<1・なんでもふもふしてるんですか?>
婚約破棄、というものが流行っている。
いや、そんなもん流行るなと言いたいところだが、とにかくそういう話が珍しくないらしい。貴族の社会において、正式な結婚の前に婚約者が決まっているなんてことはおかしなことでもなんでもなく、その結果結婚前に互いの関係がこじれてご破算になるなんてことも――悲しいかな、少ないことではないからだ。
特に、男性側に別に好きな人が出来たとか。女性側がうっかり浮気をしていたとか。そういう理由で「やっぱこの話はナシで」になるのは珍しいことではないようだった。場合によっては、どっちかの家が傾いたり、何かトラブルを起こしたせいで両親が「やっぱやめますわ」と言うこともあるらしいが。
で。
今、伯爵令嬢であるアンもまた、その憂き目にあっているところなのだった。
「……すまないが、私の決意は変えられないんだ」
目の前には、アンの婚約者である伯爵家令息、ニコラスの姿がある。彼は首を垂れて、謝罪を口にしながら――それでもはっきり告げたのだ。
「君との婚約を……なかったことにさせてくれ」
普通こんなことを言われたら、令嬢として怒り狂うのが当然だろう。なんせ、自分達は十二歳で婚約し、今年で互いに十八歳になった身である。二年後には正式に籍を入れることになっていたし、どちらの家も昔ながら縁が深い関係だ。ここでご破算なんてことになったら、両家の関係そのものに罅が入りかねない。とどのつまり、双方大ダメージなわけである。
そして、もしその理由が「他に好きな女性ができたから」であったなら――アンは間違いなく、この場でニコラスをぶん殴っていたはずだった。自分はその程度には勝気かつ苛烈な性格であると自負していたし、浮気され侮辱され、それで男を許してやるほどお人よしでもなかったからである。
しかもこの場合、侮辱されているのはアン個人のみならず、自分の家も含まれるわけだ。絶対許されるようなことでは、ない。
そう、本来ならそのはず、なのだが。
「……うちの国の法律では、婚約破棄って……役所に書類出さないといけないはず、ですわね?だって、予め婚約予定書を提出しているんですもの」
アンは、まったく怒ってはいなかった。
怒ってはいなかったが――心底呆れていたし、戸惑っていた。何故ならば。
「で?……ニコラス、あなた……その手で、書類にサインなんてできますの?ていうか、ペン持てます?」
「…………」
その言葉に、ニコラスは目に涙を浮かべて黙り込んだ。――そう、小さくてつぶらな、青い瞳で。
今、ニコラスは椅子に座っていない。ていうか、座れないのだ。彼はテーブルの上にちょこんと四つん這いになって佇んでいる――アンの肩に乗れるくらいのサイズの、真っ白な、もふもふの聖獣の姿になって。
「婚約破棄とか言い出す前に、事情を説明しなさいな。それが筋というものでしょう?何があったっていうのよ」
「……すまん」
自分の記憶に間違いないのならば。
ニコラスは三日前までは、長い銀髪にサファイアの瞳が美しい、十八歳の美青年であったはずなのだ。
***
おっとりしていて成績優秀なニコラス。対して、お嬢様でありながら木登りと武術訓練が大好きな、お転婆のアン。
二人は昔から正反対で、だからこそ気が合ったともいえる。割れ鍋に綴じ蓋とはこのことだろうか。お互い足りないものを補い合い、良い家庭を作り上げていくことができるはずだと家族も本人達も確信していた。そして、こう言ってしまってはちょっと恥ずかしいが、互いに互いを溺愛していた自覚があったのである。
『アン、大好き!ずっとずっと、私と一緒にいてね!』
『もちろんですわ、ニコラス。わたくしにはあなた以外の夫なんてありえませんもの。浮気なんかしたら承知しませんことよ?』
『するわけないよ!むしろ、アンが私以外を好きになっちゃったらどうしようって、いっつも心配なんだから』
『それこそありえませんわ。わたくしを誰だと思ってまして?アン=プルートと書いて、純粋一途と読みますことよ!』
『わあ、すごーい!』
まあ、こんなかんじ。ほぼこのノリのまんま十八歳まで関係を続けてきたのである。もちろん、正式な結婚をするまでは深い関係など結ぶはずもないが、大人のキスくらいはとっくに済ませているくらい仲良しなのだ。ていうか、なんなら会うたびにキスとハグはしまくっているくらい仲良しなのである。
ぶっちゃけ、普通に「好きな人が出来た」と言われたところで信じたかどうかは怪しい。
しかも正直こんな、明らかに事情ありまくりの状況で「婚約破棄させて」なんて言われても――怒りより何より先に、困惑しか出てこないのである。
「ていうか、アン」
もふもふした白いニコラスの体には、小さな天使みたいな羽根がくっついている。また、まるで犬のようなたけのこシッポがあるのも見えた。
正直に言おう。めっちゃ可愛い。そのへんのペットよりずっと可愛い。
「こんな姿になったのに、なんで私が私だと信じてくれたんだ?」
「え、今それ言うの?ちょっとつっこむのが遅すぎませんこと?」
