50 薄れゆく前の世界の記憶の中で大事にしたいこと
子供の頃から、漫画や小説が好きだった。特に小説は一冊で得られる物語の量が多くて好き。中でも現実の世界から離れられるファンタジー小説が好き。
『オリヴィエと魔法の冒険譚』シリーズとは、中学校の図書室で出会ったのが最初だった。面白いと話題で人気でいつでも貸し出し中で、一巻を読んだあとは待っていられなくてお小遣いで買った。
それから何度も読み返して、表紙は所々印刷が剥げて紐の栞もけばけばになってしまったけど、あの頃の思い出を含めて私の宝物だった。
でも私みたいにオリヴィエシリーズが大好きな読者は山のようにいて、何年経っても根強い人気は変わらないし、今だって新しいファンを増やし続けている。
そして、ファンの中には私なんかより全然頭が良い人や行動力がある人、沢山本を読んで知識があったりピンチの切り抜け方や人心掌握術を知っていて……そして、新刊を読めずに亡くなった人はいくらでもいたはず。
なのにどうして私なのだろうと随分悩んできた。この世界に、主人公の妹リアナ・エドワーズとして転生して、一体どうしろというのか分からなかった。
だけど問題の殆どはいつでも向こうからやって来て、少しだけ理解できたことがある。
オリヴィエが自分から動く主人公だったから、リアナは巻き込まれ型なんだって。
今回が最大の難関かもしれない。
この解決の糸口の見えない問題。この困難を乗り越えられたら、今度こそ私はヴェール様と幸せになれる。そう感じる。
最近段々と前の世界のことを思い出さなくなってきて……というか、思い出そうとしてもぼんやりと霞んだ記憶になってきて、三十代のうだつの上がらない会社員の私が消えかかってる。
きっともうすぐ、全部忘れて正真正銘この世界の住人になるのだと思う。それは私にとって願ったり叶ったりだけど、ここがファンタジー小説の中の世界だっていう前提や、前の世界で得た知識まで忘れてしまうのはちょっと怖い。
ああそうだ、そんな感傷的な気分に浸ってる場合じゃない。私がまだ覚えているうちに、私が小説を読む時にいつも登場人物たちに対して思っていたことがある。
話を面白くするために、盛り上げるために、もしくは伏線の為にというのは分かっているのだけれど、フィクションの登場人物たちには圧倒的に足りないものがある。
私がこれから先前の世界の全てを忘れたとしても、この気持ちだけは忘れまいとメモを書き記しておこうと思っていたんだった……――――
「なんだか、二人きりになるのはとても久しぶりな気がしますね」
ヴェール様の背中を毛並みに沿って撫でながら、寝室を見回す。変わらず簡素でベッド以外に置かれている家具はほとんどない。
たった一ヶ月ぶりなのに、他人のスペースにお邪魔している感じがしてしまう。
「そうですね。何だか少し緊張してしまいます」
「私は嬉しいですよ。ヴェール様と二人になれて」
確かに全く緊張がないとは言わないけれど、嬉しい気持ちの方が上回っている。
セバスチャンもオリビアも必要な時以外は気配を消してくれているけれど、やっぱりいるのといないのとでは全然違う。誰も私たちの会話を聞いていない。一挙手一投足を見ていない。それがとても気楽でいい。
だけど、ヴェール様は視線を逸らして遠くに目を向けてしまう。
「あなたはもっと私に対して怒っていいんですよ」
「怒っている場合ではないから怒っていないだけで、本当は許していませんよ?」
意地悪く言うと、ハッとしたヴェール様がこちらを見るので、わざとムスッとした表情で見返した。
嘘をつかれて実家に帰されたことに関しては許せない。監禁生活になると分かっていて、それでいいと判断したことも同じ。酷い判断だと思う。
だけど、お姉さまが会いに来てくれてからは毎日が充実して楽しかった。目の力のコントロールも出来るようになったし、必要なイベントだったんじゃないかって思ってる。そう考えてしまうのは、やっぱり私がまだここがファンタジー小説の中世界だと知っているからなのだろうけど。
だから感情の上では許し難いけれど、全然許してる。
「ふふ、嘘です。怒ってなんていません」
ヴェール様の顎に触れて、下から掻くように撫でる。次第にその言葉が嘘でないと判断できたのか、緊張が取れて安心した表情になって、もっと掻いてと首を上げた。
「でも、これから先もずっと夫婦円満でいるために、私が大事にしたいと思っている事を言ってもいいですか?」
「勿論です」
「『報告・連絡・相談』この三つです」
「報告連絡相談」
確認するようにオウム返しに繰り返すヴェール様に頷いてみせる。これは私が前の世界の会社というところの先輩に、最も大切だと教えられたことだ。
仕事上の事故や行き違いが怒る時にはこの三つのどれかが足りていないことが多く、そして、フィクションの中の登場人物たちに作者が意図的に欠けさせているものだ。
「夫婦だからと言って全てを話さなければならないとは思っていませんが、すれ違いや誤解を無くすためにも、大切なことほどよく話し合うことが大事だと思っています」
そう私が言うと、ヴェール様は神妙な顔つきで頷いてくれたので、わしゃわしゃと両手で顔を掻いた。可愛い旦那様。大好き。
「ヴェール様、キスしてもいいですか?」
「リアナは、私がこの姿の方が積極的ですね」
元の人間の姿は美しすぎて緊張してしまうから。と口にしようとして寸でで止めた。
これでは国王と同じようなことを言っていることになってしまう。美しいから憎いのと、美しいから緊張する。例え意味合いが違ったとしても、傷付けてしまう言葉に変わりはない。褒めているつもりで言ったとしても、相手が褒められていると受け取れなければ単なる厭味になってしまう。
私が積極的になっている理由は、本当は違う。
「確かに今の姿はモフモフしていて大きくて可愛いので、つい動物に接するようなスキンシップになりがちですが……ヴェール様にまたこうして会えて、受け入れてもらえていることが嬉しいんです」
「リアナ……」
感情と記憶を読み取られても、変わらず臆さず真っ直ぐに目を見てくれる。その優しさに胸のあたりが熱くなって、見つめ合った目が潤む。
無言のまま私たちは、お互いの顔を近付けた。




