紅薔薇の祈り(3)
「あの、すみません!」
ローズの残した薔薇と包みを拾い、やるせない思いを抱えたまま、番人代理であるリリィは広場のベンチに腰かけていた。気分転換を兼ねて買い求めたお菓子にも手は伸びない。ぼんやりと人の流れを眺めていたリリィは、突然声をかけられてゆっくりと振り返った。先ほどローズが声をかけていた男性――つまりはローズのかつての夫――が息を切らして立っている。額には大量の汗が浮かんでいた。
「この辺りで、女性を見ませんでしたか? 赤い髪が印象的な色白のご婦人なのです。王都からいらっしゃったようで、あなたと同じような服装をしていらっしゃいます」
「失礼ですが、お探しになっている女性のお名前をお伺いしても?」
「それは、その……すみません、わかりません」
困ったように言いよどむリリィの様子に、男はそこでようやく自分が非常に怪しい問答をしていることに気が付いたらしい。慌てたように周囲をきょろきょろと見回しながら頭を下げる。
「すみません、不躾に大変失礼いたしました。決して怪しいものではないのです。突然女性のことを尋ねて警戒するのも無理はないことだと思いますが。ええと、少しだけお時間を頂戴しても? 必要ならば警邏の立ち合いの元でも構いません」
「……警邏を呼ぶ必要はありませんよ」
「ああ、確かにあなたには見知らぬ警邏よりもずっと頼りになる護衛がいらっしゃいますね」
心得たように白狼が一声鳴くのを見て、男が笑う。太陽の日差しを思わせる、明るく爽やかな笑みだった。
「すみません、俺の名前はフェニキス。ああ、フェニキスというのはこの街でつけてもらった名前でして……ええと、どこから話せばいいのかな」
誠実さをうかがわせる朴訥とした話し方。世渡り上手とは思えないが、地道な人生を歩んでいくに違いないと思わせる。ローズはこの男の、礼儀正しく、真面目なところが好きだったのだろうなとリリィは心の中でため息を吐いた。
「あなたがお探しの女性が私の知っている女性と同じだと仮定して話を進めますが、残念ながら私は彼女のことをほとんど知りません。神の思し召しとも言える偶然の出会いにより、たまたま一緒にこの街を訪れただけなのですから」
「つまり彼女がどこへ出かけたかはご存じない?」
「はい。少なくとも、私は彼女をここへ呼び戻す手段を存じ上げません」
そもそも彼に真実を伝えたところで、男は納得しないだろう。リリィだって先ほど目の前で起きた事象について理解が追いつかないのだ。彼には彼女が消えたことの意味をきっと理解できない。だからリリィとしてはこう答えるより他に仕方がなかったのだが、彼は何度も辺りを見回していた。
「どうして彼女のことを探していらっしゃるのです? まさか初恋の女性だったりするのですか? いけませんね。妻子のいらっしゃる男性にはあるまじき振る舞いです」
「ああ、そうなのかもしれません。彼女を見た時に頭を殴られたような衝撃を受けたのは、そういうことだったのだと言われれば納得できます」
ちくりとした皮肉にまるで夢を見ているかのような信じられない答えが返ってきたことで、リリィは思わず紅薔薇を男の鼻先に突き出していた。それは霞のようにローズが立ち消えた後に、唯一残されていたものだ。だが、彼女を前にして何も気づかなかった男に仔細を教えたところでどうなるというのか。そもそも彼女は、ただの人間には目にすることさえできない。魔術師や神官ではないくせに、薔薇の精であるローズが見えていたこの男こそが異端なのだ。
深く薔薇の香りを吸った男は、苦しそうに胸をかきむしり始めた。
「どうされましたか? どこか痛みでも?」
慌てて確認するリリィに、男は小さく呻きながら首を振った。
「ああ、違うのです。いや、違わないのかな。どうしてでしょうか。彼女を見た時から、なぜか胸がざわざわしていたのです。そして、今薔薇に香りに包まれた瞬間に、どうしてだかわかりませんが、自分は間違ってしまったのだということに気が付いたのです。自分は間違えた。自分は失敗した。約束を果たせなかったのだと。一体、誰とどんな約束をしていたのかさえ思い出せないままなのに。おかしいですよね」
