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紅薔薇の祈り(2)

 薔薇の砂糖漬けが入った紅茶を口に含んだ瞬間、ローズの身体は見知らぬ街へと飛ばされた。どうやら術の作用で、夫の元へと強制的に移動させられたらしい。夫を自分の元へ飛ばすことはできないのだなとちょっとした疑問を抱えながら、呼吸を整えた。空間を超える移動は、さすがのローズであってもなかなかに堪える。


「ここは、辺境の街?」


 王都よりもずっと乾いた風の吹く街の中は、隣国の影響だろうか鮮やかな色彩に溢れていた。普段よりもずっと太陽が近い気がして、ローズはあまりの眩しさに目を細める。さて、これからどうするべきなのか。ぐるりと辺りを見回した彼女は、番人代理と名乗ったリリィと白い狼もまたこの場に来ていることに気が付いた。


「術を発動させて終わりというわけではないのですね」

「さすがにそれでは乱暴すぎるでしょう。あくまで先ほどの術は、ご主人がいる場所の近くまであなたを移動させただけ。あなたの願いはご主人を探すことだったのですから、そのお手伝いはきちんといたします」

「それでも、少なくとも夫のいる場所が絞られただけでも御の字ですわ。さらに捜索のお手伝いもしていただけるなんて助かります」


 土砂の下で息絶えているのか、あるいはこの街で王都に戻るために必死で路銀を稼いでいるのか。いずれにせよ、夫に会えることには変わりはない。タチの悪い人間に脅されて借金を背負わされているようなことがあった時のために、屋敷から金目のものを持ちだしてきている。もしも夫が亡くなっていたならば、この地で墓を建てて自分も移り住めばいい。何をするにしても、まずは夫を見つけることが先決だ。


「あっ」

「ローズさん!」


 街の中を歩き始めたローズは、人込みに流されて思わぬ場所に押し出される。リリィが首を傾げてしまうほどに、ローズはひとにぶつかられやすい。大きな狼を連れているリリィのほうが、遠くから見ると周囲に空間が空いているように見えるはずなのにだ。まるでローズがいる場所は、通り道になって当然だと言わんばかりに力を加えられてしまっては、細身の女の身体などひとたまりもない。


 横へ横へ。流されるままに足を動かすローズは、やがてひとつの屋台の前で足を止めた。人気の店らしく、商品を見ているひとも多い。また突き飛ばされてはかなわないと、ローズは一歩下がって観察するにとどめておく。そもそもローズは、店で花を買おうとは思わない。彼女にとって最上の花は、夫が誉めてくれた紅薔薇なのだから。


 それでも花冠や腕輪を好む客も多いだろうことは理解できた。黒い揚羽蝶が花の周りをひらりひらりと飛び回っている。蝶が好むほどの香しさということらしい。


 宝石ではなく、数日限りの美しさを楽しむ花冠や腕輪は、華やかでありながら手ごろな価格で購入できる。商品となった花たちもまた、どこか誇らしげだ。ふわりと甘い香りは、リリィにさえも高揚感を伝えてきた。


 どんなひとが買っているのだろうか。好奇心で客のほうを覗いてみると、ちょうどひとりの無骨な男性がその店で花冠と腕輪をひとつずつ買っていた。光の加減で顔は見えないが、かなり屈強な身体つきをしている。珍しいこともあるものだと思ったが、彼には連れがいたらしい。腕輪はそのまま隣の女性へ、花冠は女性に手を引かれた子どもの頭へと置かれる。親子で買い物に来ていたようだ。


 はにかむように男性の腕に顔をうずめる女性ときゃらきゃらとはしゃぐ子どもの声。まるで物語のように幸せそうな親子の姿に見惚れていたローズは、再び誰かに突き飛ばされてしまったらしい。わざとではないが、思い切り男性にぶつかってしまった。


「も、申し訳ありません!」

「いえいえ、この人混みではしかたありません。お怪我はありませんか?」

「ええ、わたくしは。むしろとんだご迷惑を……」

「ご安心を。我々は地元民でこのようなことにはまあ慣れっこですから」


 ローズの服装から、旅行者だと思われたらしい。こちらを気遣う言葉にほっとし、微笑み返そうとしたローズは相手の顔を見て思わず目を丸くする。そしてようやっと理解した。夫が自分の元へは帰ってこなかった理由を。帰ってこなかった夫がどんな生活をしているのかを。そして止めは、男の言葉だ。ああ、ラッセル。


