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beat bite beside bind!  作者: alIsa


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6/7

その6

 それから丸一日、巣はやっとのことで完成しました。あの蝶を見てからもう一日経ったのか、一瞬しか過ぎてない気もするが、とクモは目を丸くしましたが、よくよく振り返ってみると、昨日の夜闇や自身の労働が夢のような感覚で思い出されるのでした。呆けていたクモは、ようやくしずしずと鳥居から離れ、自身の大作をしっかり点検しようと思い立ちました。

 それは思い描いていた通りの巣でした。大きさにして鳥居の上半分を占めるほど、ちょうど人間の子供一人が収まるくらいで、その大きさにもかかわらず、網の目は畳を彷彿させるほど細かく、全体は反るように六十度ほど傾いているため、糸の一本一本が太陽光を余すことなく取りこんで天使の羽のように白くまばゆく輝いています、遠くからでもはっきり見えるほど輝いているのです。それはまるでマユのようで、その中から眠たげな天使が現れるのも今か今かと息をのんでしまいそうなほど、神秘的でした。

 未だかつてない事業、持てるだけの忍耐力や集中力を結集させた作業を終えたクモを満たしたのは、興奮でも狂喜でもなく、安堵でした。確かに巣を作っている最中には、そのような激しい感情の起伏もありました。仕上がりを想像して体中に嵐のように激しい活力が湧きおこったり、逆に不慮の事故や自身の手抜かりによって全部台無しになってしまうのではないかと勝手に絶望したり、ポジティブなものもネガティブなものも一通り彼の体内をよぎりました。

 また、この大作を方々自慢してやろうとも考えていました。例えば、『あのメスグモにこの巣を見せてやったら、あの女はもう俺に首ったけ、捕食するなんて馬鹿げた考えを捨てて、むしろこの俺の糸を永劫引き継ぐためにすっかり従順になるだろう。』とか、『あの唐変木のミツバチにこの力作を見せてやったなら、あいつは完全に力量差を理解して、もう俺に生意気言わなくなるだろう、それどころか、心服して俺の奴隷蜂になるかもしれないな。』とか、『あのヘンテコなミミズクにこの傑作を見せてやったなら、あの鳥も蚕の方が優れてるとか馬鹿げたことも言わなくなるだろうし、俺を弱者だと決め込んで屁理屈を押し付けてくることもなくなるだろう。あの変わり者のことだから、完全に気が変になって巣に飛び込んじまうかもな。』とか、そんなことを考えてはニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていたのでした。

 そのような、誰かに見せてやりたいという気持ちは今なおありますが、それ以上に、そんなことどうでもいいような気もしているのです。やり遂げたという解放感、安堵が身を包み、『俺の成果はここにある、それでいいじゃないか』と寂滅めいた平穏が彼を満たしているのでした。

 そのような安心感、ここ数日で、いやそれどころかひょっとすると生まれて初めてなまでの深い安堵に浸っていたクモの視界に、何か白いものがチラつきました。おやと思った彼がそちらを見てもすでに何もなく、今度は反対の端で何かがチラついています。昨日見たあのモンシロチョウをふと思い出しましたが、彼はたいして興味を持たず、結局その白いものがなんだったのか確かめることもせずに巣へと上っていきました。

 生物である以上どんなときでもお腹はすくもので、数日間ろくなものを口にしなかったクモは、巣の中央に居座るや否や空腹で身動きできなくなってしまいました。空腹のときにやってくるあのキリリとした痛みが四肢にしみわたり、体は水に濡れた紙のようになっていましたが、彼は普段なら感じる不快感など微塵も抱いていませんでした。それどころか、その痛みに愉快さえ見出していました。

 全身を絞られるようなその苦痛が、文字通り自分の体から悪いものを残らず絞り出しているような心地がしたのです。もうこのままでも構うもんか、と総身を軋る甘い痛みに残りの生命を委ねようとしたその時、視野の隅を白いものがまたもや横切りました。クモはただ茫漠と、その動くものを目で追いかけ、追いつこうともせず、追い続けます。上に下に、左へ右へと、行きつ戻りつ、視線は何度も何重も往復し、とうとう求めるものを見失ってしまいました。

 はてな、と唯一の娯楽を失ってクモは少々残念がり、大した期待もせずに再度視線をさまよわせたところ、やがて視界の端っこからあの白いものが再び現れました。それをうまく捉え、クモはようやくその正体を知りました。思った通りモンシロチョウです、しかしその姿は光る輪郭で曖昧模糊としていて、羽を一振りするごとに輝きの鱗粉を雪のように舞わせています。なるほど、とクモは直覚します、蝶というのはこんなにも美しいものだったんだ。それが初めて蝶を無性格に凝視した彼の純粋に感じたことでした。

