69 宮中の夫婦生活
王宮で一ヶ月滞在している間に、ヴェール様の浄化は六度も必要になった。
そうなる覚悟はあったけど、普段は三~四週間に一度という頻度だったのでやっぱり格段に多い。
光の盾が直って負の感情の回収が再開されても、直ぐに元通りの平和な国に戻るわけじゃない。起きてしまった争いや犯罪は決して無に帰すわけじゃない。
国民の誰もが自分の感情の起伏と変化に戸惑い、首を傾げながら元の生活様式に戻っていくしかない。少しずつ溢れるような負の感情が消えれば浄化の回数も減っていく。現に少しずつ間隔が伸びてきて、ここ五日ほどは何もない。
だけど周期が乱れ次の浄化がいつ始まるのか予測が出来ないために、少し緊張感のある日々が続いている。
触れるだけで酷く気分を害する瘴気を出す凶暴な獣の姿になってしまうのは、結局のところそれが呪いであろうとなかろうと、誰にとっても恐怖の対象なのだ。
私は浄化の苦しみを消すことは出来ても、浄化を終わらせることや、獣の姿を元に戻すことは出来ない。それは元から分かっていた。赤い目で見つめて苦痛を消しても、ヴェール様はやはり半日かそれ以上を掛けて、体の中に溜まった負の感情を浄化させなければならない。
その間体は常に瘴気を出しているため誰も近付くことは出来ず、じっと時が過ぎるのを待つしかない。
だけど自我を失う恐れや痛みから暴れることも無くなり、檻に入る必要も首に縄をかける必要もなくなったことは大きな前進だった。
「大分国内全体が落ち着いてきましたみたいですね。浄化ももう十日も来ていませんよ!」
一日の労働を終えて二人で共有の寝室に戻るなり、私はソファに体を投げだした。
エドワーズ家でもローレンス家でも貴族としての仕事をしたことがなかったけれど、、王宮へ来て、ヴェール様と常に行動を共にするうちに、私自身にも仕事を振られるようになっててんてこ舞いになっている。
公爵夫人として、この国のことはよく分からないなんて匙を投げるわけにもいかず、毎日読めはするけど理解のできない文章と睨めっこを続けている。それでもなんとかなっているのは、セバスチャンが教師としてついていてくれているからなのだけど。
「早く平和が戻って家に帰りたいものですね」
「王宮ではどれだけいても部外者だっていう感じが抜けませんし、早く使用人のみんなにもヴェール様が無事なお姿をお見せしたいですから」
頷きながら言うと、ヴェール様は同意するようににっこりと微笑んでから、数回瞬きを繰り返して口元に手を当てた。顔から血の気が引いていくのが見て分かる。ああ、来てしまった。
「……すみません、記録はここまでのようです……」
「ヴェール様が謝ることではありませんわ」
具合が悪くなったからと言って、直ぐに浄化が始まるわけではない。少しずつ負の感情が盾から零れはじめて、その影響でヴェール様の口が悪くなって苦痛が出始めた頃に、体中から瘴気が立ち昇り体が醜い獣へと変化する。
私もローレンス城では両手で数えられる程度しか見ていなかったので初めはまごついたけれど、王宮に来てから七度目ともなると対処の仕方も大分分かって来る。
「リアナに迷惑を掛けたくないのに、あなたに頼らざるを得ないのが本当に申し訳ない……」
「迷惑だなんて思ったことはありませんし、私は頼られて嬉しいですよ」
服を破いてしまわないよう今のうちにシャツのボタンを外して服を脱ぐ手伝いをしていると、不安そうに瞳を揺らすヴェール様の顔が近付いてきて、口付けた。
「あなたは神が私に遣わしてくれた女神です」
「ですからそれは誤解ですって」
私は困って笑いながら、もう一度キスをする。
――ヴェール様がこんなことを言いだすようになったのは、転生者というのは何なのかと説明を求められて、虚実綯交ぜに話してからだ。
リアナに生まれる前に、別の世界で別の人間として生きていたこと。前の世界の教えでは人間は皆、何度も人間に生まれ人生を繰り返すことで魂を磨いていくのだという輪廻転生説をフワッと説明して、私や国王は偶然前の人生の記憶を持ったままでいることを話した。
ヴェール様も、覚えていないだけでヴェール・ローレンスの前の人生があったこと。それはセバスチャンもオリビアもみんなそうだと言った。この世界に前の世界の宗教的価値観を持ち込んでいいのか分からないけれど、上手く解決するにはこう言うしかなかった。
まさかここが小説の世界の中で、私は前の世界で死んだあと突然十五歳のリアナになったなんてことは、たとえ斬首になったとしても言えない。これだけは墓場まで持って行く。
