その4
日没と同時に雨が降りだしました。境内は木々の隙間から洩れる大通りの街灯と車のヘッドライトによってのみ薄く照らされていますが、あのクモのいる例の区画には相変わらず暗がりが沈殿物のように漂っています。
十分もしないうちに雨は本降りになり、雨粒が木の葉叢やアスファルトを叩く音と、バスやトラックが水たまりを踏みつける音ばかりが騒々しく響く中で、鳥居の中央に張られたクモの巣は静かに地面へと落ちていきました。あれほど透明に輝いていた糸は、その光を失って白く濁り、糸くずのように丸くなって地面に転がっています。その糸くずの中心に絡まるようにして惨めなカメムシが二体、腹を見せて倒れていました。彼らの放つ臭気は、雨に流されたのでしょう、もうどこにもありませんでした。
クモは鳥居の柱の陰、いつも雨風を避けるのに使っている場所、そこに身を隠しながら巣の成れ果てを見て悔しいような虚しいような気持になりました。そのまましばらく経って、彼は衝動的に決心しました。自分を苦しめる理不尽をなんとしてでも打破しなければならない、と。哀れで孤独なこの身を救うことができるのは、自らの積極的な行動のみである、と。
卑劣な世界に対抗するためなら卑怯者でも冷血漢でもなんにでもなってやる、自分の力を見せつけてどいつもこいつも鼻を明かしてやる、そう思いながら憮然と雨雲をにらみつけていましたが、意識が夢うつつの手前まで来たことに気づくと間もなく、眠っていました。
目覚めたのは真夜中でした、雨がやんでいました。地上を照らす恒星や彗星は燃え尽きて、本格的な真っ暗闇が街に落ちています。その中でもクモの目は明瞭に見分けることができました。ゆっくりと動く空の起伏、木の葉に憩う雨粒、鳥居の石材質なテクスチャー、その下で弾力を失って潰れている巣の残骸。目を覆いたくなりながらも、クモはその亡骸のもとまで這いました。
彼にとって、巣は自身の骨肉から生まれた、まさにもう一人の自分と言っても過言ではありません。そして自分の糸こそ誇りとし、その白銀の糸を通して自分自身を見てきたのです。そのような存在が死んだ動物の目のように白く濁って眼前に打ち捨てられています。クモはこの残骸を世界の不条理と自身の敗北の象徴とみなし、その中に自らの弱さ、未熟さ、臆病さを見出しました。
かつての自分の死を悼む気持ちは彼の中で底果てなく、尽きそうにありませんでしたが、いつまでもウジウジしてはいられません。自然で生き残ろうとするものにとって、感情は、それが喜びであれ悲しみであれ、一口で十分なのです、次の瞬間にはもう働かなければならないのです。クモは鳥居を見上げてさっそく計算を始めました。角度、大きさ、高さ、新生なる自己を最もよく表現しうる、強く生まれ変わった自分に相応しい、完璧な巣はどんなものだろうか、と……。
最初のうちは、あれほどの決心も伊達じゃないと思わせるほどの集中力と熱心さをもって足を動かしていたのですが、時間が経って冷静になるにつれて、クモは余計な事ばかり考えてしまってしばしば手足を止めるようになっていました。それもそのはず、変わったのは考え方だけで体力や技術は昨日までとほぼ同じ、それどころか蓄積した疲労でパフォーマンスは低下しているのですから。
また、その日を生きることのみ考えていたこのクモが、ふと将来への志向を持ったところでそれが何になりましょう。馬鹿の考え休むに似たり、とまでは言いませんが、今まで通りその時々を生きていく方が彼にとって健康的であることは間違いありません。それでもどうしてもと言うのなら、もう少し大人になるまでは経験を蓄えておくだけにとどめておくべきなのです。でなければ、今陥っているように、自らの志向と実態の板挟みになって悩み苦しむことになってしまいます。
彼を悩ませていることには例えば、先日のメスグモ。彼はあの女を手に入れたくて堪りませんでした。しかし世界の全てに反抗しようとする身の上で、彼女だけ特別扱いするのは果たして理にかなっているのだろうか、そもそもそのような生き方を志向するつもりなら、メスなんかに、恋愛なんかにかまけている余裕はないのではなかろうか、とも思いました。
他にも例えば母グモの教育。彼は唯一のお手本として、またいくらかの思慕の念を込めて、何につけても母の方法を真似していて、彼女の無造作に見えたやり方一つ一つの合理性をひしひしと実感していましたが、それと同時に、このようなやり方では母と同程度の一生しか送れないのではないか、このような受動的な姿勢ではいずれまた世界に敗北するのではないか、とも思ったのでした。
