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紫水晶の誓い(3)

 このひとが前世のモラドと結婚したという女性なのだろうか。だが、あの忌々しい結婚相手はモラドが艶やかな美女と結婚したと言っていたはずだ。目の前の女性は確かに美しい。けれどその美しさは、咲き誇る華やかさよりも、非常に控えめで慎ましいものだった。バイオレットのような姫というよりも、誰かのために祈りを捧げる聖女のような静謐さ。どうにも、想像していたモラドの結婚相手とは食い違う。


 首を傾げつつ、バイオレットは目の前の光景に集中する。記憶というものは、景色だけでなく音や匂いまで残るものらしい。今映し出されている光景は、紫水晶の指輪の記憶だ。バイオレットが指輪を握りしめているせいか、あるいは身長差があるせいか、女性にバイオレット自身を抱きかかえられているような感じがしてどうにも落ち着かない。


 烏の濡れ羽色をした女性の髪が、ふわりとバイオレットの鼻先をくすぐった。知らずの森とは異なる、不思議な甘い香り。どこかで嗅いだような気がして、首を傾げる。とても身近なはずなのに、思い出せないこの香りは一体なんなのだろう。


『ヴィオラに引き続き、お前までここへ来るとは』

『彼女もここへ来ましたか。我々はあなたさまに頼りすぎなのでしょうね。申し訳ありません。ですが、自分にはもう黒の魔女さまにすがるより他に方法がなかったのです』

『やれやれ。この指輪は、決して万能の魔導具などではないのだけれど。過信しないでほしいわ』

『承知しております』


 女性からモラドに紫水晶の指輪(バイオレット)が渡される。指輪を両手でつかんだのだろう、けれどそれはバイオレットの小さな手をそっと包み込む形になっていて、彼女は思わず涙をこぼしそうになった。懐かしい剣だこのある硬く骨ばった大きな手。普段はあれだけ拒み突き放しているけれど、心から愛したひとなのだ。平静でなどいられない。


『時間がないの。急いで。馬は貸してあげる』

『ありがとうございます』


 魔女が風に溶けて姿を消すと同時に、モラドは青毛の馬に乗り走り出していた。モラドに何か泥のような何かがまとわりつきそうになり、一瞬にして消える。どうやら魔女が授けた指輪が何らかの呪いに対抗しているらしい。


 そこでバイオレットは気が付く。モラドに攻撃を仕掛けている男が、バイオレットを誘拐まがいの方法で娶ったあの男自身であることに。戦上手とはいえ、大国の王が小国の姫の護衛の始末に自ら出向くなんてありえない。何と言ってもあの男は、バイオレットのことなどこれっぽっちも愛していないのだから。


 信じられないことに、あれほど無理矢理手に入れたバイオレットのことを大国の王は酷く冷めた目で見ていた。もしもバイオレットが媚びを売っていたならば斬り殺されていたのではないだろうか。バイオレットが男を嫌えば嫌うほど、そしてモラドを恋慕えば慕うほど、男はどこか恍惚としているように見えたくらいだ。


 懐かない動物を懐かせるのが趣味なのかとも思っていたが、王がモラドを見る瞳の色に気が付き、鳥肌が立った。同じだ、あの男はモラドを求めるバイオレットを眺めるのと同じ瞳で、バイオレットの救出を誓うモラドを眺めている。バイオレットは確かにこの王に望まれて嫁いだが、この王が望んだのはバイオレットの身体でも心でもなかった。


『ああ、素晴らしい。愛する姫を取り戻すため、君は黒の魔女と契約まで行ったのか』

『武力に物を言わせ、姫殿下をさらっておきながらぬけぬけと』

『なるほど。君は信じているのだね。姫がまだ君のことを待っているのだと』

『姫殿下がお幸せならば、それで構わない。過去のことなど忘れて、前を向いて生きていかれれば良いのだ。だがもしも姫殿下が不幸なのだとすれば、姫との約束通りこの命を賭けてお助けする』

『それはそれは。ちなみに彼女は、君の手紙を今もずっと待っているよ。君のつづった彼女への愛の言葉は、わたしにとっての聖書だ。彼女の代わりに、繰り返し読んでいるとも』


