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紫水晶の誓い(4)

「ドレスを返し損ねてしまいましたわ」

「そなたの服も戻ってこなかったではないか。まあ、おあいこというものであろう」


 紫水晶の指輪の記憶を見ていたはずのバイオレットがいきなり姿を消してしまったものの、白狼もリリィも、そしてヴィオラでさえも驚きはしなかった。何せ知らずの森へ来るよりも、自分がもともと居た場所へ帰る方が簡単なのだ。物事は自然にあるべき場所に戻ろうとする力が働くから、タイミングさえ合えばひとは自ら知らずの森を離れてしまう。


「こんな高級なドレスと、使い古しのワンピースを等価交換としてはいけないと思うのですが」

「凍死直前に与えられる乾いた服というのは、値千金だろう。そもそもこちらは願いを叶えた側だぞ」

「それでももらいすぎはよくないですから」

「わかったわかった、こやつを送り返す時に詫びをつければよかろうて」

「わふん」


 リリィと白狼が今後について相談すれば、満足そうにヴィオラが尻尾を振っていた。リリィにしてみれば「わふん」というご機嫌な鳴き声にしか聞えないのだが、白狼との間では会話は成立しているらしい。そういえばヴィオラの主人であるバイオレットもまた、ヴィオラの言葉を理解しているようだったではないか。「詫び」の付け方の相談も終わったらしく、ヴィオラは彼女の主人以上に意気揚々と知らずの森を飛び出して行った。


「とりあえず、今回のご依頼はこれでよさそうですね」

「……何をしている」

「奥の部屋は冷えますから、番人さまをこちらに戻そうと思いまして」


 今回は暖炉前で着替えをさせたこともあり、申し訳ないがリリィは番人を奥の部屋に移動させていた。揺り椅子に座った好々爺とて、やはり男性は男性だと判断したのだ。ちなみに白狼も自主的に移動していた。大変紳士的な聖獣なのである。


「重いのだから放っておけ。凍死などしないのだから」

「寒さは心を蝕みます。逆に温かいお風呂と食事は、身体に良いのですよ。ああ、せっかくですし、いっそお風呂にお入れしたら」

「やめておけ。溺死する」

「先ほど凍死はしないと」

「身体の動かない成人男性など、そなたには抱えられん。そなたが溺死する危険性の方が高い。仮死状態では垢も出ぬ。気にするだけ無駄というのもの」」

「そうですか。あ、それなら、聖獣さまもお風呂に」

「入らぬ」

「せっかくお風呂を準備しているというのに、私ひとりだけで使うなんてもったいないではありませんか」


 知らずの森の家は、お湯も火もふんだんに使うことができる。けれど神殿暮らしの長いリリィには倹約精神が身に染みている。ついつい、普段なら水を溜めるのにどれくらい時間がかかる、お湯を沸かすのにこれだけ燃料がかかるなんてことを考えてしまうわけだ。お風呂にも金銭観にも興味のないらしい白狼は、リリィの嘆きなどどこ吹く風と気ままに後ろ足で耳をかいていた。


「黒の魔女さまとの契約というのは、どういうものかご存じですか?」

「細かい条件は知らぬ。ただ知らずの森の番人と同様、会うことがまず難しい。そしてあやつを満足させる対価を用意するのが、また難儀でな」

「それは一体どのようなものなのでございましょう?」


 どうしてそんなことが聞きたいのか。疑問に思ったのか、小さく首を傾げながらそれでも白狼は丁寧に答えてくれた。


「甘く蕩ける初恋。暗く冷たい悲恋。赤く燃え滾る嫉妬。黒く凍りつく絶望。黒の魔女の心が動く恋の話が用意できれば、あの女は手を差し伸べただろう。国の行く末を憂う大臣の手助けはしないが、敵同士にもかかわらず恋に落ちてしまった姫騎士には手を貸す。もともとはそんな奴であったよ」

