紅薔薇の祈り(4)
「薔薇のジャムに、薔薇の砂糖漬け。豪華な薔薇尽くしが届きましたね」
木箱を開けると、部屋の中にはかぐわしい香りが一面に広がった。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、リリィはうっとりと目をつぶる。白狼には少し匂いが強かったのか、くしゅんと意外に可愛らしいくしゃみをひとつした。
「律儀な男だな」
「それがあの紅薔薇を譲る条件でしたからね。無事に根付いて本当によかったです」
あの後リリィは、むせび泣く男に紅薔薇を譲ることにした。条件は二つ。一つは、紅薔薇を男の住む家の庭に植えてしっかり面倒を見ること。もう一つは、花がちゃんと育ったら薔薇の砂糖漬けを作り、それをリリィに定期的に分けること。
たった二つの条件だが、男以外だったならそれは非常に厳しい条件になっていただろう。何せ切り花の薔薇は、いきなり地植えすることはできない。挿し木をして植え替えられるように準備を進めている間に、うっかり枯らしてしまうことだって少なくないのだ。よしんばうまく植え替えられたところで、気候の違う場所から持ち込んだ薔薇の生育は非常に難しい。
けれどリリィには、男が間違いなくうまく紅薔薇を育て上げるという予感があった。あの薔薇はローズ自身。ローズが自分は男の手で一生を終えたいと話していたのだ。彼が生きてくれと願い、愛情を込めて育てたならばきっと笑ってしまうほど簡単に健やかに育つに違いない。
その予想通り、男の家は評判の薔薇屋敷になっているらしい。春だとか冬だとか、本来ならば薔薇ごとに育ちやすい季節があるはずなのに、移植先で日々めきめきと成長し、年がら年中咲き誇っているのだとか。
彼の紅薔薇を欲しがる人間は非常に多いが、どれだけ別の場所で育てようとしたところで、一向に育つ様子はないというのがまたローズらしい。彼のためだけに咲き誇るのがローズの愛。この調子ならば、あの美しい女性が幸せそうに彼女の夫の隣で微笑む姿を見ることも、そう遠いことではないのだろう。
「きっとふたりはまた巡り合えますね」
「そうだといいな。わたしも期待している。ところで、お茶の準備はまだだろうか」
「犬は食べてはいけないものがたくさんありましたよね。聖獣さまは、薔薇のジャムは大丈夫だったでしょうか?」
「わたしをそこらの犬と一緒にしてはいけない。そなたと同じように用意してくれ」
「かしこまりました」
くすくすと笑いながら、リリィは木箱の中身をさらにテーブルに移していく。お茶の準備をするためには、まずは届いた荷物を片付けてしまうのが先決だ。お茶の時間を前に、白い狼はご機嫌に尻尾を揺らしている。
「あら、素敵なティーセットも一緒に入っていますね。嬉しい、残念ながらこの屋敷の中には、ちょうどいい茶器がなかったのです。これでみんなで美味しくお茶が飲めますね」
「そうか。そなたが満足ならば、それが一番だ」
「それにしてもこの森までどうやって荷物を届けているのですか?」
「神殿経由で運んでもらっている」
まさか「王国 知らずの森 森の番人さま」などといったふざけた宛名を書くわけにもいかないし、郵便配達屋もこんな辺鄙な場所までくることは嫌がるだろう。そもそもここは、禁足地。許可なく立ち入れる場所ではない。リリィの疑問に、白狼はこともなげに返事をする。
森の番人と神殿には、どうやら何かしらの繋がりがあるらしい。正直、いきなり騎士に襲われた身の上としては微妙に気になるところではあったが、付き合いの浅いリリィが聞けるようなものではないだろう。何より、ここにリリィがいることを知っていて見逃されているのであれば、藪をつつくものではない。そう判断したリリィはあえてその部分には触れず、黙々とお茶の準備に取り組んだ。
***
「それで、どうして番人まで食卓に並べているのだ?」
