17 前兆
その日は朝から雨が降り続いて、薄暗い日だった。
「全く止む気配がありませんね」
窓から外を眺めても空は一面の灰色で、まだ暫く陽の光は望めそうにない。
雨の日はなんとなく憂鬱にな気分になる。そう思いながら声を掛けると、ヴェール様は思った以上に気怠そうな返事をした。
「ああ……」
常に誰にに対しても丁寧に接してくれる御方の口から出たとは思えない声音だ。私と会話なんてしたくないとばかりに、椅子の背に全身を凭れかかって目を閉じて溜息を吐く。
室内が暗いせいかと思ったけれど、どうやら顔色があまりよくないみたい。
「ヴェール様、もしかして体調が優れないんじゃないですか?」
直球で尋ねるとヴェール様は顎に手を当てて、自分の体と向き合うように考えてみてから頷いた。
「そうですね、地下室へ移動します」
ヴェール様が立ち上がるので、私も一緒に部屋を出た。
光の盾としてヴェール様がリュミエール国内中から回収している負の感情は、盾の中が満杯になると浄化が必要になる。
歴代の光の盾公爵は事前にそれを察知して、自ら檻の中に入り浄化作業を行っていたそうなのだけど、ヴェール様はそれが上手く出来ない。
盾の中の負の感情が溢れ返り、体調と性格の急変が起こってから漸く気付くことの方が多いのだ。
だけど実は、よく観察していれば急変してしまう前から予兆はあるのだとセバスチャンに教わった。
物凄く体調が悪いわけではないけれど、なんだか気怠い、気分が乗らない、眠い、少しのことで苛つく、暴食をしてしまう等々……聞いていて、生理前のイライラ(PMS)とほぼ同じでは? と言ってしまいたくなるような事ばかりだった。
あの凄まじい瘴気に包まれ獣の姿に変じてしまうのを、月経と並べていいわけがないけれど、前の世界でも女性としてまあまあ生きてきた私には理解できるところがあった。
ヴェール様と過ごした期間はそう長くはないけれど、つまりは普段と違う姿を見たら珍しがって喜ぶ前に浄化が近いことを疑えということ。
夫婦になったことで、ヴェール様が以前のようにずっと優しい紳士として振舞おうとしないことも、気付きやすさの一因になっているとは思う。
「リアナが事前に気付いてくれたお陰で、今回は迷惑を掛けずに済みそうです」
地下へ降りて、長い通路を歩きながらヴェール様に言われて首を振る。
自分自身の体調の変化に気を配る用になれば気付けるようになりますよ、なんて偉そうなことは言えない。私だって、なんとなくイライラしてなんとなく甘いものが食べたくなって、なんとなく肌荒れを察知してたのに生理が来ることに気が付かず、下着を汚した経験は幾度となくある。
微妙な体調の変化に気付くなんて普通は難しい。
「ヴェール様……」
こんな時、何と声を掛けたらいいか分からない。
大丈夫です、私がついています、頑張ってください。どれも無責任で何の役にも立たない励ましだ。
「何のお役にも立てませんが、ずっとお傍にいますからね」
もうすぐ浄化が始まって、ヴェール様の苦しむ姿を見ることになるのかと思うと、心が苦しい。だけどこんなものは、ヴェール様自身が受ける実際の苦痛に比べたら何でもない。
すぐ隣を歩くヴェール様の腕に自分の腕を絡ませて密着すると、その体は既に発熱していた。獣に変じる前の予兆の第二段階だ。
階段を上るとヴェール様は自ら檻に入り、私が外から施錠する。この鍵の掛け方も、事前にセバスチャンに教わった。
この後、余裕があればヴェール様は服を脱いで、破いたり汚したりしないよう檻の外に出してしまう。
「リアナ、部屋に戻ってもらって構わないんですよ」
「何を仰ってるんですか。私はヴェール様の傍を離れません。それしか出来ないのですから、どうぞ居させてください」
「……あなたに近くにいて欲しい。だけど同時に、あなたに醜い姿を、苦しむ姿を見られたくない……」
檻の中には椅子一つない。あれば壊してしまうし、自我を失くして暴れた時に危険だからだ。
ヴェール様は床に直接座って、表情を私に見せないよう俯いて話す。
「今更じゃないですか。それに、どちらかが辛い時に支えるのが夫婦というものです」
「それでも……ウッ……この、うっグ、ア……アアッ……っ!」
ヴェール様が苦しみ出して、地面に倒れ込んだ。浄化が始まる前の最後の予兆だ。前に教会で見た時と同じ。これも全部ヴェール様の意思で行われているわけではないらしい。
もうすぐ、盾の中に溜め込まれた瘴気がまるでバケツをひっくり返すような勢いで溢れ返り、獣の姿に転じてしまう。
普段はこの間に使用人たちが慌ててヴェール様を檻まで運んでいるというのだから大変だ。
「ヴェール様……」
「うるさい! 口を開けばヴェール様、ヴェール様……バカみたいな黄色い声で耳障りだ!」
腹の底から叫ぶように罵声を浴びせられる。でも、大丈夫、これは瘴気の影響で性格が凶暴化しているだけ。耳を貸してはいけない。これはヴェール様の本心じゃない。
今まではセバスチャンやオリビア、使用人たちが担当してきた仕事だけど、これからは私がこの役目を引き受ける。
「ヴェール様、気を確かに持ってください」
「うるさい、お前は存在が邪魔だ声が邪魔だ……その呪いのかかった目で見られると背筋に悪寒が走る。失せろ」
