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藍のカップを満たすもの(3)

「あら、旦那さま。お帰りなさい。お早いお戻りですね」

「よかった……。もう実家に戻ってしまったかと心配していたんだ」

「まあ、スカイさまがそんな情けないお顔をするなんて、結婚してほしいと泣きついてきた時以来のことですわね」


 ブルーベルの顔を見るなり床にへたり込んだ夫を見て、ブルーベルはくすくすと小さく笑ってみせた。久しぶりに「旦那さま」ではなく、「スカイさま」と名前で呼ばれたスカイは、喜ぶどころか顔を真っ青にする。


「せっかくですから、お茶をご一緒しませんこと? 今日は久しぶりに気分が良くて。込み入った話もできそうな気がいたしますの」

「ブルーベル? 込み入った話とは一体なんのことだい?」

「嫌ですわ。最近では毎日、王都で評判のパティスリーに出かけていらっしゃるとか。そこの若奥さまと懇ろだと周囲では大層評判ですのよ?」

「なっ、何を!」

「堂々と妾を囲うのであれば、ようやく平民の石女に見切りをつけて、それなりの名家のご令嬢との再婚をすることにしたのかもしれないなんて噂も耳にする始末でして。そろそろ、出ていく日時の相談をさせていただきたいと思って、お待ちしておりましたの。もうすぐ結婚記念日ですし、離縁をするのであれば結婚記念日を迎える前に手続きを行ったほうが良いのでしょうね。ちょうど良い区切りですもの」


 口から泡を吹いて倒れてしまいそうな夫を前にして、ブルーベルは今までずっと我慢していたことの馬鹿馬鹿しさに、大声で笑い出したい気分だった。なんだ、簡単なことではないか。もっと早く、こうやって素直に話をしておけばよかった。ただそれだけだったのだ。


「ブルーベルは、僕を疑うのか。いや、そんな突拍子もない噂を君が信じるなんて。まさか君には誰か他に好きな男が?」

「あらあら、言うに事欠いて浮気を疑われるとは。それならば心配はご無用ですわ。神殿で宣誓してもかまいませんわよ」


 神の名の元に自らの潔白を証明する――偽りを述べればたちまち天罰を受ける――神殿での儀式を提案すれば、ブルーベルの夫は必死で首を横に振った。


「じゃあ、どうして出ていくなんて言うんだ。君は僕のことを嫌いになってしまったのか?」

「嫌いになるも何も、私のことを先に嫌いになったのはあなたではありませんか。二言目には『忙しい』ばかり。何を聞いても、『君の好きなようにしてくれてかまわないよ』だなんて、馬鹿にするのもいい加減にしていただきたいわ」


 ブルーベルの言葉に、スカイはどんどんしょげていく。妻を放置してよその女にうつつを抜かす夫の姿などどこにもなかった。



 ***



 どうしようもなくしょんぼりとしながら、スカイは言葉を絞り出していた。


「例のパティスリーには、とある条件の下で出資をしていたんだ」

「その条件をお伺いしても?」

「君が手放した嫁入り道具の茶器を探し、少しでも可能性があるものは入手するということ。それだけだ。もちろん、出資するからにはちゃんと繁盛してほしいから定期的に打ち合わせには行っていたけれど、そんな尾鰭をつけられているとはね」


 馬鹿馬鹿しいと頭を振る姿に、なるほどとブルーベルは相槌をうった。


「それで、今日はどういう理由で怒鳴り合いをしていたのです? 女性を巡る痴話喧嘩でないのなら、詳細を聞かせていただけるのでしょう?」

「ようやく見つけた茶器を、手違いで別の客に売ってしまったらしい。それも王都に運んでくる前に、国境の街付近で。取り返そうにも時間が経ちすぎている。頭を抱えたよ」

「まあ、そんなことが」

「それにしてもやはり、店にいたのは君か。あとから君が店に来たらしいと聞いて、肝が冷えたよ。誤解されたまま、家に帰ってきてくれないんじゃないかと思って、仕事など手につかなかった」

