その1
最も恐ろしいのはやはり、己の器を超えてまで拡張されていく自我でしょう。
人間にとって興味があるのは、なんといっても人間のこと、もっと言えば自分自身のこと。究極な点において、人間は自分自身にしか興味を抱けないように思えます。そのこと十かける十の百も承知、その上で私から一つのアレゴリーを提出させていただきたいのです。
それにしてもやはり、最も恐ろしいのは、肥大していく自我なのです。
真夜中のうちに台風が過ぎ去り、街も落ち着きを取り戻した梅雨の夜明け前。あたりはジメジメとしているものの不快ではない、涼しい空気で満たされていました。そこの大通りにはホテルや学校やスーパーが整然と並んでいるのですが、建物と建物の間にこんもりと木々の茂っている区間が挟まっています。まるで森そのまま移植してきたかのようですが、よくよく見てみると、通りに面したところに大きな石の鳥居があるのが見えるでしょう、なんてことない、ただの神社です。
正面から見ると、立派なお堂と賽銭箱の備えてあるのが奥に見えます。境内に入ってそよ風が水滴と葉擦れの音を控えめに振り落とす中を歩いていくと、左手の方すぐに小さな石段があるのですが、これまた黒々とした草木で隠されていて、ちょっと気づけません。ほんの二三段しかない石段の先に、木造の古ぼけた小さいお堂と二メートルちょっとしかない石造りの鳥居があります。そこで彼は夜も明けようという時間にもかかわらず、せっせと働いていました。今回の台風が壊してしまった彼の家を作り直していたのです。それが全て手ずからで、細い脚であっちこっち奔走し、体をあくせく震わせて、なんと材料も自身で準備するというのですから、立派と言うよりほかありません。
みんなうっとり眠っている時間、彼だけがこの大変な事業に取り組んでいるというのに、一メートルほどしかない柱の間を忙しく行き来するその顔は、どこか楽しげでした。自分自身の成り立ちに満足していたからです。彼は黙々と作業を続けます。
節足 うごめき綱渡り
流々 もつれぬ足運び
微妙 まさしく職人芸
急げ 我が足クモの足
姿態 黒々毛むくじゃら
爛々 輝く目は赤し
醜怪 さながら悪魔の下僕
苦しめ 我が身クモの身よ
宵夜 一つ明ける初夏
恢々 広がる白い筋
迅速 万魔殿に劣らぬ手並み
脈打て 我が巣クモの糸
常闇 揺らす光の糸
滔々 絶えぬ肉の糸
永久 途切れぬ神秘の糸
尊し 我が糸クモの糸
……
いざ我が城編まん
小さなオスグモは上機嫌に黙々と作業を続けました。鳥居の柱と柱の間で、糸を吐き出しては手繰り張りつけ整え、ようやく彼の狩場でもある平らな家は完成したのですが、達成感も冷めやらぬうちに、糸の微かな振動としっとりした空気、そして世界の寝息のような風に誘われて、そのまま巣の上で眠ってしまいました。
やがて空が青みを帯びてきました。台風が過ぎ去った後のシミ一つない空、群青色のキャンバスです。それからそこに、東の方から白が差して、少しずつ世界に明暗を生み出し始めました。この時間だけは、日の出から数十分の間だけは、普段は鬱蒼とした木々や周囲の建物に阻まれて湿っているあの神社の一角にも、日光が訪ねるように差し込みます。小さな体が日差しでいっぱいになって、意思とは関係なしにクモは目覚めました。
彼がまず感じたのは、眩しさと熱でした。日陰に入って涼もうと一つ歩いて、そこで次に自身を包む浮遊感に気づきました。クモはアッと驚き、足元を見て、そして左右を確認しました。鳥居の真ん中にキラキラ透けて浮かぶ、平面の幾何学的芸術、彼がひそかに天使の足場と名付けているもの。彼は自身の一夜の大事業を、次いでそれを成し遂げたことを思い出しました。クモは嬉しさのあまり、巣の上を自由自在に歩き回りましたが、しばらくそうしていると、やがて一抹の悲しさ、喪失感、手持無沙汰に襲われてきました。それでもやはり誇らしいことに変わりなく、彼は満足感をかみしめるように口を引き結びました。
外からは朝の街の音、車の走る音や枝を踏み折る音や遠くで犬の鳴く音が聞こえています。クモは脱力感に沈みながら、それらの音を自分と関係のない日常の音だと、自分の知らない日常がまたどこかで始まるのだと、そう思い、獲物が巣にかかることを心待ちにしながら、今度はより深い眠りに落ちたのでした。




