紫水晶の誓い(2)
「ありがとう。助かったわ」
「いいえ、こちらこそ姫君に十分なお召し物をご用意できず申し訳ありません。ドレスはこちらに吊るして乾かしておきますので、もうしばらくお待ちくださいませ」
「服やら何やら貸してもらっておきながら、文句なんて言わないわ。凍死せずに済んだだけ幸運だったのよ」
温かいココアを口に含みながらシンプルなワンピースを身に着けたバイオレットは、リリィと名乗った女性に礼を告げた。なんとこの場所は、彼女曰く「知らずの森」らしい。信じられないと言うのは簡単だが、池の中に落ちたはずのバイオレットとヴィオラが雪の降り積もる深い森の中に転移したこと自体がおかしいのだ。今さらここがお伽噺に出てくる「知らずの森」だと言われたところで、「まあそういうこともあるかもしれない」と思う程度には、達観する事態になってしまっている。
どこか他人事のようになるほどと納得しているバイオレットの横で、ヴィオラはタオルを放り出し、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。もともと寒さに強いヴィオラは、冬の池に落ちたくらいではへこたれない。その元気を分けてほしいものだと、再びココアをすすりながらバイオレットは小さく息を吐いた。
『ねえバイオレット、なんて幸運なの! 知らずの森の番人は、願いを叶えてくれるのよ。さあ、バイオレット、今すぐ願い事をしなくちゃ!』
「ヴィオラ、待ちなさい。助けてもらったあげく、その態度はどうかと思うの。まずはお礼を」
『わかってる! リリィさん、ありがとう! それでね、あたしたちのお願いを聞いてほしいの!』
抱き着かんばかりの勢いで訴え始めるヴィオラの様子に、リリィも圧倒されっぱなしだ。普段は賢く利口なヴィオラだが、気分が高揚したときの彼女の暴走っぷりはすごい。何せバイオレットですら引きずられるほどの勢いなのだ。見かねたらしい白狼が、リリィとヴィオラの間に割って入っている。バイオレットも慌ててヴィオラを回収した。
そもそもリリィは自分たちの命の恩人なのだ。もう少し敬意を払ってしかるべきだろう。わざとらしく咳ばらいをひとつして、バイオレットはヴィオラに注意する。
「ちょっと、ヴィオラ」
『バイオレットだって、願い事を叶えてほしいでしょ?』
「それはそうだけれど」
『じゃあ、ちゃんと言わなくちゃ。ちゃんと言わないと、言いたいことは伝わらないんだから』
「わかったわ。わかったから落ち着いて」
ヴィオラの背中を撫でるバイオレットの姿を見て、リリィは目を丸くしつつもどこか楽しそうだ。すっかり空っぽになってしまったヴィオラのホットミルクのお代わりを準備しながら、くすくすと笑いを堪えている。
「本当に仲がよろしいのですね」
「ええ。何せ生まれた時から一緒だったから。ヴィオラは、いつまで経っても姉のつもりなのよ。今ではすっかりわたしの方が大きくなってしまったというのに」
『あらあたしの方が、まだ走るのは早いでしょう? 今回だって、あたしが大声で助けを呼ばなかったら、ふたりして氷漬けになっていたかもしれないんだから』
「ありがとう。感謝しているわ。ちゃんとお礼だって言ったじゃない」
『それならばいいわ!』
ホットミルクに口をつけるヴィオラは、バイオレットの言葉に大変満足そうに口角を上げてみせた。
***
『あ、指輪! 指輪はどこ?』
「そんな急に騒がないの。ちゃんとここにあるわ」
辺りをひっくり返す勢いで指輪を探し始めたヴィオラに、バイオレットは呆れながら指輪を見せつける。
『よかったあ』
「そんなに大事な物なの? これ?」
『それはね、今世のモラドが一生懸命頑張って手に入れたものなの。前世のモラドにとっても大切なものだったんじゃないのかな?』
「詳しいことは、ヴィオラにもわからないのね」
『ごめんね。あたしは、バイオレットたちより早く虹の橋を渡ってしまったから。前世の記憶は、ちゃんと思い出せるようにしてもらったのだけれど、知らないことはどうにもできないんだ』
