その太い枝の根元の丈夫そうなところにシャワーヘッドのような穴ぼこの巣がこじんまりとぶら下がっています。それはこのクモの頭より小さく、ミツバチの慎ましさ、みみっちさ、貧弱さにクモは思わず笑ってしまいました。
「これはどうも。ずいぶん立派になりましたね、見違えるようですよ。」
ミツバチは社交的な微笑を浮かべますが、顔は引きつり、クモの目ほどしかない小さな体は震えています。クモは彼にさして興味を持たず、蜂の巣を見上げて鼻を鳴らしました。
「しょっぱい仕上がりだな、だから俺の巣を見ておけと言ったのに。」
「これは手厳しい。」クモの機嫌をうかがうようにハチは笑います。
気に食わないな、とクモは幹に足をかけて木に登りました。それに不穏なものを感じた蜂はクモの周りでブンブン唸り、彼を制止しようとします。
「何をする気ですか、巣には触れないで!」
「黙ってろ、ノロマ!」
クモは蜂めがけて頭突きし、彼を黙らせました。巨大な鉄球で薙ぎ払われたような衝撃を味わった蜂は、体の向きが変になったまま地面に転がっています。
「気に入らないんだよ、お前らのその勤勉さも律義さも礼儀正しさも、それを持って生まれたものとして当然のように使いこなすお前ら自身も。」
クモは蜂の巣に飛びつき、体重をうんとかけて、巣を果物のように木から引きちぎりました。そのまま落下する勢いに任せて地面に叩きつけると、巣は崩れたホールケーキのようになってしまいました。その衝撃に驚いたミツバチが歪んだ穴からうじゃうじゃ出てきます。クモは女王蜂とやらを探しましたが、彼の目にはどれもちゃっちい虫コロの奴隷蜂にしか見えませんでした。
彼を外敵と認識した蜂たちは重い羽音をいっそう激しく鳴らしながら、尻の鋭利な針でもってクモを刺そうとします。しかし、クモの硬い外殻に針は一向に通りません、それどころか針の方が折れたり曲がったりしてしまう始末です。彼らの襲撃をうっとうしく感じたクモは、体を揺らし、頭を振り、地団駄を踏んで蜂をあらかたやっつけて、さっさと巣をいただくことにしました。バリバリとかみ砕くと、硬くて甘い、チョコレートのような素敵な味わいが広がります。不満といえば、体の中で蜂が暴れまわることぐらいです。
腹の蜂も静かになると、クモは次に地面に転がる蜂の死骸に取り組みました。サクサクとした軽い食感で甘く、キャラメル味のポップコーンといったところでしょうか。クモはもう手が止まらなくなって、気づいた時にはもう蜂は一匹も落ちていませんでした、最初に話したミツバチもいつの間にか食べてしまっていたようです。
「これでもう巣なんて必要なくなったわけだ。」
自身の食い意地に少々きまり悪そうにしながら、クモはそう呟きました。
騒ぎを聞きつけた参拝客が木々から顔をのぞかせます、つくづく物見高い連中です。そんな中、無防備にも近づいてきた数人の子供の内の一人にクモは飛びつき、口を大きく開いて首まで丸のみにしました。その瞬間、境内は悲鳴と怒号と叫声の行き交う地獄へと変わりました。殺される、クモが子供を食った!と逃げ惑う人々、たかがクモさ!と向かってこようとする人々。
そんな群衆を見ていると、骨をまずそうにバリバリやっていたクモも愉快な気持ちになっていきました。狩りの始まりです、狩るのはクモで、狩られるのは人間。その鈍重で軟弱で無思慮な文明の廃人は、おそらく今までで一番簡単なターゲットだったことでしょう。
クモは木々を見下ろすほど大きくなっていました。木々の隙間から血で沼のようになった境内や赤く染まった鳥居が見えます。ジリジリと不快な鈍痛を背に感じて見上げた先にあったのは、燦々と照る太陽です。思ったより小さいもんだな、と初めて太陽をしっかりと見た感想はその程度でした。
