紅薔薇の祈り(1)
「おやおやおちびちゃん、もうあんよはおしまいかい?」
「とーたん、だっこ」
「まあ、いけません。お父さんも疲れているのですから、ちゃんと自分で歩いて帰らなくては」
「やあよ、やあよ。だっこよお」
「まあいいじゃないか。ほら、おちびちゃん。抱っこだよ。そこからは、何が見えるかな?」
「えーとねえ、うんとねえ、おそら! おそらがわらってる!」
買い物の途中で、歩き疲れた幼子が抱っこをせがみながら駄々をこねている。子どもに甘い父親と、子どもの将来を考えているからこそ厳しく接する母親。それはどこにでもある、ごく普通の一般的な家族の姿だ。けれど目の前の幸福そのものといえるような光景を見て、ローズはひとり涙をこぼした。自身が握りしめていたはずの幸せは、とっくにてのひらから零れ落ちていたのだと気が付いたから。
***
ローズの夫は、王国の騎士である。女子ども、動物、植物に至るまで、とても優しく思いやりのある態度で接している夫だが、彼は武勇で名を馳せていた。だからこそ彼が国境で隣国との小競り合いに伴う救援要請を受けた時にも、ローズはこれっぽっちも心配などしていなかったのである。
『旦那さま、早く帰ってきてくださいませ。旦那さまがいないと、わたくし、寂しくてしおれて枯れ果ててしまうやもしれませんわ』
『おや、それは困ってしまうね。僕の可愛いローズ。大丈夫、季節が変わる前に、ちゃんと帰ってくるとも』
けれど、夏が過ぎ、秋が終わり、寒さの厳しい冬になっても夫は帰ってこなかった。隣国との交戦中、現場では大変大きな地滑りが発生していたらしい。そのために幾人かの騎士たちが、敵兵もろとも土砂に飲み込まれてしまったのだという。季節外れの雨が降っていたことで地盤が緩み、その上で激しい戦闘魔術を行使したことが、地滑り発生の原因だったらしい。
その上、何ということだろう。王国の騎士団は、ローズのことを完全に無視したのである。正式な婚姻届を出していなかったことで、ここまで情報を遮断されることになるとは彼女自身も想像もしていなかった。
『申し訳ありません、夫の情報を』
足繁く騎士団を訪問したところで、相手にもされない。まるでそこにいないかのように完全に無視されて、彼女は絶望し、孤独だったかつての生活を思い出した。
『ああそういえば、わたくしは透明人間なのでしたわ』
夫に出会うまでは、こうやって周囲の人々に無視されることが当たり前の生活だった。まっすぐに自分を見つめてくれる夫とともにいたことで、あの頃の感覚を忘れてしまっていたのだろう。忘れてしまえるくらい、自分は幸せだったのだ。あの辛さを忘れてしまったから、罰として夫は自分の元に帰ってきてくれないのだろうか。
周囲の人々にいないものとして扱われるローズでは、屋敷を修繕するためのひとを雇うこともできない。手入れの行き届かない家屋は自然と荒れ果てていく。
そして季節が一巡りしても二巡りしても、やはり夫は帰ってこなかった。もう我慢できない。耐えかねたローズは、どんな代償をも払う覚悟をもって王国の深き森の番人を訪ねることにしたのである。
***
深き森には、悩める人々を教え導く森の番人が住んでいるという。この国に住む誰もが知っている有名なお伽噺が真実であることを、ローズは昔からよく知っていた。
まさか森の番人が謎の眠りにつき、年若い乙女が自分を迎えてくれることになったのは予想外だったが、それでも目的が達成されるのならば森の番人そのひとであろうが、リリィと名乗る代理人であろうが、ローズにとってはどちらでも構わなかった。自分のことを認識できるならば、それこそ相手が悪魔であっても良かったのだ。
