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雪深き知らずの森(3)

 何度目かのため息を吐くのと、馬車が急停車するのは同時だった。荷物ともども床に転げ落ちたリリィは、扉が開くと同時に無理矢理馬車の外に放り出される。リリィの腕をつかんでいたのは、夜を思い起こさせる美しい男だった。


 エスコートとはとても言えない乱暴さだ。そもそもこんなに早く知らずの森に着くことはない。一体、何のために自分を馬車からおろしたのか。とっさに逃げようとしたのが伝わったらしい。つかまれた手をそのままひねりあげられて、思わず悲鳴が出る。


「痛いっ、手を離して!」

「失礼、お気の毒だがこちらにも事情があるものでね」


 紳士的な言葉とは裏腹な乱暴な振る舞いにめまいがする。異母妹が用意した馬車だったから、自分をここまで送り届けてくれたのは伯爵家の使用人だと思っていた。彼らはリリィに親切ではなかったが、率先して弱者を喜んで虐げるような悪人でもなかったのだ。


 リリィのことを気の毒な子どもだと判断できるだけの理性と知性と常識を彼らは持ち合わせていた。けれど、彼らはただの雇われ人だ。リリィの父や継母、異母妹の機嫌を損ねれば紹介状ももらえないまま解雇されてしまうかもしれない。それゆえリリィは継母たちの前でだけ、わかりやすく使用人から虐げられていた。


 それはもはや、大根役者と言っていいほどとってつけたような演技だったが、継母も異母妹も彼らの振る舞いにおおむね満足しているようだった。おかげでリリィは神殿に入るまでの間も、何とか屋敷の中で生きながらえていたわけだ。


 だからリリイは家族からの敵意、使用人たちの消極的な好意、聖女見習いたちの憐れみ、民衆の好意のように、さまざまに色分けされた感情を知っている。


 けれど、リリィの腕をつかんでいる男が彼女に対して持つものはそのどれでもなかった。しいて言うならば、無関心。リリィと対応しているのは、あくまで何か必要にかられてのことなのだろう。使用人たちの棒読みな演技とは異なる視線の冷たさに、思わず鳥肌が立つ。男が羽織っている外套の下からは、神殿騎士の制服が覗いていた。


「私を処分しろと、大聖女さまからご命令があったのですか?」

「大聖女さまの御心を理解するには、君はまだ子どもなのだろう」


 どうやら目の前の男は、熱狂的な大聖女の信者らしい。神殿は王国中に信者を抱えているが、その中でも大聖女派と呼ばれる派閥が存在していることは有名だ。神殿は創造神を崇めているが、一部の信者たちは不確かな存在の神ではなく、目の前で奇跡の御業を披露する大聖女こそを至上の存在として尊んでいる。


 もちろん大聖女は神を崇めており、大聖女派の存在を喜ばしいものとして認めているわけではない。けれど彼女の存在が、神殿、そして揉め事を起こしやすい王国内部にとってなくてはならない求心力を持つこともまた疑いようのない事実であった。求心力を失いつつある王家よりもよほど人気が高いというのは、あながち嘘ではないようだ。


「大聖女さまが管理される神殿を追放された私は、確かに神殿の面汚し。そして私の存在は、大聖女さまの汚点として認識されてしまうのやもしれません。なるほど、その汚点を残さないようにするために、知らずの森行きが決定されたというわけですか」

「やれやれ。思い込みも甚だしいとはこのことだ」


 苛立たし気に騎士はリリィの手を離し、腰の剣を手に取った。鈍色に光る切っ先は不思議なほどリリィの目を引き付ける。あの鋭い刃に貫かれれば、すべてを終わりにできる。それは不思議なほど甘い誘惑だった。


 慌てる獲物を追いかけたいのか、騎士はいまだ動かない。彼にとっては児戯にも等しい狩りなのだろう。けれどリリィには逃げようという気力がどうしても湧き出てこなかった。どこにいても疎まれる。どこにも自分の居場所がない。それならば、今この瞬間に人生が終わったところで一体何の問題があるのだろう。


 良い騎士の振るう良い剣ならば、痛みも少なくて済むだろうか。どうしようもなく馬鹿なことを考えながらまぶたを閉じようとした時、がさがさと前方の茂みが揺れた。まさか自分を殺そうとしている騎士は、ひとりだけではなかったというのか。そこまで念入りに、リリィの死を望んでいただと? さすがに驚くリリィの前に現れたのは、さえざえとした月のような白い狼だった。



 ***



 空気が変わったのは一瞬だった。


 肌がひりひりと痛むような冷たさに思わず息を呑めば、身体の内側から凍りついてしまうよう。先ほどまでいた場所は土がむき出しであり、常緑樹は緑の葉を豊かに繁らせていた街道だったというのに、今はどこを見回しても辺り一面真っ白な銀世界。見通しがきかない鬱蒼とした木々もまた、真っ白な雪に覆われている。目がくらみそうなほどの白さ。


「……知らずの森に、移動したようだね」

「え?」


 騎士の言葉に、思わず声をあげてしまった。招かれなければ入ることなど叶わない知らずの森。馬車を止めていた途中の街道から、その知らずの森へ転移しただと? 転移もまた魅了と同等の、不可能に近い魔術だ。そんなことが起こりうるものだろうか?