体中に付着した赤黒い血が乾いて体毛をこわばらせ、錆のように赤茶けて光っています。なんとなく彷徨し、気の向くままそこらの人間やら鳥やらをつまんでいると、ようやくミミズクが現れました。クモはなんとなく、彼と話がしたくて堪らなかったところなのです。ミミズクの方はというと、クモを見つけても特に挨拶するでもなく、ただいつもの余裕のある態度を崩さずに、クモの周りを感心したような顔つきで飛び回っています。
「やい鳥野郎、なんとか言え、すごいだろ!」クモは待ちきれずに言いました、変にご機嫌を取られるのも気に障りますが、褒められないのも嫌だったのです。
「ふむ、デカいね。しかし君、もっとサイズダウンするべきだよ。氷河期以来それが最適だと自然が決めているんだから、せめて象くらいの大きさにしておくべきだ。」とミミズクは冷静に言いました。
「なんだと、偉そうに。お前も食ってやろうか?」
「お好きにどうぞ。私は十分に義務を果たしてきたから、もうこの世に未練などないんだよ。もし君に食われるとしても、自然の与えた最後の義務だと思えばむしろ本望さ。」
怯える様子も強がった素振りも見せずにそう言い切った鳥を見て、クモはなんだか調子が狂いました。まぁいいや、こういう変わり者の頭でっかちが一羽くらいいてもいいもんだろう。そう思ったクモは、ミミズクを好きにさせておくことにしたのでした。
クモは大きくなり続けました、今や横幅千メートルはくだらないでしょう。雲にも届く勢いで肥大していくその体躯は、向かうところ全てを更地に変えていきました。この島国の支配者は、この瞬間に限れば彼と言って差し支えないでしょう、同時に破壊者でもあったのですが。クモは首をめぐらし、なんだか手狭になってきたなぁ、と漏らしました。すると頭の上に座っていたミミズクが海を渡ることを提案しました。
「どっちの海を渡ればいいんだ?」クモは尋ねました。
「西の海を渡れば大きな大陸、地球上で一番大きな大陸に出る。そこにはどうしようもないほど醜い生物が群れていて、ふむ、一言で言えばろくでもない場所だ。東の海を越えればこれまた大きな大陸、地球上で一番自由と言われている大陸に出る。そこにはうんざりするほど下品な生物が群れていて、やはりろくでもない場所だよ。まぁ、我々が今立っているこの島も似たようなものだったがね。」
クモは東の海の方を目指しました。あの広い海も制覇しておきたかったのです。
「東の海を行くのかい?お勧めしないがね、だってほら、果てがまるで見えないじゃないか。西から行く方がいい、西からぐるりと回れば、最後には東の大陸にもたどり着けるからね、そっちの方が安全で確実さ。」
「やかましいぞ、俺を誰だと思ってる!後ろを見てみろ、生物は死に絶え、森は崩れ、池は干上がり、そしてそれら全てが血まみれになっている。これは全部俺がやったんだ、これが俺の力だ、俺は強者だ、これが証明だ!」
「馬鹿げたことを。破壊するだけなら赤子だってできる、さっきから見ていれば君は図体ばかり大きくなった赤んぼのようだ。」
「うるさい、うるさい!俺が強者だ、俺が支配者だ、俺が自然だ!」
「違う、君も私も弱者だ、我々は自然によって支配される奴隷だ。どんなに強者ぶっているやつでも、爪で一つ引っ掻かれればその下から弱者の証があふれることだろう、真っ赤で生ぬるい、生命の証が。いいか、生命を持つ者は皆弱者なんだ、真の強者なんて、それこそ神様くらいなものだろう。」
ミミズクは叩きつけるように力強く、しかし教え諭すように優しく言いました。もちろんクモはそれで納得するはずもなく、大声で喚き散らしながら癇癪を起した子供のように全身をブンブンと振り回しました。
やっとのことで苛立ちが収まり、静寂が訪れます。しかし、ミミズクは何も言いません。不安になったクモが声をかけても、何の返事も返ってきませんでした。うっかり殺してしまったんだ、と察すると同時にクモは後悔しました。惜しいやつを失った、聞き分けのいいフリをして適当に聞き流しておけばよかった、と。