「なるほど、確かに恋の話が嫌いな女性はいませんものね」

「そなたもそうなのか?」


 どこか驚いたような声音で問われて、リリィは苦笑した。確かにリリィと異母妹、元婚約者との間で起きた出来事から、恋愛恐怖症に陥ったと思われても仕方がないだろう。もちろんリリィも、自分にはまともな結婚は難しいのだろうなと思うことはある。けれどだからと言って、見ず知らずの恋人たちの不幸を願うほど狭量ではない。むしろ、自分とは違う遠い世界に住む人々のことだからこそ、みんな幸せになってほしいと心から応援できるのだ。住む世界が違えば、嫉妬のしようもないのだから。


「森の番人さまや聖獣さまと、黒の魔女さまはどのようなご関係なのですか?」

「そんなことが気になるのか。……まあ、腐れ縁のようなものだな」

「さようでございますか」

「少し疲れた。しばらく休ませてもらおう」


 それ以上のことを話すつもりはないらしい。床に寝そべった白狼は目を閉じるとゆっくりと船をこぎ始めた。



 ***



 眠ってしまった白狼を残し、リリィはそっと森の番人の元へ向かった。肩掛けをかけておいたが、やはり手足がいつもより冷たいのが気にかかる。暖炉の側の特等席は白狼のものだが、できるだけその近くで温まらせてあげたほうがよいだろう。


 揺り椅子を魔術で補助しながら動かし、乱れた髪を整えておく。番人の長い髪を撫でつけていると、その髪の長さから黒の魔女のことをついつい連想してしまった。ゆっくりと深呼吸をしながら、リリィは先ほど見た光景を振り返ってみる。


 バイオレットが紫水晶の指輪の記憶を覗いていた時、術者であるリリィもまたその記憶を眺めていた。そしてリリィは確かに黒の魔女の姿を見た。柔らかくも厳かな彼女の声も聞いていたし、彼女が身にまとっている爽やかな、けれどどこか甘さのある香りもしっかり嗅いでいたのだ。リリィはぎゅっと一度だけ強く目をつぶる。


(あれは確かに大聖女さまだったわ)


 他人の空似だとか、大聖女のご先祖さまであるだとか、そんな可能性もないことはない。けれど、目に見える姿形だけでなく声だって同じ。大聖女のまとう不思議な香りに至っては、神殿の中で日々リリィが嗅いでいたものと完全に一致する。


 何せ、憧れの大聖女が身にまとう香りなのだ。神殿の育てる薬草園で手に入るものならば何としてでも再現したいと願うほどには、リリィは大聖女に憧れていた。もちろん、彼女がまとう香りは結局のところリリィが手にすることなどできなかったのだけれども。


(聖獣さまは、腐れ縁のようなものとおっしゃっていたけれど。教えてくださらないということは、やっぱり何か理由があるのでしょうね)


 ゆっくりと上下する白狼の腹をぼんやりと眺めていたせいか、リリィもまた眠気に襲われる。白狼の補助があったとはいえ、思った以上に力を使いすぎてしまったのかもしれない。ああ、だから白狼もまた眠ることで身体を回復させているのかと気が付き、白狼の横に身体を横たえた。


 柔らかく温かい毛皮にくっついていると、とても安心する。起こさないように気を付けていたはずなのに、いつの間にかリリィは白狼の身体にしがみついていた。優しいお日さまのような匂いに包まれる。


(どうしてかしら。昔、こんな風に誰かと一緒に眠ったような気がするわ)


 実母は優しかったが、非常に忙しい女性だった。リリィが眠りにつくとき、実母は書斎で書類整理をしているか、緊急の現場で魔術を行使しているかのどちらかだった。実母が健在の頃リリィの世話をしてくれた使用人たちは、主人と使用人との区別をきっちりと行うひとたちだったから、リリィと一緒に眠ってくれたことなどない。それなのに、リリィの隣で眠る白狼の温もりに懐かしさを覚えるのはなぜなのだろう。


 何もわからないまま、それでもこの知らずの森の家の中ではひとりぼっちではないという事実がなぜだか無性に嬉しくて、リリィはそのまま心地よいまどろみに身をゆだねた。

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