 最高だと、男は手を叩いて笑った。それは嫌味や皮肉などではなく、心からの賞賛であるらしかった。


『真実の愛の、何と美しいことか』

『一体、何を』

『大国の王ともなれば、汚い感情ばかりを見る羽目になってね。愛などというものは、最も薄っぺらく信用できないものとなってしまう。それでも、わたしは夢見てしまうのだ。この世の中には、権力にも財力にも屈しない純粋な愛があるのではないかと。ようやっと探し求めた物を見つけられるらしい』

『ふざけるな』

『真剣な話さ。だからこそ君には死んでもらわなくてはならない。ふたりの愛が揺るぎないものであることを証明するために』


 大国の王の望みは、悪夢に等しかった。

 愛を信じられなくなった彼は完璧なる愛を求めて、バイオレットを娶ったのだ。彼女の愛を乞うためではない。強大無比な己を求めず、モラドへの想いに殉じるバイオレットが見たかったから。同様に、一国を敵に回しても、自国の民を見捨てても、ひとりの女性を救おうとするモラドの一途さを見たかったから。


 大国の王がいくつもの国を戦で併合し、たくさんの側室を抱えていたのは同じように相手を試していたからに他ならなかった。そして彼女たちは、国のために王を愛そうとした。それゆえに、男はさらに純粋な凶暴さで愛を渇望したのだ。


『……狂っている』

『王座にいれば、まともではいられんものさ』


 馬鹿な男だ。自分の手ですべてぶち壊しておきながら、手に入らないと泣きわめくなんて。本当にどうかしている。こんな男にかかわっていては、命がいくつあっても足りないだろう。この男は何の迷いもなくモラドを殺そうとしていることだけは理解できた。逃げてと叫ぶ間もなく、モラドに向かって矢の雨が降り注ぐ。


『悪く思うなよ。ああ、心配するな。彼女がお前のことを心から愛しているなら、すぐに天の国で再会できるさ』


 矢を避け、王が馬上で振るった魔剣をかわそうとしてモラドは進路を誤った。馬を進めたその先は雪庇せっぴであり、進むべき地面はなかったのである。崖下にモラドが落ちていく。紫水晶の指輪(バイオレット)のことをぎゅっと握りしめていた手が離されるのがわかった。


 ああ、ここでモラドは死ぬのか。真っ白な雪景色の中でバイオレットは悟る。自分が死んだのは、雪が消え、辺り一面が泥濘にまみれていた頃。やはりあの大国の王は、嘘を吐いていたのだ。バイオレットの愛しいひとは、決して彼女を裏切ってはいなかった。


 指輪がモラドの手から消えることが悲しくて。

 愛するひとを信じることができなかった自分が悔しくて。

 モラドの命が零れ落ちていくことがどうしても許せなくて。

 やっと取り戻した愛するひとの手の温もりを失いたくなくて。


 だから、バイオレットは飛び出した。この景色は紫水晶の見ていたもう手の届かない記憶だなんてことを忘れて。秘密の花園の池に落ちた時よりも、ずっと勢いよく。もう二度と大切な物を失わないために、必死で両手を伸ばす。


「モラド!」


 気を失ってしまいそうな衝撃と浮遊感。もはや悲鳴も上げられない。涙目になりながら、バイオレットはただ必死に愛しいひとに抱き着いていた。



 ***



「姫、バイオレット姫! お気を確かに!」


 ゆっくりとまぶたを開けば、目の前には焦った顔の今世のモラドがいた。慌てて左手を見れば、当然のような顔をして紫水晶の指輪は彼女の薬指におさまっている。さすが黒の魔女が授けた魔導具だと感心してしまった。心が通じ合ったなら、年齢や指の太さなどに関係なく指にはめられるようになっていたのだろう。ぶかぶかの指輪を見て、モラドが何を思ったのかを想像すると胸が痛んだ。


