めっきとガラス玉の願い(1)
「リリィ、久しぶりだね。俺だよ、アッシュだよ」
一年中雪に閉ざされているものの、天候には少しずつ違いがある知らずの森。先日まではまるで春の訪れを感じさせるほどに日差しがあったというのに、今日はちらちらと舞い落ちる雪とひどい曇天に気持ちもどこか下向きになりそうだ。窓からぼんやりと外を眺めていたリリィは、ノックもなく扉を開け放った訪問者を前に、あからさまに眉を寄せていた。
「再会を喜ぶどころか、挨拶の返事もなく家族を睨みつけるなんて感心しないな」
無言で扉を閉めようとしたが、男は扉の隙間から無理矢理身体をねじ込んでくる。引き下がる気はないらしい。へらへらとした態度で笑いかけてくる男を前に、リリィはますます不機嫌そうな表情になった。なぜならこの軽薄そのものな男は、かつてのリリィの婚約者であり、今は異母妹の婚約者である男爵令息だったのだから。
***
リリィは歴史だけは長い田舎伯爵家の生まれだ。伯爵家の子どもは、リリィと異母妹のみ。嫡男のいない家では、その家の娘が婿を取って伯爵家を継ぐことなる。歴史はあるが金のない伯爵家の入り婿に選ばれたのは、金はあるが歴史のない成金男爵家の三男坊。政治的な意味でちょうどつり合いのとれた婚約だった。
だがリリィは、自分が伯爵家の女当主になることはないだろうと予測していた。何せ父親である伯爵は異母妹を溺愛している。異母妹の母親である継母も、血の繋がらない娘と同居するよりも、実の娘と暮らすことを望むだろう。リリィを嫁に出すことにしておけば、政略結婚の駒にすることもできるし、持参金を用意せずにリリィを困らせることだってできる。リリィを飼い殺しにできる機会を継母が逃すとは思えなかった。
何より異母妹は、リリィの物であれば何でも欲しがるような娘だ。異母妹とリリィでは、髪色や瞳の色がまったく異なる。つまりは似合うドレスやアクセサリーだって異なるのだが、それでも異母妹は面白いようにリリィのすべてを取り上げていった。
そんな異母妹の前に、リリィの婚約者として見目麗しい男が婚約者として用意されたのだ。異母妹が欲しがらないはずがなかった。どうせなら最初から異母妹と婚約させておけばよかっただろうに、なぜかリリィの父親は男をリリィと婚約させた。結局のところ、異母妹の手練手管によって、あっという間に婚約者は異母妹のものになったのだけれど。
いくら元婚約者への恋心などないとはいえ、自分を虐げる家族の元で奴隷として生きたいとは思わない。貴族籍を抜けて神殿入りすることで、目の前の男との縁もすっぱり切れたと思っていたのに、どうしてこんなところで出会う羽目になるのだろうか。
どうせ今回も、ろくな相談もとい願いではないのだろう。肩をすくめたくなったが、それでもアッシュは知らずの森に辿り着くことができた、選ばれし客人だ。リリィは嫌々ながら、アッシュに対して「ようこそお越しくださいました」と言葉を絞り出したのだった。
***
「へえ、結構いいとこに住んでるじゃん。元気にしてた?」
あまりにも軽すぎる挨拶に脱力しそうになりながら、リリィは仕方なくアッシュを家の中に案内した。正直なところ、リリィはアッシュと話したくなどない。それでも客人は客人だ。現に聖獣である白狼も、アッシュに向かってうなり声をあげたりなどしていない。最初に出会った時に遭遇した不審者に対しては、警戒を露わにしていたから、白狼から見てもアッシュはやはり選ばれた客人なのだろう。
(どうしよう。まったくもって、アッシュの願いなんて聞きたくないわ)
顔が引きつりそうになりながらも、森の番人の代理人としてリリィは振舞わなければならない。揺り椅子に座ったままの番人さまと、こわばった表情のリリィのことをいぶかし気な顔つきで見る白狼の間に座る。テーブルの上には、一応お茶とお茶菓子を用意しておいた。