クモは東の海岸にたたずみました。水平線の先には何も見えませんが、ミミズクの言葉を信じて糸を飛ばしました。二度三度、糸に手ごたえはありません、十度二十度、糸が何かに触れましたが、勢いが足りず水流に流されていきました、そして数十度目、ついに糸が固いものをしっかりとつかむ感触がありました。しめたぞ、とクモはこちら側の糸もしっかりと固定しました。
しかしその上に乗ろうとした時、何かが目前で飛び回っていることに気づきました。白くて可憐な、見慣れたモンシロチョウです。消え失せろ、消え失せろ!とクモは頭を振って彼らを追い払いました。もうお前らなんかに構ってられないんだ。彼はそう吐き捨てて陸を後にしました。
糸を伝って歩いていくうちに、先ほどまでいた列島はすぐに水平線の奥へと沈んでいきました。クモは海の上にぽつんとひとりぼっちです。そのまま進んでいき、やがて日が暮れて夜が訪れ、また太陽が昇る、それを何度繰り返しても、なかなか大陸は見えてきません。クモは自分がどこに向かっているのか分からなくなり、自分が何者かも茫漠としてきました。自分はどうなりたかったのか、母親の背などがずっと昔のことのように感じられます。立ち止まって海面を眺めていると、また白い蝶が三匹、彼の周りを舞って戯れるように飛び回りました。
「この虫けらめ、俺を誰だと思ってるんだ!この亡霊め、もういっぺん食い殺してやる!」
そう言ったものの、彼は呆けたように動かなくなってしまいました。どれくらいそうしていたか分かりませんが、唐突に、クモは蝶を巻き込みながらクジラのように大きく飛び跳ねました。彼の起こした風に体勢を崩された蝶たちは、逃げることもできず、大きく開かれた口へと吸い込まれていきました。クモはそのまま垂直に落下し、糸に着地しました、しかし、数日にわたって海風にさらされてきた糸はすでにひどく痛んでいて、そこに着地の衝撃が加わったせいで、プツリ、と着地点から真っ二つに切れてしまいました。
ヒヤリ、と血の気が引くと、すでに海の中でした。しまった、俺としたことが、糸の調子に気づかないなんて!ああ、まずい、海はこんなに深いのか、苦しい!クモは早く底に足がつくように祈りますが、体は沈んでいくばかりです。体は仰向けになって、口から漏れる気泡を見送ります。太陽はどんどん小さくなり、頼りなさそうに弱く光っています。
水が体を圧迫し、金属音のようなものが聞こえてきましたが、それは次第に笑い声へと変わっていきました。驚いたクモが目を開けると、みんなが笑っていました。メスグモやその子供たち、ミチバチとその仲間、名前も知らない鳥や人間、その他彼に食われた者たちが皆彼を笑っています。しかし、それは悪意のある笑い方ではなく、まるで滑稽な劇の結末を見たような笑い方です。おい、助けてくれよ!クモは叫ぼうとしますが、海水を大量に飲むだけで何も言えませんでした。さらに激しい笑い声。
「やれやれ、だから西へ行けばよかったのに。」ミミズクの声です。彼は笑わずに、呆れた顔をしていました。「そもそも、君みたいなのが妙な野心を抱いたのが間違いだったね。おとなしくあの時、蚕になっていればよかったんだ。」
蚕でもなんでもなるから、助けてくれ!死にたくない!
また笑い声、ミミズクは首を振っています。
彼は目を覚ましました。視界が反転して、地面が上に空が下になっています。体は水に濡れていて重く、芯まで冷え切っていました。危なかった、とどうにか体を起こし、周囲を見渡します。雨が激しく降っていて、彼は巣から落ちてしまったようでした。彼の頭上には中心から真っ二つに裂けた巣が、それぞれの柱に垂れ下がっていました。糸は粘り気を失って埃のような白く濁った色をしています。彼はもはやそこに目もくれず、お堂の屋根の下へと避難しました。
「妙な夢を見た。ああ、寒い寒い。風邪をひいたかもしれない、明日病院に行かなきゃな。」
夢だ病院だなんて、このクモはまるで人間みたいなことを言うではありませんか。




