張飛は敵将を説得したい!
西暦211年、劉備は勢力拡大の為に蜀を攻めんと、大将を黄忠、軍師を龐統士元に任じ二万の兵力で進軍することとなった。
張飛は心安い龐統が出陣するということで、出陣前に酒宴を開いた。
酒好きな二人、酒が回ってくると互いに大声を発し、張飛は故郷燕の歌を、龐統は育った襄陽の歌を歌って手を叩いていた。
「ええい、三娘! 酒が足りん、これじゃ士元の機嫌が悪くなるじゃねーか!」
と奥に控える妻を叱責すると、妻の三娘は口を尖らせながら酒と、膾を持ってきて、龐統の前に並べながら張飛に体当たりをした。
「お、おい。あぶねぇ、酒がこぼれるじゃねーか」
「なによ、龐統先生が来たからって偉そうに。ごめんなさいね、先生。うちの人、うるさいでしょう?」
それに龐統はにこやかに答える。
「何をおっしゃいます、奥方。私は張益徳の飲み友達ですからな。先生はナシです。こうして俺、お前で飲み合えてとても楽しいですぞ~」
と体を揺すりながら答えるので、張飛の妻の三娘も、夫と似ているこの人に思わず微笑む。
「では酒席に合うような歌をひとつご披露しましょう」
と三娘が言うと、張飛も龐統も肩を組んで上機嫌である。
「よ! 三娘ちゃん!」
「夏侯の姫の都の歌ですか。これはこれは旅立の餞にはちょうど良いですな」
そこで三娘は琴を使用人に待ってこさせ、軽く咳払いをして歌い始める。
「豈曰無衣、與子同袍、
王于興師、脩我戈矛、與子同仇
豈曰無衣、與子同襗、
王于興師、脩我矛戟、與子偕作
豈曰無衣、與子同裳、
王于興師、脩我甲兵、與子偕行」
それは、詩経の中にある無衣と言う詩で、兵士が戦場に赴く覚悟を歌ったものだ。
龐統が戦地に行くのには丁度よい歌で、張飛と龐統は肩を組み合ったまま、詩に酔い、そのまま涙した。
二人は同じ戦場には行かない。張飛と龐統は離れ離れになるのだ。
「士元よォ。必ず生きて戻ってくれよ。あんたが作戦をオイラに預けてくれると言ったじゃねぇか。あんたはオイラの頭だ。オイラはあんたの矛だ。互いが居ねぇと天下は一つに出来ねぇ」
その言葉に龐統は涙を飲んで答える。
「……もちろんですとも。私は軍師ですぞ? 帷幄にあって作戦を巡らすのです。敵将とて我が軍の精兵を避け、本陣に切り込んで私を討つなど難しい話です」
それを聞いて、張飛は笑った。
「それもそうだ!」
「そうでしょう?」
「しかし、相手の兵力は六万だ。それに我が兵は二万と少なくはないか?」
「ふふ。おっしゃる通りです。ですから蜀の将校は我々を舐めてくるでしょう」
「ふむ?」
「ですが、蜀はしばらく戦火の無かった土地で、兵は弱卒ばかりの、兵法で言うところの“陥”と言うやつです。たとえ三倍の兵力と言えども要害である、険形に立て籠り、引き込んだところで討ち取ってしまうのです」
「ふむ。良く分からねぇが、作戦があるんだな?」
「はい、左様で。それに、我が軍には吉兆があります」
「というと?」
「我らが張飛将軍の字は益徳。まさに益州を徳る、ですからな」
「こいつ、こいつ、頭のいいヤツめ!」
「はっはっは! ささ、張飛どの。飲んでくだされ」
そして、二人はしばらく会えない名残を惜しんで飲み明かしたのであった。
次の日。龐統は暇乞いをして張飛の屋敷を出た。張飛と、その妻三娘は、それを見送ろうと門まで出ると、龐統は馬上から三娘に向けて錦の袋を手渡した。
「あのう、先生? これは?」
「ふふ。これは張飛殿に宛てた兵法が入っております」
三娘は、袋と夫張飛を交互に見てからもう一度訪ねる。
「夫への兵法ならば、私ではなく直接お渡しになればよろしいのでは?」