そのようなことを考えて結局、わずか数時間にして彼の志向は留保されることになったのでした。衝動的な決心なんて得てしてこのような結果に終わるものです。自ら科した重荷を下ろすと途端に肩の力が抜けたので、巣はまだ十分の一も出来上がっていませんが、ここらでしっかり一休みをしようとクモは思いました。確かに巣作りは気長な作業で、肝要なのは思想ではなく忍耐力です。そうなのですが、これはちょっとのんきすぎるように見えます、一体今日の食事はどうするつもりなのでしょうか。
大きなあくびを一つかまして満足げなクモの頭上を刹那、炸裂音が鋭利な影とともに横切りました。完全に無防備をさらしていた小さなグモは、驚きのあまり大きく真上に飛び跳ねました。慌てふためきながら見回しますが何も見つかりません、と、視野のずっと上から、ホッホッと短く笑うような声が聞こえました。
声をたどった先、古い木造のお堂、その梁の上で光る鋭い目、その姿を包む闇は深く、目を凝らすうちに少しずつその輪郭が浮かび上がってきました。毛深い体は縦長く、木の幹のような色がモザイク状になっています。怒っているのか目はキッと切れ長で、そして何より特徴的なのは丸っこい頭から飛び出ている二本の角でしょう。
クモはこれがどのような動物なのかいまいち掴めずにいましたが、とにかく隠れておこうと柱の裏へ回りかけていた時、その怪しい影が左右に大きく膨らんで、と思ったらまたもとに戻りました。マズい、とクモは思い至ります、あれは鳥だ、羽を広げたんだ、カラスともスズメともちょっと違うが、俺たちの天敵に違いない、母さんですら畏れていた空の支配者だ、間違いない!
彼は柱の陰へと急ぎ、そこから様子をうかがいました。その始終を見ていた鳥は、またホッホッと鳴いて、今度は話しかけてきました。その声は厳めしい見かけによらず、丁寧ですが他人行儀ではない、柔和で知的なところのあるものでした。
「夜分遅くにお騒がせして申し訳ない。宵越しに丁度いい場所を見つけたと思ったら、まさか先客がいるとは。」
クモは彼の言葉を難なく理解できたことに驚きました。クモと会話できる鳥がいるなんて、と。しかし無知の世間知らずだと思われるのを懸念して、それを顔に出すことはしませんでした。彼には知る由もないのですが、この来訪者、フクロウの仲間であるミミズクは鳥の中でも極めて賢いので、クモとの意思疎通くらいなら容易いことなのです。
クモは柱の陰から一歩出て、無関心そうに中立的な態度でいましたが、重心を後ろにしていつでも逃げられるようにすると同時に、牙をそれとなくちらつかせてミミズクをけん制しようと試みていました。その姿は一流のサバイバー、いやサバイバー気取りと表現した方が正確でしょう。ミミズクも相好を崩して言いました。
「そんなに警戒しないでおくれよ、小さくてかわいい子。大丈夫、私はもっと大きいやつを好んでいてね、むやみに若い命を摘んだりしない。」
それを聞いたクモはカチンときたのか、サバイバー的慎重さを一瞬でかなぐり捨てて、鳥に突っかかりました。
「俺がケツの青い坊やだって言いてぇのか!そんならやってみろよ、鳥野郎、目ん玉から食い破ってその小っせぇ脳みそを呑みこんでやる!ほら来いよ、来ないのか?ヘタレのニワトリめ!」
「どうも逆鱗に触れてしまったようだ、すまなかった。」とミミズクは謝り、クモの挑発に対して柔和な姿勢を崩さずに続けます。「君をここで食ってしまうのは容易いが、それは我々を支配する生命の帝国にとってよくないことだ。本能に従って自然にもとるのは、私の理性の望まないところなんだよ。君の命はたくましい同胞と君らの後継のためにとっておかれるべきだと私は思っている。」
彼の言うことはよく分かりませんでしたが、小さな虫はこの猛禽類を話の出来るやつだと、確実に自分を捕食できた状況でも敢えてやらなかった、変わり者だが悪くはないやつだと認識し、脱力しました。それから知らず知らずのうちに、ミミズクに対して屈託のない、彼の本性らしい笑みを浮かべました。鳥はそれを何か意味のあるものと受け取ったのか、
「おや、その様子だとイイ相手がいるらしい。見かけによらず立派にオスをやっているんだね。」と笑い返しました。
それを受けたクモはなんとも無邪気に意気揚々と、自身の男らしさを、あのメスグモとのエピソードを彼に語ってみせました。いかに口説も粉飾も少なく、ただそのままの立ち振る舞いで気の強いメスを虜にしてやったかを、そして、あれほど魅力的な女の誘いに乗らなかった自身の注意深さを。
「そう、乗らなかったんだ、乗れなかったんじゃない、やろうと思えばやれたさ。だがあれは俺を食うつもりだったかもしれない、万が一にもね。俺はその一を危惧したんだ、その一を迷わず選べるやつだけがこの自然界にふさわしいんだ、母さんだってきっとそうする。」と彼は誇らしげに繰り返しました。