 悠々と鳥居を横切る白い蝶、ところが、その反対からもう一匹、姿かたちはまるで同じですが少し濁った白をした蝶が突如現れ、輝く蝶にぶつかり、取りこむように粉砕してしまいました。

「まぁ、きらきらのお宝、つやつやのお宝!こんなとこにあったのね!」

 目を白黒させているクモをよそに、若いモンシロチョウは慌ただしく勢いよく、巣へと近づいてきます。こりゃ大変だ、とクモは空腹も忘れて右往左往しだしました。あんな勢いのまま突っこんでこられたら、巣が滅茶苦茶になっちまう、俺の生きた証が!と焦燥に駆られ、どうにかしなければと考えれば考えるほど、まさにクモの巣に捕らわれたかのように、思考はこんがらがっていきます。

 もはや一瞬の猶予しかありません、しかしその一瞬、クモは腰を抜かしてしまいました。目前に迫った蝶が想像よりずっと大きく、また彼女の羽が空気を叩く音を間近に聞いて、ついさっきまで甘受しつつあった死に対して恐怖を抱いたのです。それでも逃走者の本能で後じさると、もう先の場所には蝶がいます。彼女は渦巻き状になった口吻を嬉しそうに震わせながら糸に近づけ、花の蜜を吸うときのように優雅に足をそろえて巣に降り立ち、くるくるとした管が糸に触れました。

 と、そこで異変に気づいたのか、彼女は溺れている人のように羽を激しくばたつかせました。彼女はこの時初めて世界に害されたのです、もしかするとその害意に気づくことすらできていないかもしれません。わけもわからずその罠から逃れようと闇雲に動きますが、体は糸にくっついた部分を軸に跳ね回るばかりです。そのまま暴れて、何かの拍子に頭がくっつき、羽が捕らわれ、背が固定され、ついに蝶は仰向けに真っ逆さまの状態で磔にされてしまいました。もうどうにもならなくなった彼女は、困り果ててあたりを見回り、クモを見つけると無邪気にも顔を晴らして彼に助けを求めました。

 クモはというと、巣の動揺におびえて糸にしがみついていることしかできず、蝶が動けなくなって揺れが収まってからも呆然としていましたが、蝶の訴えかけるような眼差しで我に返りました。彼女は、お願い助けて、としきりに呼びかけていたのですが、クモに蝶の言葉が通じるはずもありません。ふと、蝶を見つめ返していたクモの目に何か力強い衝撃が閃き、彼はゆっくり彼女に近寄っていきました。空腹で力のない、しかし巣の歩き方を誰より熟知している迷いのない足取りで、その心中に一つの自然な発見を抱きながら。

「そうか、俺は捕食者なんだ。」

 据わった目で蝶を見下したクモは、どこから始めるかを迷うことなく、その白い羽にかじりつきました。鱗粉が舞って羽を包み、クモの口を白く染めます。新聞のようなパサパサした食感が口内の水分を奪い、砂をかむような不快感が吐き気を呼び起こし、想像とは程遠い味にクモは顔をしかめましたが、この一連の行為、意識的捕食にどこか神聖な儀式めいたものを感じていたので、そのまま堪えて嚥下(えんげ)しました。

 漂う鱗粉を激しい呼吸で取りこみ、体は抑えがたい興奮で不規則に震えています。クモはうっとり遠くを眺めていましたが、突然羽に向き直ると、自身のつけた噛み痕を見つけて満足そうな笑みを浮かべました。それから視線は獲物の方へ這い寄りました。蝶はただ茫然と間抜けにクモを眺めています、自分が食い殺されている最中だという実感がないのでしょう。

 その被捕食者らしからぬ態度にクモは腹を立てました、と同時にミミズクの言っていた『自然の義務』というものがなんとなく腑に落ちたような気がしました。彼は蝶に顔を近づけると、お前俺をからかってるのか、もっと真面目にやれ、とささやき、そのまま彼女の頭を丸かじりにしました。それから、柔らかい肉と生ぬるく甘い体液を口の中で丁寧にこねくり合わせ、味わい尽くすように飲み下しました。