そう言うと龐統は髭をしごきながら馬上で笑う。
「そうです。しかし、兵法を授けるのは来年の秋がよろしい。その前に開けてしまっては意味がないのでな」
「そうなんですか?」
「左様。張飛殿に渡すと、約束は守るでしょうが、来年の秋には忘れてしまうでしょう。ですから奥方が適任なのです」
それに張飛も笑う。
「はっはっは! さすが士元だ! その通り!」
龐統は微笑んで馬上で手を上げる。そして二人に背を向けて帰路に着いた。その姿が消えるまで二人は見送っていた。
三娘は手の中に錦の袋を握ったまま──。
◇
やがて軍は発動され、劉備は黄忠、龐統を伴って蜀に入った。策を巡らし、常に優勢で関や城を次々と落として行ったのだった。
その報告を張飛は妻と共に聞き、さすが軍師龐統、友ながら目覚ましい働きだと喜びあった。
そして約束の一年後の秋。三娘は思い出して錦の袋を携え、張飛の元へと行った。
「益徳さん、これ覚えてる?」
「なんだい? それは?」
「もう! やっぱり忘れてる。これは龐統先生が、益徳さんに向けて授けてくれた兵法よ」
「──んー? あー、そんなもんあったなぁ! ささ、早速開けてくれ。なんて書いてあるんだ?」
「もう、自分で読めばいいじゃない」
「まー、まー、オイラ、字を読むと頭痛がする質でな。三娘のキレイな声で読んで貰うと耳に良く入るってもんだ」
「ふんだ。おだてたって何もでませんよーだ」
三娘は龐統から預かった、錦の袋を開けて、さらりと目を通すと、真っ青になってしまった。それに気付いた張飛も、何事かと早く読むように妻三娘を急かすのだった。その内容はこんなものだ。
『張飛どの。おそらくこの手紙を読む頃には私は地下の住人となっているでしょう。というのも、天文を仰ぎ見るに、蜀の地に将星が堕つるのを知りました。即ち、我が君、劉備さまの死です。しかし、その後に国が興るとも出ております。それを我が君に申し上げても信じないお方です。そこで私は、我が君の身代わりになろうと密かに誓いました。我が君の身代わりは、大器でなくてはなりません。我が勢力の中で大器と言えば、孔明、関羽どの、張飛どの、趙雲、そして私しかおりません。そんなことを言えば、張飛どのは、“士元、自惚れるな”とおっしゃるかも知れませんが……。さて、張飛どの。兵法を伝授致しますぞ。孔明に掛け合って十万の兵で蜀に進軍するのです。大軍で攻め入れば、蜀は戦意を失い、我が軍の勢いは天を突くでしょう。その際、敵将の厳顔は殺してはなりません。彼の者は、漢中を攻める際にきっと役に立つはずです。その説得は、張飛将軍、あなたがするのです。燕人張飛に期待しておりますぞ』
と三娘が読み終わったところで、張飛は土間に大きな体を投げ出して泣き伏してしまい、手が付けられなくなった。
三娘は悲しかったが、これを諸葛孔明に伝えなくてはならないと張飛を諭すと、確かにその通りだと立ち上がり、急いで向かった。
張飛は、諸葛孔明に会いまみえると、孔明は何も知らないのかニコニコしている。
「先生、先生!」
「なんです、張飛将軍。そんなに慌てて」
「これが慌てずにいられますか。士元先生が、蜀に旅立つ前に、私に兵法を伝授しており、今年の秋に読むように言っていたのですが──」
「士元どのが兵法を? み、見せてください」
諸葛孔明は張飛より手渡された手紙を急ぎ見て、天を仰いで嘆息した。
「馬鹿な……、義兄上……」
と、そこに丁度戦況を報告する使者が入ってきた。
「我が君より孔明先生に言付けを預かって参りました」
「申しなさい」
