海竜の加護と海の守
夜の海は、まるで眠っているようだった。
波が穏やかで、星の光が水面に降りてくる。
航路は静かに進み、甲板には潮風と仲間たちの息遣いだけがあった。
「……ほんとに落ち着いたわね」
アリアが柵に肘をつき、風に髪をなびかせる。
「昼間のあれが嘘みたい」
「嵐の後は、いつも静かなんだよ」
俺はルメナを膝に乗せ、鱗を指先で撫でた。
小さな海竜は気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
まだ傷は残ってるが、生命力が強い。潮風の中でも息が安定してきていた。
「不思議ね」ミーナが呟く。
「この子、ただの海竜じゃない。海と……繋がってる感じがする」
「繋がってる?」
「ええ。潮の流れが、この子の鼓動に合わせて揺れてるの。まるで海そのものが“息をしてる”みたい」
その言葉に、俺の胸の奥がざわついた。
まるであの夜、港で海の精霊に出会った時のような感覚だ。
「ミーナ、もう少し近くで見せてくれ」
ミーナが両手でルメナを抱え、光の下に出す。
鱗が淡く光り始めた。
青白い燐光が波間に反射し、海全体が薄く輝く。
「……すご」
アリアが思わず息を呑んだ。
「海が、光ってる」
次の瞬間、ルメナが小さく鳴いた。
“キュルゥ……”
波がそれに応えるように、ゆるやかにうねった。
風が止み、音が消える。
ミーナが目を閉じ、言葉を失う。
「これ……海の“理”の反応よ。潮の記憶……古い海の魔力が共鳴してる」
ルメナの身体から光の粒が舞い、俺の手の甲に落ちた。
青い紋が一瞬浮かび、蒼晶のような輝きを放つ。
《加護発動:潮の護》
――波が語りかけてきた。
『汝ら、海を汚さず、命を繋いだ者。
この流れを、託そう。』
声は、風に混ざるように響いた。
誰の声でもない。
でも、確かに“海”そのものの声だった。
「……トリス、これって」
「ああ、海の理が、ルメナを通して“認めた”んだ」
蒼環の加護が一瞬だけ強く輝き、ミーナの髪が風に舞った。
潮が逆巻くことなく、滑らかに船を押し出す。
海はもう、敵ではなく味方だ。
⸻
「ねぇ、ルメナの目見て」
アリアが小声で言った。
ルメナの瞳は金色に輝き、海の光を映していた。
まるで、すべてを見ているような目。
「この子、潮流を読んでる。嵐の前触れや、魔物の出現も感じ取れるはず」
「つまり……航路の守護神ってわけか」
俺がそう言うと、ミーナが微笑んだ。
「ふふ、“雷の辺境伯”が“海の守”まで兼任ね」
「職務過多だな……」
「でも、似合ってる」
アリアが笑いながらルメナの頭を撫でる。
“キュルッ”と可愛い鳴き声。
ノクスが羨ましそうに尻尾を揺らし、アージェが低く鼻を鳴らした。
「……ノクス、焼きもち?」
“にゃ”
「可愛い……!」
ミーナが肩を震わせる。
アリアが吹き出して笑った。
船上の空気が、一気に柔らかくなる。
⸻
そのとき――遠くの水平線が明るんだ。
夜が明ける。
初めての航路で掴んだ、初めての夜明け。
「見ろ、ハルディアの海だ」
俺は手をかざし、朝日を指差した。
金と蒼の境界が揺らめき、ルメナの光がそれに重なる。
あの戦いも、痛みも、すべてがこの瞬間に報われる気がした。
「トリス」
ミーナが隣で微笑む。
「この航路、本当に作っちゃったね」
「まだ始まったばかりだよ。だけど――」
俺は朝日に刀を掲げた。
「この道は、もう誰にも壊させない」
ルメナが鳴く。
アリアが笑い、ノクスとアージェがその声に応える。
新しい風が帆を膨らませ、船が光の中を進んだ。