 蝶の体はもう止まっています、されるがまま糸に横たわっています。クモは意思を失った残骸には興味をなくしてしまい、腹が減ったらまた食ってやろう、と居眠りの姿勢をとりましたが、自身の一連の行動を思い出し、不愉快そうに起き上がりました。飛んでくる蝶にすくみ、慌てふためき、抵抗する術をなくした彼女を見て初めて食い気を出す、なんと情けないことか!これが捕食者の狩りなのか、臆病な卑怯者の気まぐれではないか?彼は視線を泳がせながら考え込んでいましたが、ふと亡骸の方を振り向いて、これは使えるかもしれない、と狡猾に微笑みました。

 蝶の死骸はそのままに、クモは器用に糸にぶら下がって逆さになり、蝶の下に潜って羽のかじり痕から向こうをうかがいました。大通りから聞こえる圧するような騒音、参道を行き来する雑踏、鳥の鳴き声、葉擦れ、虫けらの跳躍、それらがクモにはお構いなしに繰り広げられていますが、彼だってそれらには無関心です。

 それから間もなくして、彼の望んだ通りになりました。どこにいたのかモンシロチョウが一匹、捕食されたものよりも一回り大きいのがヒラヒラとしとやかに飛んできたのです。彼女はそのまま鳥居を通り過ぎかけましたが、急に巣の方へ進路を変えました。しめたぞ、クモはせせら笑います、母親が血相を変えて捜しに来るなんて分かりきっていたさ。彼の読みは半分ほど合っていたといえるでしょう、なぜなら、モンシロチョウは寿命の関係で親子そろって成虫でいられる時間はなく、彼女はあの哀れな幼い蝶にとって義母のようなものだったのですから。

 母蝶はその死骸を信じられないのか、動転で制御を失って左右にふらついています。目を大きく見開いて蝶の亡骸を凝視するその表情は、この綺麗な羽は間違いない、と呟いているようでした。これほど動揺していたら、何をするか分かったものではありません、もしかしたら気が変になって巣に飛び込んでくるかもしれません。かといって、彼女が平静を取り戻して逃げ帰りでもしたら、せっかくの作戦も台無しなので、クモは早めに行動を起こすことにしました。

 彼は羽の穴をくぐって巣の表側に出ると、見せつけるかのようにゆっくり口を開いて、羽をひとかじりしたのです。それも動揺から悲嘆へと色を変えつつあった母蝶の瞳を見つめて、少々あからさまな侮辱と嘲笑を浮かべながら。それを見た母親がどうして平静を保っていられましょう、彼女は度を失って巣に突っ込んできました。

 おそらくクモをめがけているのでしょうが、怒りで体のコントロールが効かず、まるで魔球のようなデタラメな軌道を描いています。クモは少しだけ驚きましたが、前回ほどではなく、冷静に風を読みながら距離をとりました。衝突の瞬間、巣は大きく揺れましたが、あれくらいの蝶にこの巣が落とされることはないだろうと自信を持っていたので、彼は黙って余裕綽々で糸にしがみついていました。

 どうやら実際その通りのようで、巣はしばらく時化(しけ)のように大荒れでしたが、少しずつ収まり、数十秒もしないうちに凪ぎました。蝶は抵抗する力をなくしたのでしょう、クモもそれを確信すると、羽の残骸を吐き捨てて、小躍りしながら獲物の方へと下りていきます。これくらい楽勝さ、全くうまくいった、俺の予想通りだ!そのように狩りの成果と腕前を誇り、どこから食ってやろうかと横たわった蝶をのぞきこみました。

 しかし彼が視界に入るや否や、母蝶は憤怒に満ちた顔になって再び暴れ始めました。それは衝突の時よりも激しい暴れようで、どこにそれほどの力が残っていたのか疑問になるほどの勢いです。巣が落とされるかもしれない、とクモはひるんで及び腰になってしまいました、と同時に母というものが窮地においてどれほどの凶暴さを示すのか、彼は今更ながら思い出すのでした。

 揺れはますます大きくなっていき、巣のあちこちから糸がミシミシと悲鳴を上げています。これ以上はまずいと判断したクモは一足飛びで蝶に飛びつき、娘にしたように頭を丸かじりにしてしまいました。母親の執念か、揺れはなかなか収まらず、巣全体が波のように何度も形を変えてようやく静まりました。クモは口の中にある蝶の頭を思い出し、ゆっくり咀嚼して呑みこんだのですが、何の味もしなければ、どんな歓喜も興奮も湧いてこず、ただ安堵に呆然としているのでした。