混乱する男をなだめるように、白狼が前足をそっと男の足に押し当てた。高ぶった感情でパニックを起こさないように、魔術で抑えているらしい。男がひとつ深呼吸をする。リリィは彼をなだめるように、ゆっくりと尋ねた。
「そういえば、先ほど見かけた際にはご家族とご一緒だったようですが。ご家族は今どちらに?」
「ああ、そうですね。妻と娘は、義母の家に向かいましたので。ただの用事なら俺もついていきますが、今日は月命日ですしね。積もる話もあるでしょう」
男の言葉にリリィは首を傾げた。妻と娘が義母の家に行ったということは、妻の実家に向かったということか? けれどそれならば、積もる話に男が参加しても問題はないのではないだろうか。女同士の会話には入りにくいとでもいうのだろうか。
「月命日、ですか? それはどなたの?」
「妻の前夫ですね。もともと病弱だったらしく、流行り病でぽっくり逝ってしまったのだそうです。俺は妻が働きに出かけていた診療所に運び込まれた患者でして。記憶がなくて困っていたところを、引き取ってもらったような形です。いや、お恥ずかしい」
「記憶がない?」
それはもしや、故意にローズを捨てたわけではないということになるのではないか。先ほどの男の様子に密かにリリィは思案する。
記憶が戻る際には、頭痛など身体的苦痛が発生するという話を聞いたことがある。ならばローズに出会ったことで、記憶が戻りかけているのか?
「ご自身の身分を示すような手がかりはお持ちではなかったのですか?」
「土石流に巻き込まれていたところを助けられたらしく、持ち物は何も残っていなかったそうです」
なるほど、それで身元確認を取ることができなかったのかとリリィは納得した。民間人も大量に犠牲になっていたのなら、彼が王都からの支援部隊の一員だと思われなかったのも納得する。病院に運び込まれる前に身ぐるみはがされていた可能性だってあった。
「立ち入った話でしたのに、不躾で申し訳ありません」
「いいえ、構いませんよ。何せこの辺りでは有名な話ですからね。まあ、それでも俺たちが白い結婚というところまでは、さすがにみんなも知らないんですが」
突然の爆弾発言にリリィは買ったばかりのお菓子を取り落としそうになった。足元で伏せていた白狼は動揺を隠そうとしたのか、交差していた前足をわざわざ組み替えている。
「おっと、すみません。この話は内緒でお願いします」
「わ、わかりました」
「未亡人というのは、なかなか難しい立場なんですよ。亡くなった夫の兄弟に再び嫁がされたり、男やもめの介護要員として求められる場合もある。小さな子どもがいれば、身動きだって取りにくい。それを阻止するために、俺は雇われたようなもんなんです。どうも彼女曰く、俺は男の臭いがしないそうで。まあ一生隣にいるわけではなく、彼女の娘さんが一人立ちする頃まではという期間限定の約束なんですが」
「まあ……」
「それにしても、どういうことなのか。いえね、妻は先ほど俺と話をしていた女性なんていなかったと言っていたんですよ。むしろ、先ほど俺が急に大きな声で独り言を言い始めたものだから、頭がおかしくなったんじゃないのかって心配していたくらいで。まあ、記憶を失くした俺が言えた義理じゃありませんが、なんとも失礼な話ですよね」
笑い飛ばす男の言葉を聞きながら、リリィは喉がからからになるのを感じていた。
勘違いをしたまますべてを諦めた紅薔薇を思うと胸が痛くなる。相手のことを思いやるがゆえにすれ違ってしまった紅薔薇に、男の声は聞こえているだろうか。リリィは先ほど手に入れたばかりの紅薔薇を差し出した。この男がどうするのかはわからない。それでも、これがローズの、紅薔薇の精の願いなのだから。
男は差し出された薔薇の花を受け取ると、おいおい泣き出した。
「大丈夫ですか? もしや記憶が戻られたのでは?」
「いいえ、何にも思い出せないままなのです。それなのに、どうしてでしょうか。俺は、なぜか涙が止まらないんです。この薔薇に会うために生きてきた、そう思えて仕方がない」
周囲のざわめきなど気に留める様子もなく、男は地面に座り込み泣き続けた。男が薔薇の花弁にそっと口づけを落とす。愛していると聞こえた気がした。