「ああ、その通り。そのクモは君を食うつもりだったろうね。」
ミミズクがさも当然そうに言い切ったので、クモは耳を疑わずにはいられませんでした。これまで度々、あのメスグモは自分を食うつもりだ、と自分に言い聞かせてきたというのに、他者から改めて伝えられた途端にこれほどショックを受けてしまうのは不思議なものです。ミミズクは淡々と進めます、理屈屋の悪い癖です。
「身の安全を第一にできるやつが自然界にはふさわしいと君は言ったね。それは部分的には正しいが、ほとんど誤りだと私は考えている。自然界にふさわしいのは自然の与える役割を全うできる者だ。海や川を例に考えてみようか。そこでは魚に植物に微生物、数多の生命が活動しているが、私や君が勇んで水中へ飛び込んだところで待っているのは窒息と溺死ばかりだ。
なぜかって我々は水中で生きるように作られていないからね、私や君には陸上で生きる役割が与えられているのだよ。私の翼は空を飛ぶために自然が与えたものだし、君の糸だってそうだ。その自然が『交尾したメスに食われる』という役割を君に与えているはずなんだ。君は君の後継を残し、そして君自身がその後継の一部として、何十何百に連なる子孫の血肉として再び自然界で義務を果たすために、君は交尾したメスグモに食われなければならない。
もし君がその役割から逃げるのなら?なるほどそれも選択肢の一つだろう、後継を残さずに君自体の生命のみを全うするというのも、つまり自然に反するというのも。しかし、水上に頭を出して流れに逆らう岩がどういう末路を迎えるか、知らないわけではあるまい、存在の完全な消滅が待っているのだよ。君の知らないうちに、君を知らないうちに、その奔流に巻き込んだ自然は、全く同じように君をその循環からはじき出すことだろう。」
クモは口をモグモグさせるばかりで、何が何やらチンプンカンプンです。どうしてメスグモに捕食されなければならないのかという思考ばかりが頭の中でカラカラ空転し、またもや敗北感にとらわれてしまいました。ミミズクもミミズクで、多くの理屈屋にとっての嗜好品である、相手が反論できないでいる時間をじっくり味わい、それでもまだ足りないのか、
「君の母親だってそうしてきたはずだよ、君は父親を見たことがないだろう?しかしそれが正しいんだ、君の父親は今この瞬間も君の一部として生き続けているんだ。」とわざとらしい重々しさで言いました。これを言われたら相手は嫌がるだろうという意地の悪さと、自分の主張に全体理があるのだという万能感から発される、悪趣味で無責任な言葉でした。
「母さんがそんな卑怯なこと、同胞食らいなんか、やるわけないだろ!だって……俺を産んだ母さんなんだから……」
クモは何が言いたいのか、自分でも分からなくなりました。ただ分かるのは、実際に口走った言葉がなんとも論理を欠いた、未熟な、幼稚でさえあるものだったということで、彼はもう悔しいやら恥ずかしいやら、俯いて押し黙ってしまいました。それを見た鳥は追撃をやめましたが、それは別にクモへの同情やら罪悪感からではなく、単に望む反応を得られなかったことによる興ざめからでした。
深夜の闇に溶けたかのように、両者の間は沈滞としていましたが、ミミズクが鳥居にかかった未完成の巣を見つけたことで、沈黙は破られました。
「ほう、巣を作っていたんだね。なるほどこれは立派だ、まだ出来上がってはいないようだが、きっと立派なものになるだろう。角度も大きさも位置も、どれを取っても見事だが、なんといっても対称性が頭一つ抜けてるよ。」
クモはその鳥のことがほとんど嫌いになっていたので、そのような賞賛の言葉にも気のない返事をするばかりでした。もう放っといてくれよ、というのが彼の本心でした。彼の気持ちを知らずに、おそらく知るつもりもないミミズクは、よほど彼を思い通りに言い負かしたかったのでしょう、そのための道のりを突き進んでいきます。
「しかし、ねぇ、この規模の巣だと一朝一夕というわけにも行くまいだろう、なにせ根気のいる作業だからね。その間の食事はどうするんだい、巣が万全じゃない間の?」
近場で虫の死骸をあさる、無ければしょうがないから草を食うことになるな、とクモはつまらなそうに言い捨てました。それと同時に心中はこう思っていたのです。
コイツ、最初の温厚そうな感じはどこへ行ったんだ、俺を油断させるための演技だったのか?それにしても意図が分からない、俺を食うわけでもなく、やることといえば屁にもつかない理屈を口からプウプウ漏らすばかり。おっかない目をギラつかせて今にも捕食せんばかりじゃないか、ただ話してるだけだってのに。いや、もしかするとそれこそコイツのやりたいことなのか、絶対に逆らえないであろう相手に屁理屈を押しつけて困らせることが?