 低いうなり声をあげながらじりじりと騎士ににじりよる白狼。騎士は油断なく剣を構えながら、挑発するように白狼に声をかける。その声はどこか楽しげだ。


「邪魔するつもりかい? まあ傍観者気取りでいるよりもずいぶんましだ。知らぬふりをするのは簡単だが、目をそらしていたところで物事は何も変わらないのはわかっているだろう? いい加減認める時が来た」


 もちろん白狼は答えない。にらみ合う一人と一匹は、唐突にぶつかり合った。白狼から鮮血が飛び散るかと思われたが、それよりも早く白狼が騎士を押し倒している。したたかに頭を打ったらしく悶絶する騎士を放置し、白狼はリリィの服の裾を引っ張った。


「助けてくれたのは嬉しいけれど、私のことはいいから早く逃げなさい」


 リリィの声に反応したのか、騎士が横たわったまま忌々し気に舌打ちする。そして何を血迷ったのか、リリィの思いつく限り最悪の組み合わせで術式を組み立て始めた。


「昔からそうだが、やはり気に喰わないな。気が変わった。よし、森ごと焼き尽くして差し上げよう」

「何を」

「まだ気が付いていないのかい。後ろを見てみるといい。君が抵抗しなければ、あの老人ごとこの森を焼き尽くすと言っているのだ」


 騎士が指さした場所、リリィのずっと後方には、小奇麗なお屋敷と揺り椅子でうたた寝をしている老人の姿があった。大声を出したところで聞こえない。よしんば気が付いたところで、あの様子では避難など覚束ないであろうことは明白だ。


「関係のないひとを巻き込むのですか?」

「巻き込んだのは君だ。それだけの力がありながら、抵抗しないのだから」

「言いがかりも甚だしいですこと」

「好きなように言ってくれて構わない。わざわざ白狼が助けてくれたというのに、みすみす逃亡の機会を投げ捨てたのは愚かな君自身だ。今さら正しい道を歩めるとは思わないが」

「馬鹿にしないでいただける?」


 白狼の主人はあの老人なのだろう。老人が心地よさそうにまどろんでいる姿を見て、とっさに守らなければいけないと思った。長く生きていれば、リリィには想像もできないような苦労もたくさん重ねてきていることだろう。そんなひとが、最期の時に苦しんで死ぬなど許されるはずがない。だからリリィはとっさに魔術を構築する。自身の後方を守りつつ、相手の攻撃を術者本人に跳ね返す防御結界の応用型だ。


 リリィは自分のために魔術をうまく使えない。けれど誰かを守るためなら、信じられないくらい大きな魔術だって成功させてみせる。そして自身の攻撃をすべて反転されたはずの騎士は悔しがる様子もなく、むしろどこか満足げな微笑みさえ浮かべていた。


「素晴らしい。見事な腕前だ。ぼんやりしていては、こちらが危ういな」

「避けることもせず、反射された攻撃はすべて中和。息切れひとつせず離れ業をやってのけるひとに言われたくはありません。まだ、戦うおつもりですか? それならば私も死ぬ気でいかせていただきます」


 対魔獣戦闘だと思えばいい。聖女の本分は誰かを守ること。目の前の騎士が大聖女の命を受けているのか、独断専行なのかはわからないが、自分の行動は神殿の、ひいては大聖女の教えを否定するものではない。


「君の死など望まないよ。もっと他に大切な願いがあるからね」

「何を世迷い事を。とっとと森から出ていきなさい。」


 いくら強い願いを持っているとはいえ、このような危険すぎる騎士を森に招くなんて森の番人はどうかしている。もう少し客人は選んでいただきたい。森の番人の意志を無視することになるのかもしれないが、老人と森を守ることが最優先だ。聖女の末席に連なる者としてもてる限りの力を攻撃呪文を唱えた。どんなに凶暴な魔獣ですら一撃で仕留めてきた。効果は折り紙付きだ。それなのにリリィが魔術を放つと同時に、騎士はあっさりとその姿を消してしまったのである。

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