「我が軍は、雒城まで進みましたが、ここは堅固でいたずらに時を過ごすばかり。軍師の龐統先生は戦死し、このままでは寡兵の我々は座して死を待つばかり。どうぞ援軍を送られたしとのことです」
その説明を聞くと、張飛は諸葛孔明の前に進み出て跪いた。
「先生! どうか私に千兵をお預けください! 士元の弔い合戦だい! 蜀の奴らを蹴散らしてやらぁ!」
と言ったところで諸葛孔明は張飛を羽扇で指して指示した。
「分かりました張飛将軍。あなたには二万の兵で長江を上り、巴郡を攻めてもらいましょう」
「ほ、本当ですか!? ああ、先生ありがとうございます!」
張飛は指図にひれ伏し顔を上げると、そこには目配せする諸葛孔明の顔があった。
「巴郡の守将には厳顔がおります。将軍はそれを説得し、我が君が居られる雒城まで来てください」
「はい! 必ずや我が君も救ってご覧にいれます」
「将軍。私とてのんびりしてはおれません。すぐさま兵を集め、私も出馬致します。雒城で落ち合いましょう。他に趙雲も連れて行きましょう」
それを聞いて、張飛は諸葛孔明の心中を察した。
「先生! 先生も士元のことを……」
「ええ、もちろん。私は八万の兵を率いて合流します。将軍の二万に合わせて士元どのの言われた十万の兵です!」
「は、ははー!」
作戦は決まった。張飛はすぐさま精兵二万を率いて、長江を遡上し、巴郡を攻めたのであった。
◇
巴郡の厳顔は、勇猛果敢な名将であったが、蜀兵は弱卒ばかりである。しかも寄せ手の大将はこの大地に知らぬもの無し、泣く子も黙る張飛となったら決戦も自ずと逃げ腰の及び腰。張飛が怒号を叫ぶとすぐさま蜘蛛の子を散らすようになった。
守将の厳顔、なんとか形勢を逆転しようとするものの、張飛は歴戦の兵、どうにもならず巴郡は陥落。厳顔を捕縛したのであった。
張飛は巴郡の城へと入り、龐統に言われた通り厳顔を説得しようと、牢から出して引き連れるよう命じた。
厳顔は、張飛の前に出ても恐れず、跪ずこうとしないので、張飛は珍しいものを見るように尋ねた。
「ふむぅ、厳顔。なぜ跪かぬ? そなたはオイラが恐ろしくはないのかい?」
すると厳顔は凛として答える。
「何が恐ろしいものか! お前たちは我が国を盗もうとする盗人だ! 正義は我らにあり。悪人の前に決して跪かぬ!」
そう言われて張飛は面食らって、しばらく無言になってしまった。
龐統には説得するように言われたものの、厳顔が言うことももっともなので、何とも言えなくなってしまったのだ。
張飛は心の中で龐統に尋ねた。
『士元、士元よォ。オイラにゃ、お前さんのような弁舌はねぇ。厳顔を説得に当たれと言ったが、オイラはどうすりゃいいんだい?』
すると、張飛の頭の中に龐統が酒を持って現れて、にこやかに答える。
「張飛どの。私はあなたに伝えました。燕人張飛に期待していると。さぁ、張飛どのの思うように致しなさい」
頭の中の龐統は想像の中でいつものように酒を飲む。それに張飛も喉を鳴らした。
「燕人、燕人張飛に期待するか……」
そして、張飛は思い付いたように手を叩いて笑いだした。
「そうか、そうか! 先生! オイラ、分かりました!」
一人で頷いている張飛に、厳顔はただポカンである。張飛は構わず部下に指示した。
「火を用意せよ!」
「はは!」
部下が出ていく。それに厳顔は叫んだ。
「おう! 拙者を焼き殺そうというのか! 我が魂は死しても国を守る鬼となる! 我が国に首をはねられる将はおっても、降伏するものは誰もおらんぞ!」
と厳顔はいうものの、張飛は何やら忙しそうに部下たちにあれやこれや指示をしている。そして厳顔の元に近づいた。厳顔は張飛の長身を見上げて、なおも叫ぶ。