「リリィは優しいね。俺が来ても、お茶もお菓子も出ないんじゃないかと思っていたよ」
「名前で呼ぶのはやめていただけないでしょうか。婚約はとっくの昔に解消されていますし、私は伯爵家を出ておりますので義理の兄弟姉妹ですらありません」
「でも、平民になったのであれば姓はないんだろう? ああ、リリィ嬢と呼べば問題ないかな?」
「私は今現在、知らずの森の番人さまの代理を務めております。代理人と呼んでいただければ、それで結構です」
「リリィは冷たいなあ。俺は、君がいなくなってからずっと寂しかったのに。あ、このクッキー、リリィは昔から好きだったよね。ジャムが好きなのは今も変わらないんだ。安心したよ」
「ちょうど手元にあったのがそのお菓子だったというだけのことです」
(そういえば、アッシュは異母妹とお茶を飲んだ後、お茶会で出たお菓子をしょっちゅう私に下げ渡してくれていたわね。その行為は優しいと言えないことはないけれど、まあみじめではあるわよね。お菓子に罪はないし、貴重な食料だったからありがたくいただいてはいたけれど)
そしてアッシュの言葉を、とんだ戯言だと鼻で笑い飛ばした。「寂しい」だなんて、リリィが婚約者であったときも、婚約を解消してから神殿に行くまで屋敷に留まっていた間でも、一度だって聞いたことはなかったのだ。代理人という立場になったから、願い事を叶えるために身内であることを強調しているのだろうか。リリィは密かに鳥肌を立てながら、依頼人である彼に尋ねた。
「さて、知らずの森へいらっしゃったということは何か強い願いがあってのことだと思います。どのような願いかお伺いしても?」
「リリィ、ここに来れば願いは必ず叶うんだよね?」
「代理人とお呼びください」
「……わかったよ。代理人さん、願いは必ず叶うんだよね?」
「さあ。それはどうでしょう。あくまで私は代理人。叶えることができる内容にも、使うことができる魔術にも限りがございます。何より、世の中の決まりや仕組みを逸脱するような願いを叶えることは、どんな魔術師であろうとも不可能なのです」
リリィがきっぱりと断言すれば、アッシュは問題ないと微笑んだ。まるで自分の願いは叶えられて当然だと言わんばかりで、リリィは鼻白む。苛立ちを紅茶で一気に流し込むが、カップを戻す勢いが抑えられず、ソーサーに思い切りカップがぶつかった。ぴくりと白狼の耳が、気づかわし気にリリィの方へ向く。
「大丈夫、代理人さんになら絶対に叶えられる願いだから」
「さようでございますか。それならば、まずは願いをお教えくださいませ」
「俺と結婚して、一緒に伯爵家に戻ってくれないか?」
「……はあ?」
この男、頭が腐っているのではないだろうか。ゴミでも見るような目でアッシュを睨みつけたが、彼はうろたえるどころか来た時と同じ真剣味のない笑みを浮かべて手を差し伸べてきた。
「それ、いまだに大事に持っているんだね」
アッシュの手がリリィの腕輪に伸びてくることに気が付き、リリィは慌ててその手を背中に隠した。この腕輪はリリィにとって何よりも大切なものだ。何でも自分から取り上げる異母妹に対して、必死で渡すことを拒否した唯一の宝物。万が一にでも、無理矢理取り上げられたり、壊されたりしたくない。
「失礼ですが、一体何のためにこちらにお越しになったのでしょう?」
「だからさっきから言っているだろう? 俺はリリィとよりを戻したいと思って」
「……あなたが、何か強い願いを持ってこの森を訪れたのは事実なのでしょうね」
「それは信じてくれるんだね」
「信じているのはあなたではなく、この知らずの森です。この森は、とても真摯に客人たちに向き合っているわ。だからこそ、本当のことを知りたいの。あなたは私のことを好きでもなんでもないのに、どうして私を娶ろうとするの?」
リリィが問えば、わずかに目を見開いてアッシュは固まっていた。