「パニックになってて、すっぽ抜けてたんだもん。こんな姿になっちゃったらもうアンと結婚できない。迷惑かけちゃうから、とにかく婚約解消させてもらわないといけないって……」
「馬鹿。それより先にやるべきことがあるでしょうが。わたくしとあなたは一心同体と、大昔に誓ったはずでしょう?状況説明もしないでどうするつもり?ていうか、このわたくしが、もふもふになったくらいであなたを嫌うなんてことあるはずないでしょう?ていうか、どんな姿になってもあなたがわからないなんてこともありませんから。ええ、絶対にね!」
「アン……!」
感動したようにニコラスが潤んだ目を向けてくる。さっきからそれを見て、机の下でアンの右手がわきわきして仕方ないのだった。
めっちゃ触りたい、もふりたい。
しかし深刻な様子の婚約者を前に、その衝動を必死で堪えているところなのだった。
「……三日前、私の家の前で、君がいってらっしゃいのチューをしてくれただろう?」
小さなタケノコしっぽをパタパタ振りながら言うニコラス。可愛い。
「そのあと、私と父がどこに行ったのか、君にはどこまで話しただろうか?」
「西の領地の様子を見に行ったのよね?最近、領地の人間が行方不明になる事件が多発していて気になるからって」
「ああ。西のマーキュリータウンだ。あそこのクロブドウはまさに収穫時期を迎えているしな。町の重要な収入源でもあるから、その様子を見に行く目的もあったんだ」
マーキュリータウンには、アンも何度か足を運んだことがある。温かくて日当たりも良く、雨もほどほどに振るということもあって果樹園を作るのにぴったりな環境なのだ。クロブドウをはじめ、季節にとってはアモウナシなんかも収穫できる。夏から秋にかけてがまさに掻き入れ時というわけだ。
ニコラスいわく、今年はかなり豊作であり、売り上げも上々という。ただ、西の山にほど近い果樹園が荒らされる事件が何度か起きており、山の方からモンスターが降りてきているのではないかと心配していたそうだ。
「クロブドウは美味しいからな。たまにクマなんかが降りてきて被害を齎すことがある。そんなわけだから、一部の領民が銃を持って果樹園の警備をしていたんだな。ところが……」
「その人達がいなくなったってこと?」
「ああ。しかも、少々争った後が残っていたし、僅かながら血痕も残っていた。痕跡からして、クマではなくもっと狂暴なモンスターが降りてきたかもしれないと、みんな戦々恐々としていたらしいんだ」
村の警察組織なんかも見回りをしてくれているが、それ以降被害もパタリとやんだため、モンスターの姿を確認することはできず。同時に、いなくなった人達も見つけられなくて困ってしまっていたという。
そこで、心配したニコラスと父が自分達の目で視察に伺ったというわけだ。
「まったく、無茶をしますのね。本当にモンスターだったらどうしますの?中には狂暴なものもいますのに」
もう、とアンはため息をつく。
「そりゃ、あなたの魔法の腕は、わたくしも認めているところではありますけど」
「わかってるじゃないか。私はこれでも学園一の魔法使いだったんだぞ?多少のモンスターくらいなら討伐できる。父だって元軍人なんだ、銃の腕は超一流。私と父が組めば大抵のモンスターはなんとかなる。それに」
「それに?」
「自分達の寮地の人が困ってるのに、地主が何もしいないなんてそんなバカなことあるか!私達は彼らに土地代を貰っている身なんだぞ。それは彼らのために土地を守っていく責任があるってことだ。ここで何もやらなかったらお金を貰う資格なんてないじゃないか」
これよ、とアンは天を仰いだ。この青年には、身分の低い人への差別意識など微塵もない。そして、目の前の誰かのために全力を尽くすのは当然、特に領民を体を張って守るのが当たり前の責務だと思っているのである。つまり、究極のお人よしなのだ。そんな彼らだからこそ、領地の人々からも愛され、慕われているのだろうが。
「でも、なんとかならなかったから、あなたは自分もモンスターにされちゃったんでしょうが」
「……そうなんだよ」
アンのつっこみに、ニコラスはしょんぼりと羽根を下げた。
「山に入って、暫くモンスターらしき足跡を辿ったりしていたんだけど……その途中で、後ろから不意打ちを受けてしまって。私が囮になって、父に逃げるように言ったんだ。それで気絶させられて、気づいたら……こんな姿で」
「お父上は無事だったわけね?」
「みたいだ。父が、すぐに私だと気づいてくれたのは不幸中の幸いだよ。とにかくこの姿で、王都まで戻ってきて今に至るんだけども」
はあああああああ、と彼は盛大に息を吐いた。
「本当に困ってるんだ!この姿ではまともに人前に出ることもできない。何より……会う人会う人、みんな奇声を上げて襲ってくるんだ!もふもふさせてくれって騒ぐんだよー!勘弁してほしいよ、私はペットじゃないのに!!可愛いよりかっこいいって言われたいのにいいいいい!」
「あぐっ」
その言葉に、アンは全身を硬直させた。
――い、言えない……わたくしもモフらせてほしくてたまらないなんて!!
ああ、可愛いとは罪である。
結構深刻な状況なのも、理解してはいるのだけれど。