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藍のカップを満たすもの(2)

 どうしたことか、お菓子を持ってパティスリーの扉を出たブルーベルは、見知らぬ女性の家の中に入り込んでいた。ちょうどお茶の準備をしていたらしい女性は、ティーポットを持ったままこちらを見て目を丸くしている。


「え? 嘘、どうして?」


 まったくもって意味がわからない。慌てて後ろを振り返れば、先ほどまでいたはずのパティスリーの扉はすっかり消え失せていた。手に持ったままのお菓子の包みが、ブルーベルが先ほどまでパティスリーにいたという唯一の証拠だ。心細さのあまりぎゅっと荷物を握りしめた。


 じっといぶかしむように、女性の足元にいた白い大きな犬がこちらを見つめてくる。犬? 本当にそうだろうか。あんな大きな犬種は見たことがない。ふわもこな毛皮を触らずとも感じられる筋肉質かつしなやかな体躯、猟犬よりも鋭い眼光。それは狼なのではなかろうか。そして犬であれ狼であれ、不審者としてとびかかられてしまえばひとたまりもない。必死で自分に害意はなかったことを伝えようとするもの、うまく口が回らない。だが女性は表情を一転して柔らかいものにすると、大丈夫ですよと安心させるように小さくうなずいた。


「あの、違うんです! 決して怪しいものでは!」

「ええ、そうでしょうとも。お客さまの様子を見れば、予期せぬ訪問だということはすぐにわかります。この家に迷い込む方は、意外と多いんですよ。自ら望んでここへいらっしゃるお客さまと同じくらいに」


 なんともおおらかかな回答に、つい首を傾げてしまった。部屋に迷い込むひとがたくさんやってくるなんて、普通に考えてありえない。けれど今まさに不思議な状況に陥ってしまっているがゆえに、ブルーベルは「そんなはずはない」だなんて言えなくなってしまっている。


「ええとせっかくですし、しばらく休んでいかれますか?」

「あの、出口はどちらに?」

「信じてもらえるかどうかわかりませんが、帰るべき時が来たら、自然と帰れるようになるものなのです」

「そんなことがあるわけ」

「あるのですよ。ここは、知らずの森なのですから」


 それは、確かにブルーベルにとってもなじみ深い名前だった。


 ――どうしても叶えたい願い事があるならば、『知らずの森』へ行ってごらんなさい。強い想いがあるならば、必ず番人に会えるから。けれど生半可な気持ちで行ってはいけませんよ。そんな愚かな人間は、願いを叶えるどころか森から出られなくなってしまうのですから――


 それは古くから王国に伝わるお伽噺。眠りにつく前、祖母や母が幼子に語って聞かせる寝物語が真実だったなんて、一体誰が予想しえただろう。それならばこの自分よりもずいぶんと若い、年端も行かなそうな女性が例の番人とでも言うのだろうか。


「それでは、ご迷惑でなければ」

「もちろんですとも」


 リリィと名乗った女性は、どうせなら一緒にお茶にしましょうとブルーベルに椅子をすすめてくれた。



 ***



「まったく、本当にやってられないのです」


 ふんすふんすと鼻息を荒くしながら、ブルーベルは思い切り愚痴を口にしていた。友人どころか知人ですらないリリィとのお茶の時間は、想像していたよりも随分と楽しいものになっている。


 もともとブルーベルは平民の出なのだ。持って回った迂遠な言い回しなど好きにはなれない。けれど貴族同士のやりとりというのは、直接的なやりとりは無粋とされてしまう。意味が理解できずに真意を問えば、不作法だと笑いものにされるのがオチだ。


 淑女らしさを手探りになるうちに、ブルーベルはどんどん自分というものを見失っていた。こんな風に気持ちを相手にはっきりと伝えるなんていつぶりだろう。いかに自分が狭い世界の中で卑屈になっていたことか。不思議なほど、目が覚める想いだった。


 それを思い出したのは、森の番人の代理人を名乗ったリリィという女性が、貴族らしくない素朴なおもてなしをしてくれたからなのだろう。紅茶は嫌いではないが、産地や茶葉のことを考えながら飲むのは得意ではないし、話題の方が実際の味よりも重視されるお茶菓子も苦手だ。実際、先ほどパティスリーで購入した菓子も、公爵夫人たちに馬鹿にされないようにするために買ってみたもので、ブルーベル自身はそこまで食べたいと思っていたわけではないのだ。何より。


「最近では、朝起き上がることすら億劫で。一日中、うつらうつらしていることも増えているような状態なんです。精神的に健康だとはとてもいえませんので、いっそのこと実家に帰ろうかなんて思っているのですけれど」