「あの、もしかして俺に何かご用でしょうか。失礼ですが、どこかで以前お会いしましたか?」

「いいえ、懐かしい方によく似ていらっしゃったものですから。ご家族とお過ごしのところ、大変失礼いたしました」


 男がローズに話しかける様子を、彼の妻と子どもは不思議そうに見つめている。一体、誰に向かって話しかけているのかと言わんばかりの顔。不審者扱いされないだけ、マシなのかもしれない。じっとローズを見上げていた子どもが、ぺたりと男のふくらはぎに抱き着いた。離すまいと両手両足でしがみついている。男は子どもに向かって目を細めた。


「おやおやおチビちゃん、もうあんよはおしまいかい?」

「とーたん、だっこ」


 幼子なりに、父親をとられまいと思ったのだろうか。子どもから見れば、確かに自分のほうこそ理不尽な簒奪者に見えるのだろう。親子の微笑ましいやりとりなど見たくはないのに、心に焼き付けるかのごとく目を離すことができない。笑え、笑え。泣くんじゃない。ローズは必死で美しい笑みを浮かべると、やがて男たちが進む方向とは反対の方へよたよたと歩き出した。再び男と言葉を交わしてしまったなら、何事か叫び出してしまいそうな気がする。


 ここへ来てようやく番人代理であるリリィもまたこの場所へ一緒に来てくれていたことを思い出した。それほどまでに動転していたらしい。気づかわしそうにローズを見つめてくる視線が鬱陶しくてたまらなかった。彼女は自分がこんな目に遭う未来もまた既に見通していたのだろうか。一瞬口汚い言葉が出てきそうになって、慌てて飲み込む。これは自分の問題だ。力を貸してもらっておきながら、八つ当たりなんてしてはいけない。そこまで自分は堕ちてはいないはずだ。


 拳をきつく握りしめながら、言葉を絞り出した。爪が食い込んでてのひらが痛んだが、そうしていなければ、頭がおかしくなってしまいそうな気さえする。


「愚かな女だとお思いでしょう」

「そんなことはありません」

「大人しく待っていれば、傷つくこともなかっただろうにと」

「いいえ、私は」

「わたくしには、時間がなかったのです。五年、十年、その先を待つだけの時間がわたくしには残されておりませんでしたから」


 深々とローズがため息を吐いた。夫に会えると思っていた喜びが大きかった分、夫が自分を捨てとっくに新しい幸せを手に入れていたという絶望に胸がえぐれそうになる。どうして自分は、夫の新しい人生を心から喜べないのだろう。


 夫は死んではいなかった。生きて、人生を謳歌していた。その事実をどうして嬉しく思えないのだろう。そんな自分だから、幸せを失うのは当然なのかもしれない。真に愛される人間というのは、己のことよりも愛する者の幸せを一番に願うに違いないのだ。


「どうして、彼に本当のことを言わなかったのですか?」

「あなたがわたくしの立場だったなら、彼に真実を告げたでしょうか? きっとあなただってわたくしと同じように何も言わずに立ち去ることを選んだのではありませんか?」


 番人代理は困ったような顔をする。それはつまり、彼女もまた自分と同じ選択をするということなのだろう。


「わたくしを見ても何も思い出さなかった。そして彼には既に愛する女性と大切な子どもがいる。それで十分でしょう。記憶を失った経緯などを聞いたところでせんなきこと。わたくしがしゃしゃり出ても誰も幸せにはなれません」

「黙って身を引くと?」

「『落花情あれども流水意なし』とはよく言ったもの。それでも、もしもわたくしを哀れとお思いになるのであれば彼に渡してはいただけないでしょうか」

「一体、何を?」

「わたくし自身を。もともとわたくしの身は、彼にすべてを捧げていたのです。打ち捨てられるのならば、彼の手によってすべてを終わらせましょう」


 そう言うと、ローズは疲れたように微笑んだ。そして小さな包みと艶やかな赤い薔薇を一輪残して、リリィの前で姿を消してしまったのである。

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