藍のカップを満たすもの(4)
「旦那さまに言いたいことがちゃんと言えているといいのですが」
「まあ、大丈夫ではないか。話が弾まなければ、美味しいお茶を味わっていればよい」
「話が弾まないからといってお茶ばかり飲んでいたら、お腹がちゃぷちゃぷになってしまいますよ」
客人を見送ったリリィはテーブルを片付けると、再び自分たちのためにお茶会の準備を始めた。先ほどまでは悩める客人をもてなすためのお茶会。これから開くのは、客人を送り出した自分たちへの慰労のためのお茶会だ。なんとも贅沢なことである。
店内の飲食は数か月待ち、持ち帰りの商品であっても行列に並んでやっと買えるかどうかという王都でも評判のパティスリーのお菓子。神殿にいたリリィもその名を聞いたことがあったが、まさか実際に食べることができる日が来るなんて夢にも思わなかった。
ちなみに一部の聖女たちは、治癒の礼として上級貴族たちから融通してもらっているという噂もあるが、それを咎めるつもりはリリィにはない。ただリリィはそういったお礼を期待するべくもない聖女たち――つまりは、平民たちの治療にあたっている他の聖女たち――が報われる機会があるといいなあと密かに願っている。
真面目に働く仲間たちが手に入れることはできない甘味という贅沢を、若干の罪悪感を覚えながらリリィはそっと味わう。口の中でとろける甘さとほろ苦さは、まさしく罪の味なのだろう。取り分けられるのを大人しく待っていた白狼もよだれを垂らしていたらしく、テーブルクロスがしっとりと濡れていた。
「聖獣さまは、本当に甘い物が好きですね」
「甘い物が好きなのではない。旨い物が好きなのだ。そもそも、不味い物を好んで食べる者はいないだろう?」
「そうですねえ。私は、お腹が膨れるのであれば不味いものでも喜んで食べておりましたから。すごく美味しい物を指先程度だけと、すごく不味い物をお腹いっぱいだと、ちょっと悩んでしまうかもしれません」
そういえば異母妹と元婚約者のお茶会があると、元婚約者は人目を忍んでお茶会で出たお菓子をリリィに届けてくれていた。それを知った異母妹にお菓子を袋ごと踏まれたこともあるけれど、どんなに粉々でもお菓子はお菓子。泥まみれになったわけでもなし、袋に入ったままのお菓子は不格好になっても美味しかったものだ。元婚約者に対する感情などほとんど存在しないが、お菓子を届けてくれていたことだけは感謝してもいいのかもしれないとリリィは思っている。
「……もっと食べろ」
「え、聖獣さまの分ですよ?」
「わたしの分は、また後で届けてもらう。好きなのだろう、食べられるだけ食べるがいい」
「本当に良いのですか?」
「早くしろ」
でも、とリリィは思う。聖獣さまったら涙目になっていらっしゃるなんて、そんなにこのお菓子を召し上がりたかったのかしらんと。
「やはりいただくわけには参りません。聖獣さまの好物を取り上げるなど、無礼千万ではありませんか」
「くどい。このわたしが良いと言っているのだ」
「それでは、半分こいたしましょう。それならば、よろしいですか?」
互いに譲ろうとしない状況に、リリィが微妙な落としどころを提案した。菓子の半分をフォークにさし、そっと白狼に差し出す。
「う、うむ、いや……」
「ほら、早く食べてください。フォークから落っこちてしまいます」
「む、むう。仕方ないな……」
「もしかして……」
「な、なんだ! わたしは別に……」
「聖獣さま、フォークが苦手なのですか? 確かに敏感な方は、金属が口の中にあたると変な味がするとおっしゃいますものね。はい、あーん」
そっとフォークの先のお菓子を指先でつまみ、そのまま白狼の口元へ運んだ。犬扱いする形になってもっと良くなかったのかもしれないと思ったが、白狼は黙ってリリィの指先をなめつつ菓子を頬張った。
「……」
「どうですか?」
「……甘いな」
「そうですね。見た目も美しいですが、やはりお菓子は口の中に入れてこそ感動もひとしお。感想を書き留めておいて、今度は別の種類のお菓子も買ってみたいですね」
「好みだったものは、きちんと書き残すように」
先ほど「また後から届けてもらう」と聞こえたが、果たして神殿は王都の有名パティスリーへのコネもあるのだろうか?