「おう、殺せ! さっさと火にくべるといい!」
しかし張飛は、厳顔の縄の縛めを解いてしまった。厳顔にはその意味が分からない。
「な、何をする?」
「いやいや、厳顔どの。あなたは真の男だ。オイラだって、厳顔どのの立場なら首を討たれることを覚悟しよう。ささ、どうぞこちらへ」
張飛は厳顔を引き連れて庭へと案内すると、すでに火がおこされ、机と椅子が三つ。酒甕と、屠られた豚が一頭いる。
未だに厳顔はよく分からない。
「張飛どの。これは?」
「はっはっは。天下の英雄と酒を飲むのが、燕人張飛のしきたり。また、オイラは故郷では肉屋をしておりましてな、厳顔どのに、焼き肉をご馳走致しましょう。さあ席に──」
と厳顔に座るように言った。厳顔も、あっけにとられながら着席すると、張飛は目の前で、醤油、酒、すりおろした果実、ゴマや薬味を入れたタレを作る。
そして豚肉を切ったものを串に刺し、炎で炙って皿へと移し、先ほど作ったタレをかけ、杯に酒を注いだ。
それを張飛は使用人を使わずに一人で行ったのだ。
厳顔は、旨そうな匂いのする豚の炙り肉を見ながら喉を鳴らし、張飛へと尋ねた。
「なぜこのようなお振る舞いを?」
それに張飛は答える。
「オイラが、兄者たちと旗揚げした時は、こうしてオイラは兄たちに食事を用意したものです」
「うむ、桃園の誓いの話は聞いている」
「オイラは、この大地をまた一つにまとめてぇ。みんな、みんな仲良くする国を作るんだ。蜀の劉璋どのは兄者の縁者だ。オイラの女房は魏の夏侯淵の姪だ。曹操の縁者だ。親類同士が国を分けて戦うなんて、そんな馬鹿なことがあっちゃいけねぇ」
「うむ……、それもそうだが、だったらどうすればいいのだ」
「こうする」
張飛は厳顔の前に座り、杯を高々と上げて叫んだ。
「かんぱーーい!!」
そして一息に酒を飲んだ。そして厳顔に言う。
「ささ、厳顔どのも!」
それを聞いて厳顔は呵呵大笑した。
「はっはっは! そうか、そうですか。燕人張飛の流儀、確かに理解しました!」
厳顔も杯を上げて叫ぶ。
「かんぱーーい!!」
そして、張飛の目の前で音を立てて酒を飲み干した。張飛はそれを見てニコリと微笑む。
「ささ、肉のほうも」
「ええ、もちろん。こんな旨そうなものを目の前に置かれてはたまりません」
張飛と厳顔は互いにそれにかぶり付く。そして笑いあった。
二人はまるで古くからの友人のように酒を酌み交わしたのだ。
厳顔は、不思議そうに尋ねる。
「それはそうと、張飛どの。このもう一つの席は?」
「ああ、これですか」
張飛と厳顔の間には空席。そこには杯も肉も用意されている。張飛は空を眺めて微笑んだ。
「これは、我が友、龐統の席です。この度の戦で戦死しました」
それを聞いて厳顔は、杯を置いた。
張飛の前にいる自分は、それを殺した憎き敵なのだ。それを新しい友として迎えている。
厳顔は、張飛の心を知って席を立って張飛の前に跪ずいた。
「張飛どの」
「げ、厳顔どの。いかが致した」
「張飛どのの国作りに、私も参加させてくださいませ!」
張飛はそんな厳顔に駆け寄って、同じく跪ずき、その手を取った。
「ええ、ええ。お力添えを頂けるとは、誠に喜ばしいお申し出です。どうか、我が君にもお会いになり、蜀の民を安んじてください」
「ふふ。何とも味なことをもうされるお方だ」
こうして張飛は厳顔の説得に成功した。
◇
龐統を失ったこの戦であったが、張飛の活躍もあり、劉備は蜀という広大な土地を手に入れることが出来た。
龐統が張飛に言った通り、蜀、即ち益州を徳ったのである。
そして、乱世の巨人である曹操に対抗すべく力を蓄えてゆくのである──。