「わたくしの夫は、騎士でございます。一年以上前、国境線の防衛任務のため、辺境の町へと向かいました。防衛そのものは成功したそうで、既に遠征に向かった皆さまは王都へ戻られております。けれど現場では鎮圧任務の際に、大規模な土砂崩れが発生したそうです。そこで複数人の騎士が被害に遭い、生死不明となったということでした」
「騎士団の方から、その後連絡は?」
「特にありません。と申しますか、わたくしは騎士団の皆さまに相手にされておりませんので。たとえ行方がわかったとしても、わたくしに情報が入ってくることはないでしょう」
「そんな、一体どうして?」
「……理不尽にも思えますが、仕方のないことでございます。ですから、森の番人さま。どうぞわたくしにご助力願えませんでしょうか?」
ローズの言葉にリリィは、困ったように足元の白狼を見つめている。そして「私は番人ではなく、あくまで代理人ですが」と言いつつ、小さくうなずいた。無視されるのではないか、話を聞いてもらえても断られるのではないかと心配していたローズは、ふっと肩の力を抜いた。
「ただし、探し出した結果、見たくもないものを見ることになるかもしれません。それでも、ご主人を捜索されますか?」
「覚悟はできております。どうぞお願いいたします」
もしかしたら生きているかもしれない。けれどももうとっくに死んでいるかもしれない。遺体が見つからなければ、どこかで生きているかもしれないという儚い希望を持ち続けることもできる。事実に直面してしまえば、ふわふわとした夢の中で生きることも許されない。
けれどこのまま愛するひとが隣にいない世界で生き続けることは、ローズにとっては拷問にも等しいことだった。だからこそ彼女は、白黒つけることを願ったのだ。
魔力の強いものであれば、空間を超えて魔術を行使できることもまた有名な話である。けれどそれは決して簡単にできることではないこともまたわかっていて、術の行使に媒介を求められたとき、ローズはてっきり代償を求められたのだと思い込んだ。震える声を理性で必死に押さえつける。
「何か、媒介になるようなものがあれば」
「媒介? それは、代償としてわたくしの血や肉が必要だということでしょうか?」
「そんな物騒なものは必要ありません! あなたとご主人の繋がりを示す具体的な物があると、術が成功しやすいのです。あくまで私は元聖女見習いの現代理人。願いを叶えるためには、慎重にならざるを得ません。それにしても森の番人さまは、願いの成就のためにそのような恐ろしい代償を求める方なのですか?」
「いえ、具体的な代償はわたくしも存じ上げません。わたくしのようなものにとっても、森の番人さまというのは、遠き方でいらっしゃいますから」
リリィとローズの会話に、ふんと白狼が不服そうに鼻を鳴らしている。その音を聞きながら、どうやら純粋に「媒介」を必要としているらしいと理解したローズは、小さな陶器の箱を差し出した。
「そういうことでしたら、こちらはいかがでございましょう? これは夫が、わたくしの大切な紅薔薇を砂糖漬けにしたものです。わたくしと夫を繋ぐ媒介として、これ以上相応しいものはないかと」
「まあ素敵。ご主人は甘いものがお好きだったのですね」
「さあ、どうでしょう? 夫はわたくしの紅薔薇をこの世で最も美しいと誉めておりましたが、甘味を好んでいたかは。ああ、術の行使の上でより新鮮なものの方が媒介としてふさわしいということであれば、屋敷の薔薇をすべて摘んでまいりましょう」
「薔薇の砂糖漬けで、魔術の行使は十分可能です。それに薔薇は大事にしてください。せっかくご主人を見つけることができても、大切に育てていた薔薇がすべてなくなってしまっていたらご主人も胸が痛むでしょうから」
「良いのですよ。夫が見つからなければ、いずれ枯れ果てるしかないのですもの」
ローズは荒れ果てた屋敷の中で、息も絶え絶えになっている紅薔薇の姿を思い出しながら、そっと自身の胸を両のてのひらで押さえた。