 巣の中心で隣り合って横たわる二体の白い死骸、クモは呼吸を整えながらそちらを見やります。もう十分だろう、今の俺にはこれ以上ないほどうまくやれたはずだ、あとは巣の補強に専念しなければ、と自身を納得させようとしますが、未練が、理想の姿がそれを邪魔していました。かつて留保された『強い自己』への志向が今や優れた捕食者への願望として彼の中で再び燃え上がっていたのです。それでもクモとしての冷静な性が未熟さから来る情熱に打ち勝ち、彼をして巣の点検に行かせました。

 二匹の蝶の襲来による巣への被害は想像より深刻なものでした。糸はたるみ、所々柱から外れていて、巣は沈みがちになり、あれほど緻密で細かかった網目も楕円形に広がっています。本来であれば住処であり狩場でもある巣を頑丈に保つために全力を注ぐべきところを、あちこち見て回ったクモは糸を吐く体力を惜しんで、結局ほとんど手を加えずに終えてしまいました。

 獲物が暴れても問題ないくらい丈夫な巣に仕上げるには、どれほどの糸と時間が必要なのだろう、とクモは思い悩んでいました。今や彼の頭を満たしていたのは、狩りへの欲求です。二匹の蝶では満足できず、もっと大きい獲物を自身の巣で捕らえてやろうとしていたのです。自然で生き残る者として本質的な、必要なものを必要なだけ手に入れればよいという原則を忘れてしまったのでしょうか。

 そのような支配的欲求を純粋にも満たそうとする彼に、ある考えがじわじわと沸いてきました。いっそのこと、巣を、糸を使わないのはどうだろうか。それはかつてミミズクに指摘され、クモ自ら唾棄したものでした。この屈辱的な、今までの実存を台無しにするかのような考えが魅力的に思えるほど、この生物は積極的、攻撃的、支配的捕食に捕らわれてしまっていたのです。

 そのようなある種背徳的な思いつきは、時間とともに鎮圧されるのが常ですが、なんとも具合の悪いことに絶好の機会が訪れてしまいました。視界の隅にもはや見慣れた白いものがヒラヒラと映りこんだのです。その瞬間、クモは血の気が引いて凍えるような心地がしたかと思うと、すぐに全身が今度は燃えるように熱くなりました。

 視線が追った先にいたモンシロチョウは、先の母蝶よりさらに一回り大きく、慎重に巣の周囲を飛んでいて、その羽が浅黒く縁どられていることからオスであることが分かります。先の二匹になかったその特徴にクモも気づいたようで、ひょっとしたらコイツが父親だろうか、とあたりをつけました。もう彼の頭の中にはこの蝶をいかにして狩るかということしかないようで、激しい鼓動とは裏腹に、頭の中は恐ろしいほど静まりかえっています。

 父蝶はどうやら蝶の死骸に気づいていたようで時折それらに慈悲深い視線をやりながら巣を一周し終えると、彼女たちに注意深く近寄り、糸から数センチのところまで肉薄しました。死骸の近くにいたクモは、息をひそめて様子をうかがいながら考えます、コイツは俺に気づいているのだろうか、こんな冷静そうなやつがのこのこ巣に引っかかるものだろうか、引っかかったところで俺の巣はコイツを止められるだろうか。

 父親の目がクモを見ました、その目に宿る静かな怒りを察知するや否や、クモの腹は決まりました。俺の糸ではきっとコイツを受け止めきれない!クモはそのまま蝶に飛びつきました。巣に突っ込もうとしていたオスの蝶は体勢を崩し、背から墜落していきますが、やたらめったらに飛び回ってどうにかクモを振り払おうとします。クモは蝶の首にしがみつき、必死で頭をかもうとしますが、揺れる視界のせいで何度も牙が空を切ります。

 激しい空中戦の末、消耗しきった両者は地面へと激突しました。それでもクモは決して蝶から離れず、明滅する視界の中で蝶の頭をかみちぎったのを確かに感じました。その瞬間彼の中に湧き起こったのは、勝った、俺は強者なんだ、という高揚感でした。そしてその高揚感に突き動かされるように、自身の強さを証明するかのようにクモは蝶の死骸を跡形も残さず、羽も残さずに平らげました。

 それからどのようにして巣まで帰ったか、彼はまるで覚えていません。ただ、巣を見上げた際に奥に見えた空が、豪雨の訪れを予感させる真っ黒な雲で埋め尽くされていたことだけは鮮明に記憶していました。


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