とにかく何とか理解してもらおうとそういう説明をしたら、ヴェール様は私の言ったことを全部信じて下さった。その上で、国王のように腐らず、リアナとしての不遇にも耐えて自ら道を切り開いて自分の元へ来てくれたこと、獣姿の自分を見ても受け入れてくれたこと等々全てを感謝されて、遂には女神呼びまでされるようになってしまった。私はそんなに徳の高い人間じゃないんですすみません。
でも、この世界に来られて本当によかった。『オリヴィエシリーズ』の世界だからというのも勿論あるけど、どちらかというと大変なことばかりなこの人生で、こうして心から愛し合える人に出会えた。それだけで、結構十分だったりする。――
唇を重ね合っていると、ヴェール様の舌が入り込んで来て口の中で絡み合う。頭の奥がじんと痺れて思考が途切れた。
でも体の奥が疼き始める前に口を離す。これから始まるのは二人の甘い夜じゃなくて、ヴェール様にとって長くて辛い夜だから。
下着まで脱いでしまうと、ヴェール様は部屋の奥の隅へ移動して床に直で座る。私がヴェール様の苦痛を消すのは完全に獣の姿になってから。それまでの間に暴れて家具を破壊したり部屋から逃げ出したりしないように、そこに座り込んでご自分を律している。王宮の地下牢には入りたくないと、ヴェール様は部屋を移動せずに浄化に耐えることにしたのだ。
「ヴェール様、大丈夫ですか……?」
相当気分が悪くなってきたみたいで、両手で顔を覆い呻き始めるヴェール様から距離を取りつつ声を掛ける。普段であれば、ここまで浄化が近くなると何かしらの暴言が飛んでくるはずだけど。
「うぅ……はぁ……リアナ……助けて……辛い、目が回る……」
「もう浄化が始まりますからね。そうしたらすぐに楽にして差し上げますから」
「そんなことを言って、私が苦しむ姿を見て楽しんでるんだろう……変態が……!」
いつもと違うバリエーションの暴言に、思わず片眉が上がってしまう。そんなことはしてないと否定しようと口を開いた瞬間、ヴェール様の体から瘴気がぶわりと噴出した。
体中が黒い瘴気に包まれる中で、呻き声と雄叫びを上げながら人から獣の姿へ変化していく……そこにヴェール様への心配と恐怖と緊張は別に少し高揚にも似た興奮があるのは、絶対国王のせい。
「グアアアアアア!! イダイ、イダァイ!! リアナァアアアアア!!」
「もう少しです! ヴェール様、耐えて下さい!」
メキメキと恐ろしい音を立てて、元の姿よりも更に大きな獣となったヴェール様が頭を抑えて床に倒れ込む。ドシンと低く鈍い音が響く。さっきの雄叫びとこの音で、みんなにも浄化が始まったことが伝わるはず。
瘴気に包まれて濁った金色の毛並みの獣、もう何度も見てきたこの国の負の感情の姿だ。完全に変化を終えたので、この目でヴェール様の苦痛を消せる。
「ヴェール様、こちらを向いてください! 私の目を見てください!」
「ウアアアアアァーーーー! イヤダァアアアア!! グルジイ、イタイ、イダイ゛!!」
獣は頭を抱えるようにして床をのたうち回るばかりで、全然私の方を見ようとしない。何で!?
言葉を話しているからヴェール様としての意識は消えていない筈だし、引き受ける訳じゃないから私に負担がないことも分かってるのにどうして!?
「痛みも苦しみも全部消し去りますから、お願いですからこちらを向いてください!」
「だずけデ……リアナ、リアナァア!!」
もしかして頭痛で私の声が届いていない? それなら……
一度体の中の空気を全部出し切ってから、限界まで吸い込んで腹から叫んだ。
「こっちを見ろーーーーー!!!!! ヴェーーール・ローレンスーーーー!!!!!」
「!?」
びくりと体を震わせたヴェールが、恐る恐るといった様子で私の方を向いたので、その一瞬の隙を逃さず私は赤い目の力を発動した。
「……リ……アナ……」
放心したような声で名前を口にすると、ヴェール様は緩慢な動きでその場に正座……正確にはお座りして……るのかな? 瘴気に包まれているのでよく見えないのだけれど、とにかく座ってしゅんと頭を下げた。
「スみマセン……オコラセるようなコトをしテ……」
ああ、思いっきり叫んだのを怒られたと勘違いしているのね。
「そんな、怒ってなんていませんよ。声が届かないみたいだったので、少し大声を出してしまいました。驚かせてしまったみたいでこちらこそすみません」
そう否定すると、ヴェール様は少しホッとしたように肩の力を抜いてこちらを見た。
「ア……アリガトウ、リアナ」
首を振って、私は椅子を一脚運んでくるとヴェール様の瘴気が届かない距離に置いて腰掛けた。
本当はヴェール様に触れていたい。その体を抱きしめて、浄化が終わるまで一緒に過ごして差し上げたい。だけどそればかりは叶わないから、代わりにこの時間をお喋りして一緒に過ごす。
「そう言えば聞いてくださいよ、この間宰相さんが――」