バイオレットはヴィオラの温もりを確かめるようにその身体を抱きしめる。前世の嫁入り先には、ヴィオラを連れていくことはできなかった。むしろ彼女のことを疎んだ嫁ぎ先は、ヴィオラを処分しようとしたくらいだ。バイオレットは密かに彼女のことを逃がしたけれど、それでもやはり長生きすることはできなかったらしい。胸を痛めるバイオレットをよそに、黒目がちの瞳を潤ませながらヴィオラはリリィに訴えかける。
『森の番人さま、お願いです。前世のモラドさまが、バイオレットを裏切っていなかったことを証明してはくださいませんか?』
「ちょっとヴィオラ、どういうつもり? どうせ願うなら婚約解消を願うとか……」
『それじゃあ、ダメなの。ちゃんとバイオレットには幸せになってもらわなくちゃ。それがあたしの願い事なのに!』
ヴィオラに懸命に訴えられて、けれどリリィは困惑するばかりだ。自分はあくまで代理人なのだけれど……とリリィもまた白狼に視線で訴えかける。見かねたらしい白狼が、ヴィオラをたしなめた。
「悪いがな、お前は知らずの森の番人に願いを叶えてもらう資格がない」
『どうして! それってもしかしてあたしが、バイオレットたちと違うから? つまり、そういうことなんでしょう? ひどい、差別だわ!』
「違う。そうではない。知らずの森では、誰もが平等だ。種族による差別などするものか。先日など、花の精の願いを叶えてやったところだとも」
『それじゃあ、どうしてあたしはダメなの?』
「お前は、黒の魔女に願いを叶えてもらうように頼んだのだろう? お前の魂にはすでに黒の魔女の術がかけられている。だから森の番人には、願いを叶えることはできぬのだ」
『そんなあ』
あからさまにしょんぼりとなるヴィオラを前に、白狼が困ったようにリリィとバイオレットの顔を交互に見上げてきた。バイオレットは知らなかったが、ヴィオラは既に何かしらの願いを叶えてもらうためにいろいろやってしまっているらしい。しかもその相手は、これまたお伽噺の住人である黒の魔女だというのだから眩暈がしてくる。
『それじゃあ、バイオレットは? バイオレットには願いを叶えてもらう権利は残っているの?』
名指しされたバイオレットは肩を跳ねさせると、白狼と無言のまま見つめ合う。さっさと願いを言えと白狼に言われているような気がして、バイオレットはリリィに向かっておずおずと願いを口にした。
「森の番人の代理人さま、どうか、わたくしに一体何が真実なのかを教えてはくださいませんか。わたくしはもう、何を、誰を信じればよいのかさえわからないのです」
「協力したいのはやまやまなのですけれど……。一体どうすればよいのか」
心底困ったと情けない表情になったリリィに、白狼はバイオレットから紫水晶の指輪を受け取るように指示を出してきた。
「その指輪を受け取るがいい。そして、指輪の記憶を映し出せばよいのだ」
「確かに物に宿る記憶を見る魔術は存在しますが。それだけですべての真実が明らかになるものでしょうか。そもそも呼び出せる記憶は、その物にとって最も鮮烈なものです。バイオレット姫にお見せすることが適切だとはとても思えません」
「すべての事実が詳らかにならなくてもよいのだ。重大な事柄が証明されれば、おそらく彼らの悩みは解決するだろう。もしもの時には、わたしが介入すればよい」
「聖獣さま、なんだかんだおっしゃいつつ、結局のところいつも以上に親切でいらっしゃいますね?」
「彼女の取引相手が黒の魔女であるならば、多少は尻拭いをせねばあるまい」
「承知しました。それではバイオレット姫、よろしいですか?」
小さくうなずき、バイオレットはリリィに紫水晶の指輪を差し出した。リリィの指先が指輪に触れた瞬間、バイオレットの目の前にはふたりの人影が現れる。ひとりは予想通り前世のモラド、そしてもうひとりはどこか夜を思い出させる美女だった。