「具合が悪いのですか?」

「熱はないのですけれど食欲もないですし、吐き気や頭痛も止まらなくて。薬湯を煎じてもらっても、その臭いでまた吐き気を催してしまう始末でして……」


 日々の食事さえ喉を通らないことも多いのに、甘ったるいお菓子など食べられたものではない。最近では飲み物を飲んでも吐くような状態だったのだ。この部屋で出されるお茶は、実家でもたびたび飲んでいたもので、珍しく美味しく飲むことができている。赤ちゃんからお年寄りまで、妊婦さんでも大丈夫がうりの神殿特製の野草茶だったはずだ。


 よほど敬虔な信者でも、貴族であれば茶会に出すはずのない代物。それが今のブルーベルには心底ありがたかった。そして、実家に帰ろうと思っていることを口に出せたのもまたこのお茶……というか、お茶の注がれているティーカップのおかげなのだろう。一度自分から手放したはずの嫁入り道具が、こんな風に誰かの元で大切にされている。それを見て、自分の生きる道はひとつではないはずだと思えたのだから。


「ブルーベルさん、あなたもしかしたら……」


 ふむとリリィが考え込んだのを見て、ブルーベルは少しばかり不安になった。ふんふんと何かを気にしたように白い狼に嗅ぎまわられて、まさか重篤な病気なのではないかと血の気が引く。何せつい先日、主人の病気を発見した賢い犬の話を新聞で読んだばかりだったのだ。


 何かを報告するように白い狼がリリィの膝に前足を乗せる。そしてさらにひとしきり悩んでから、リリィは見たことのない果物を差し出してきた。紫がかった硬い実の中には、甘酸っぱい黄色いゼリーのようなものが黒い種とともに入っている。


「実はおすすめの果物があるのですけれど、召し上がってみますか? 南方の知人が譲ってくれたものなのですが、お口にあうかもしれません」

「まあ、なんて美味しいのかしら。この酸味と甘みのバランスがたまりません。久しぶりに食欲がわきました」

「そう、ですか。それならば、ブルーベルさんがお買い求めになったというお菓子と、こちらの果物を交換いたしませんか?」


 突然の申し出にブルーベルは目を丸くした。くすくすとリリィが笑う。


「聖獣さま……こちらの白狼さまは、甘いものがお好きなのです。時計草の実は酸味が強すぎるそうで。良かったら交換していただけると助かります。それにこの実は、妊婦さんの身体にも良いものですので」


 その言葉にブルーベルは返事ができなかった。ずっと欲しいと思っていた子どもが、別れを決意した今、自分のお腹の中にいるだなんて。お腹に手を当てて、じっと考え込んだブルーベルの姿に、リリィは何か勘違いをしたらしい。心配そうに声をかけられて、ブルーベルははっきりと決意を口にする。


「もしもご実家に帰られた後、離縁なさることになったとしたら……」

「それはもちろん、産みますとも。夫に認知してもらえなくても、養育費をもらうことなどできなくても、我が子を見捨てる母がいるものですか! それに、もしもあの不誠実な夫がこの子を私から取り上げようとするならば、断固として戦いますわ」


 子どもを産むことに迷いなどなかった。むざむざと夫に奪われるつもりなどなかったし、必要ならば神殿に駆け込むこともやぶさかでない。


「それではあなたの旅立ちのお祝いに、このティーカップのセットを差し上げましょう」

「よろしいのですか! これでは私はもらってばかりのような」

「ここでお会いしたのも何かのご縁、どうぞお持ち帰りくださいませ。先ほどからのご様子からして何か特別な思い出があるお品なのでしょう? 聖獣さまもそれで構わないとおっしゃっています」


 ふんと鼻を鳴らし、肯定を示すように白狼が二、三度、尻尾をおざなりに振った。茶器を包んでくると出ていったリリィを待ちながら、ブルーベルは大きく深呼吸をした。いつ離縁されるかと思っていた時には苦しくて仕方がなかったが、自分から離縁してしまおうと決めると不思議なほど気持ちが晴れやかになる。


 今までの欝々とした心持ちは、誰かに自分の運命をゆだねていたからこその不安感、不快感だったのだろう。


「この子のために、強くならなくては」


 女は母になると変わると聞くが、それは確かに事実であったらしい。まだ膨らみさえ感じられぬ薄い腹が、愛しくてたまらない。嫁入り道具が離縁を決めた自分に戻ってきたのがおかしくて、つい吹き出してしまう。


「せっかくだから、スカイさまとお茶をしながら話を進めましょうかね」


 夫のことを名前で呼んだのはいつぶりだっただろうか。無駄にしてしまった数年間の日々をほろ苦く思い出しながら、それでも前に進むためにブルーベルは自宅に戻ることを決めたのだった。

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