クモはもちろん侮辱を感じて腹を立てましたが、それ以上に薄気味悪さを覚えました。その日暮らしで精一杯だった彼の目に、このミミズクのような精神のやりとり、いわば見えない牙での捕食という腹の足しにもならない行為に興ずる手合いが奇怪に映るのも無理ないでしょう。
クモの返答を聞いたミミズクは頭の羽角をピクッピクッと震わせ、目の粘ついた輝きをより強くしました。
「おやおやおや、それはよくない。腹が減ったときにはいつも虫がその辺で死んでるなんて、都合のいいことあるかい?あのまずい雑草を消化する役割を自然が君の体に与えたと思うのかい?そんなわけあるまい!
ああ、友よ、もはやそう呼んでも差し支えないだろう、幼気な職工よ?君は狩りを覚える必要がある。ただ巣を張って待っているだけでは、君はいずれ死んでしまうだろう、自然を果たす前に死んでしまうだろう。そうならないためにも、君は狩りを身につけなければならない。君のその鋭い牙は何のためにある、その細く俊敏な六本脚は?獲物を追いかけるんだ、糸無しで打ち負かし、そして頭腹に食らいつけ!」
「嫌だね。」クモは短くすげなく、鳥とは対照的に冷たい語気で答え、それから「自然がクモだけに、俺だけに与えてくれたこの糸をありがたく活用させてもらうことにするよ。お前の言うところによれば、自然の役割を果たすってのは、つまりこういうことだろ?」と揚げ足取りのようなことを言いました。
これは手痛い反撃、と思いきや、ミミズクは待っていましたと言わんばかりに間を含み、落ち着き澄ました、賢者らしい、つまらなそうな態度を繕いました。そのギラついた双眸と激しく前後する羽角だけが、彼の異様な興奮を伝えています。彼は無造作を装い、あたかも何気ない一言のように口を開きますが、実際にはそれは彼にとってウィットとアフォリズムに富んだ会心の文句として長年温められてきたものに違いありません。
「ならいっそのこと、蚕にでもなればいい、そこまで糸に固執するのなら。君、蚕を見たことあるかい、あの白くて美しい虫を?あれはいいもんだよ、あそこまで清潔な虫はなかなかいない。それに、あれの紡ぐ糸はクモの糸なんかよりずっと丈夫で価値あるものなんだ。うむ、やはり君は今からでも蚕を目指すべきだよ。そうすれば一生好きなだけ糸を吐いていられる、食事や住処やメスグモのことなんかで頭を悩ませなくてよくなる。」
そう言い残してミミズクは梁から飛び立ちました。クモの方はといえば、ただ呆気に取られていました、自分以外にも糸を吐く虫がいると知って驚いたのです。彼はすぐ我に返り、その蚕とかいう虫について、どこにいるのか、どれくらいの大きさなのか、何を食べるのか、どのような糸を吐くのか、巣を作るのか、などなど聞こうと振り返りましたが、現れた時と同じように颯然と、ミミズクの姿はもうどこにも見えなくなっていました。
「俺はクモだ、自分の巣をもってどんと身構えているクモなんだ。」
クモは自ら言い聞かせるようにそう呟くと、雑念のまつわりついた思考を引きずりながら、黙々と巣作りを再開しました。