それにしても、お客人の悩みは恋のお悩みがどうにも多いようだ。まあ、リリィとしても恋の話は嫌いではない。何より政治的な悩みを持ち込まれたところで、解決のための糸口を探し出すことは難しいだろう。婚約者をあっさり異母妹に奪われたリリィごときにできる恋のアドバイスもほとんどないが。
もしかしたら森の番人が眠りについている今は、代理人であるリリィの手に負えない悩みを持つ人々は、森に入ることができないのかもしれない。適材適所を森が判断してくれているのだとしたら、なんともありがたいことだ。若干の疑問を抱きつつも、リリィは美味しいお菓子とお茶の時間を満喫する。
***
「それにしても、神殿の野草茶をここで飲むことを嫌だとは思わないのか? 神殿は、そなたを偽聖女として追放した大聖女のいるところだろう」
「大聖女さまの悪口は、いくら聖獣さまとて許しませんよ」
「まったく、どうしてそうも盲目的に信頼できるのだ。たかが大聖女ではないか」
白狼は、野草茶の匂いを嗅ぐとあからさまに嫌そうな顔をした。そして自分用に、コーヒーを入れてくれとリリィにせっつく。出されたものは何でも食べられるものの、意外と飲み物や食べ物にこだわりがあるらしいことにリリィは一緒に生活を始めてからすぐに気が付いた。
リリィとてかつては貴族令嬢として生活していた身の上だ。それなりの茶会や夜会に出席したことだってある。そこで出会ったひとたちも、聖獣ほどの知識は持ち得ていなかった。聖獣と共に暮らしていた森の番人の不思議さは、日を追うごとに深まるばかりだ。眠りについている森の番人は一体どんなひとだったのだろう。
「大聖女さまは、私の命の恩人です。そんな方に神殿を追放されたことは、悲しくないと言えば嘘になります。けれどそこを恨むのではなく、あの日差し伸べられた手の温かさを大事にして生きていきたいのです」
領地の騎士たちが倒れ、魔術師だった母も敗れ、治癒の才能を持っていた幼いリリィもまた意識を失いかけた。あの時領地に結界を張り、魔獣を浄化し、人々の傷を癒してくれた恩人がいなければ、今こうやってのんびりとお茶会をすることもできなかったのだ。
あれは本当に美しい光景だった。荒れ果てた大地に光が降り注ぐと、魔獣たちが浄化され、地に緑が満ちる。倒れた人々の傷が塞がり、苦悶の表情は安らいだものへと変わっていった。命を賭して戦った母が、生前の美しい姿のままで見送ることができたことをリリィは心から感謝している。自分が見た母の最後の姿があの無残なもののままだったなら、きっとリリィはこうやって生きていくことはできなかったに違いない。
死んでしまっては意味がないと怒る領民もいないではなかったが、それでもリリィは恩人がどれだけの力を振り絞ってリリィの故郷を守ってくれたのか、それを日々実感している。聖女の末席に名を連ねていたからこそ理解できることもあるのだ。感謝こそすれ、恨めるはずがない。だが、そんなリリィの言葉は白狼にとっては吹けば飛ぶほどに薄っぺらいものに思えたようだ。
「人間の感覚というのはあてにならぬぞ。明るい場所と暗い場所、どちらの場所で見るかというだけで、『青と黒』のドレスと『白と金』のドレスを見間違えることもある。大聖女を恩人と崇めていると、足元をすくわれるぞ」
「白と黒を見間違えるなんて、そんな馬鹿な。それに何より、恩人の顔を見間違えるほど、私はお馬鹿さんではないつもりなのですが」
「だといいがな」
話はそれまでだと言うように白狼は大きなあくびをひとつすると、暖炉のそばで昼寝を始めた。
「あんまり近づきすぎてはいけませんよ。毛皮が焦げてしまいます」
「そなたはわたしを一体何だと思っている」
「暖炉に近づきすぎて、煙が出てしまった聖獣さまです」
「くだらぬ」
暖炉に薪を新しくくべながら、リリィはそっと窓の外をのぞく。さんさんと光が差し込む窓辺の温かさとは裏腹に、知らずの森は今日も白い雪に閉ざされている。