「だからこんなに早いお戻りだったのですね」


 ふっと自嘲気味にスカイが口元を歪めた。


「僕の家が傾いたときに、君は大切にしていた花嫁道具を手放してまで僕たちを支えてくれた。だから、この家を手放さずに済んだんだ。本当に感謝している」

「そんなこともありましたわね。借金を返し終わったから、私はもう用無しだと思っていたのですけれど」

「そんなわけないじゃないか。そもそも僕の祖父が、君のおじいさまにあんな約束を持ちかけたのは、僕が昔から君のことを好きだったからだ。祖父は、孫の初恋を応援してくれていたってわけさ。父は父で、家を復興させることができるのなら、結婚相手は自由に選んでもいいと言ってくれた。だから僕は死に物狂いで働いたんだ」

「でもあなたは、そんなことちっとも」

「いいや、僕はかなりしつこく君を口説いたはずだよ。裕福だったときも、落ちぶれていたときもね。最終的にかなり切羽詰まった泣き落としになったけれど、君が僕以外の男の元に嫁ぐんじゃないかと思ったら泣けて泣けてしょうがなかったね。あの涙は心からの涙だったよ」


 それなのにと、スカイは続ける。


「いつからか、君とはうまく会話ができなくなった。僕は子どもが欲しくて君と結婚したんじゃないのに」

「それは、貴族の務めというものはそういうものですし……」

「いくら僕が君だけがいればそれでいい、幸せだと言ったところで、周囲は納得しなかっただろう。僕が種無しだと話を持っていこうかとも思ったけれど、本当に種無しか確かめろと言われれば面倒くさいことになる。だから、僕は神にすがることにした」

「神に、すがる?」

「神殿で喜捨をして、お告げをいただいたんだ。その時に言われたのは、君の嫁入り道具だった茶器が幸福の鍵になるというものだった」


 なるほど、それでここまで必死に手放した茶器にこだわっていたのかとブルーベルはようやく納得した。


「あのティーカップとソーサーのセットは、白磁に藍の唐草模様が美しかったのをよく覚えているよ。とある国では子孫繁栄を願う模様だと聞いていたが、それを手放した報いがこんな形でわが身に降りかかろうとは」

「ティーセットたちは嫁入り道具だったのですもの。花嫁が不幸になることなど、望まなかったはずですわ、きっと」


 あの茶器が高値で売れたおかげで首の皮が繋がったのは事実なのだ。もしもあの時に戻れたとしても、やはりブルーベルは手放すことに同意しただろう。


「スカイさま、しゃべり疲れたのではありませんか。私も少々喉が渇いてしまいました。お茶の時間といたしませんこと?」


 スカイの謝罪を受け入れることにしたブルーベルは、使用人にお茶の準備をお願いすることにした。用意したお茶はもちろんブルーベルにとって馴染みがあり、現在唯一受け付けることのできる野草茶。そして使う茶器は、知らずの森の番人代理と名乗るリリィから譲ってもらったものだ。


 かつて輿入れ直後に手放した嫁入り道具。お気に入りだったそのティーカップに、懐かしい香りの野草茶が注がれているのを見て、スカイがぽかんと口を開けて固まった。


「これは、まさか」

「今日偶然出会った女性に譲っていただきましたの」

「そんなことがあるのか?」

「一般的にこんな偶然があるのかないのかはともかくとして、私が実際にこの品物を手に入れたことは紛れもない事実です」


 ぐすぐすと鼻をすすりながらお茶を口にするスカイの姿は、本当に情けない。けれどこういうひとだったから、ブルーベルは隣にいて支えてあげたいと思ったのだ。ひとまえであんなに堂々としているくせに、実は結構涙もろくてヘタレな可愛い旦那さまは、今も昔も変わらずブルーベルのものだったようだ。


「手放してしまった嫁入り道具が戻ってきたのだとしたら、今度こそ子宝に恵まれるのかもしれないな。いや、僕はブルーベルがそばにいてくれたらもちろんそれだけで十分幸せなんだ。それでも、君によく似た子どもなら男の子でも女の子でも、きっととても可愛らしいだろうなあと思ってね」


 慌てたように必死に言いつくろう夫の姿に、ブルーベルは口元を緩ませる。彼はブルーベルにプレッシャーを与えないように、気を遣ってくれているのだろう。だからブルーベルは内緒話をするように夫の耳にささやいた。


「お医者さまを呼んでくださる? 確かめていただきたいことがあるのですけれど」


 屋敷の中がお祭り騒ぎになるまであと少し。


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