「番人さまを置物扱いしないでくださいませ」
「だが、眠っているのだ。飲食もできないのに、同席させても意味がないだろう」
「そんなことはないと思いますよ」
「死にかけの老人を置いていても、景気が悪いではないか」
「聖獣さま、それは番人さまに対してあまりにも失礼です」
テーブルの上には、届いたばかりの薔薇の砂糖漬け、薔薇のジャムを使った紅茶が並んでいる。紅茶が入っているのは、これまた一緒に届いていたティーカップだ。白磁に藍色の唐草模様がなんとも美しい。だが白狼が気になったのは、お茶の内容ではなかったらしい。なんとも言えず居心地の悪そうな顔をして、揺り椅子に乗った番人の顔をちらちらと見上げていた。
「定期的に話しかけることは良いことですよ」
「何か根拠でもあるのか?」
「個人的な経験によるものであれば、答えは是です」
リリィは、重篤な怪我を負った騎士の治療にあたったことがある。意識を取り戻した彼らが言うには、棺桶に片足を突っ込んでいるような状態であった時でさえ、周囲の声が聞こえていたそうなのだ。家族の嘆き、悲しみ、同僚の怒り、同情。悲しいことに目を覚ました患者の中には、倒れていた間に家族の本音を耳にしてしまったことで、家族への信頼を失ったひともいた。
緊急事態にうろたえた家族が何を言っていたとしても許せとは、リリィには言えなかった。何せリリィは緊急事態でなくても家族から虐げられていた人間だ。誰よりも許すことの難しさを身に染みて理解している。だからリリィは、患者の家族には不安があるときにはせめて別室で話をするように言い含めていた。そして患者には、できるだけ楽しい話、相手への想いが伝わる話をしてほしいと。
「そんなもの、患者の妄想にすぎぬのでは?」
「そうですね。患者さんが耳にしていた内容が真実であったのか、幻聴であったのか、証明することはできないでしょう。それでも、『聞こえているかもしれない』と思って接することは大切だと思うのです。ほら、小さな子どもの前で悪口を言ってはいけないというマナーと同じようなものですよ。わかっていないと思っているのは、こちらだけなのかもしれませんから」
「まったくご苦労なことだ」
それでも白狼は、番人をお茶から追い出せとは言わなかった。だから、もしかしたら白狼もまたどこかで番人が目覚めるのを期待しているのかもしれない。ただ、本気で期待したならばその願いが叶わなかったことにがっかりしてしまう。だから、あくまでそんなことありえない、馬鹿馬鹿しいという態度をとらざるを得ないのではないかと思えてならないのだ。
それに、とリリィは思う。ひとの願いを聞き入れることが仕事だったはずの森の番人と白狼。彼らの願いを叶えてくれるひとがいないことは、とても悲しくて寂しいことではないだろうか。
「こんなに素敵なティーセットがあるのですから、今度は薔薇の砂糖漬け以外の美味しいお菓子も用意したいですね。貯蔵庫には果物がほとんどないのですが、森にりんごの木などはないのでしょうか? アップルパイを作りたいのです」
「雪の降る季節に、木々は実りをつけぬ」
「まあ、残念なことです」
一応森の中に、りんごなどの果樹がないわけではないらしい。そうであればこの知らずの森も、建国当初から雪に閉ざされていたわけではないということなのだろうか。首を傾げるリリィに、白狼は食い気を見出したようだ。
「果物など、入用のものがあれば手配しておこう」
「ありがとうございます。それにしても、ここしばらく雪が止んでいるのはありがたいことですね。雪が降り続ける限り、あの恐ろしい雪かきをしなければならないのですから」
「……そうだな。雪がやむのは、確かにありがたいことだ」
窓の外から見える知らずの森は、今なお真っ白な雪によって閉ざされている。いまだ目覚めぬ番人の夢の色は同じように真っ白な気がした。