「……モラド、あなたのことを疑ってごめんなさいね」

「姫?」

「ねえ、もうビビって呼んでくれないの?」

「……まさか」


 今は誰にも許していないかつての愛称を舌の上で転がしてみる。久しぶりに味わう甘さにうっとりとしながら、モラドの胸に頬をすり寄せた。池の水で身体が濡れていたからだろうか、そっと外したマントをかけられた。いつの間にかモラドが嗚咽を漏らしている。


「わたくしとヴィオラは、先ほどまで知らずの森にいたのよ。なんて言っても、きっと信じてもらえないのでしょうね」


 肩をすくめて見せたバイオレットだったが、彼女の肩を抱きモラドが頭を振った。


「信じます。信じますとも。かつて自分は、黒の魔女さまに助けを求めたことがあるのです。あなたが知らずの森の番人さまにお会いしたと聞いて、どうして疑うことができましょうか」


 そうだったわねと、バイオレットは淡く微笑んだ。あの大国の王は度し難い変態だったが、黒の魔女もなかなか一筋縄ではいかない御仁だったなと少しばかり呆れつつ。


「どうして、教えてくれなかったの? 自分には前世の記憶があるって」

「申し訳ありません。配慮したつもりが逆に心配をおかけしてしまい……」


 もともと王族にしては丁寧な話し方をしていると思っていたが、とうとう今世のモラドの話し方はかつての護衛時代のものに戻ってしまっている。いっそのこと初めから昔のモラドの口調のままだったなら、もっと早めに彼にも前世の記憶があることに気が付いたのではないかとバイオレットは唇をとがらせた。


「ですが、自分と姫の立場を考えますと……」

「今は身分的に何の問題もないでしょう?」

「年齢をお考え下さい」

「多少の年齢差が何か問題でも?」

「大ありです。今世の姫はいまだ成人前。記憶があるかどうかわからない姫に、こちらの妄想とも執念ともわからぬ血なまぐさい話をするわけにも参りません。何より最初にお会いした頃は、自分はあからさまに姫に嫌われておりましたからね。あれ以上しつこくするわけにもいかないでしょう」


 バイオレットは頬を膨らませて不満の意を示してみせた。どうにも精神年齢よりも、現在の身体の実年齢に引っ張られているようで、たびたび行動が淑女らしくなくなってしまう。前世で死ぬ間際に「もう恋なんてしない」と誓った弊害でこんな歳の差が生まれてしまったのだろうか。どうせならモラドと同年代で出会いたかったものだ。


「今世では婚約者同士。ということは、既成事実さえ作ってしまえば」

「姫、もう少しの辛抱です。婚儀まで今しばらくお待ちくださいますよう」

「あらそう。それならわたくしは全力で誘惑するけれど、モラドは頑張って我慢すればいいんじゃない?」

「なんとご無体な」


 蠱惑的な微笑みを浮かべて、バイオレットがモラドに頬を寄せる。モラドがたじろいだところで、ヴィオラが天から降ってきた。すぽんとふたりの間に着地したヴィオラが、ご機嫌そうに尻尾を振る。口角を上げて、特大の笑顔をふたりにわふんと振りまいた。


『バイオレットが先に帰っちゃったから、聖獣さまがここに送ってくれた!』

「『置いていかれた。ひどい。ずるい』と騒いでいたでしょう。全部、こちらにも聞こえていたわよ」

『だって、バイオレットが置いていくから』

「ちゃんと元に戻れるから安心するようにって、聖獣さまも代理人さまも言っていたじゃない」

『だからって、ちっとも心配しないでモラドといちゃいちゃしようとするなんてずるい』

「ヴィオラがモラドと仲直りするようにって言っていたの、忘れたの?」

『それはそうだけれど!』

「……ヴィオラの言葉がわかる……」

『聖獣さまからのおわびだって。今世はいっぱいおしゃべりしようね!』

「ええ、そうね。みんなでたくさんお話しましょう」


 甘い雰囲気が霧散したことに胸を撫でおろすかつての護衛騎士と、若干むくれつつ笑い出す姫君。そしてふたりに挟まれて、今も昔もご機嫌そうなもふもふした犬。やっと取り戻した。今度こそみんなで幸せになれる。ヴィオラを抱っこしたバイオレットは、モラドにもたれかかりずっと探していた温もりを堪能した。

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