「失せません」
「失せろ! 気色の悪いモノを俺の視界に入れるな!」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走って、言葉を返せなくなった。
今ヴェール様の中は瘴気に満ちていてあらゆる負の感情が駆け巡っている。出て来るのは人を故意に傷付けようとする言葉ばかりになってしまうのは、分かってる。
それでも、いくら悪意が膨らもうとも自分が微塵も考えたこともないことや、思ったこともない言葉は出てこないはず。口から出るという事は、ほんの数パーセントだとしても、心のどこかでそう思っている部分があるということだ。
存在が邪魔で、この目も、そんな風に思われてたんだ……。本当は……。
「奥様、あれは旦那様の言葉ではありません。耳を貸してはなりません」
いつからいたのかセバスチャンが私の肩を持って、ふらつく体を支えてくれる。
ヴェール様の言葉じゃない……そう。分かってる。理解してるつもり。どうしても他者を傷付ける言葉を吐き出してしまうだけ。私に対して何と言えば傷付くかくらい、ヴェール様も分かってるから出て来るんだ。
頭では分かってるつもりだけど、どうしても悲しい。
「グアァアアアーーー!!」
ヴェール様の体が瘴気に包まれながら獣に変じていく。痛そう、苦しそう、可哀想。
「ごめんなさい……ヴェール様……あなたの気持ちに気付かなくて」
思い上がってすみません。愛されていると思ってすみません。
辛くて孤独なあなたの傍なら、私も存在する価値があると思ってしまった。傍にいてあげなきゃなんて、一人にしちゃいけないなんて上から目線で考えて。
そういう私の傲慢で自分本位な考えに、きっとヴェール様は気付いてたんだ。気持ち悪かったんだろうな。鬱陶しかったんだろうな。
呪われた目を持ってるくせに縁談に立候補なんてして、ごめんなさい。馬鹿にされてると感じられたでしょうね。
「リアナアアアア!! ウワーーーーー!」
「ヴェール様……!」
叫びながら私の名前を呼ぶ獣の姿のヴェール様は、本当にお辛そうで、見ているだけで涙が出る。
だけど今日のこの涙の殆どは、自分の心が痛んで出る涙だ。罵声を浴びせられる覚悟は出来てた筈なのに、いざ自分の愛する人から言われると構えていた以上に傷付く。違う、こんなの絶対違うのに。
「奥様、お気を確かに持ってください。奥様の気持ちは分かります。ですが今は」
「……そうですよね、分かってます」
今最も傷付いているのは、私にこんな暴言を吐くつもりなんてなかったヴェール様の方だ。絶対に言いたくなかったはず。それでも負の感情が溢れて止めらない苦しさは、ヴェール様にしか分からない。
「ガルルルルル……」
獣の姿になると、ヴェール様自身の意識は曖昧になる。正確には、痛みと苦しみで気を失うのと気を取り戻すのを繰り返しているらしい。
ヴェール様が気を失っている間も獣は目覚め続けており、浄化も止まることはないと聞いて、私は一つ思いついたことがあった。
浄化の間中苦しむくらいなら、無理に意識を保たせようとせずに、ヴェール様の人としての意識なんて失ってしまった方が楽なのではと提案した。浄化が終わるまでの間、獣に意識を明け渡してしまえば少しは楽になるのではと。
だけど勿論、そんな単純な話ではなかった。
獣の姿を取るそれは、リュミエール国民の負の感情の具現化。辛いからと容易に獣に意識まで明け渡してしまうようになれば、段々と人と獣の境界線が薄れ、やがて日常生活すらままならなくなってしまうらしい。
過酷な運命から逃げるようにして、正気と自我を失う当主が過去に何人もいたという記録は、ローレンス家の禁書に残されている。
だから浄化中のヴェール様には常に使用人が数人ついて、言葉をかけ続ける。
「ヴェール様……それでも、私はあなたの苦しみを分かりたいんです!」
嫌われていても、ウザがられていても見られたくなくても、私は私がやるべきことをやる。
「あなたの孤独を埋める手伝いがしたい!」
「ウワアアアアーーー!!」
苦しみ悶えたヴェール様が檻に体当たりして、ガン! と硬くて痛そうな音が響く。
瘴気は体中から噴出し、獣に変じた顔ですら苦痛にまみれているのが分かる。
「ギャウン! リアナ、リアナアアアア」
「ヴェール様、やめてください!」
「旦那様! お怪我をなさったらどうするんです! 落ち着いて、正気を保ってください」
ガツンガツンと体を何度も檻にぶつけ始めるので、私もセバスチャンも必死に声を張り上げる。
鉄格子の間から襲われそうな程に迫力があり、容易に近付くことも出来ない。
一見正気を失っていそうに見えるけれど、名前を呼んでくれているということは意識はあるはず。それなら声を掛け続ければきちんと耳に届くはず。
「……辛いですよね、痛いし苦しいし気持ちも悪いし。だからつい、言っちゃっただけなんですよね。痛みを共有できない私を、傷付けたくなったんですよね」
「チガ……ウ……リアナ……リアア……」
ガシャン、とヴェール様の両手が鉄格子を掴んで二本足で立つと私を見下ろした。
「ス、スマ……スマナ……イ……」
獣の姿になってもヴェール様の瞳は変わらず金色だったけれど、瘴気の影響で暗く濁ってしまっている。だけど、気色が悪いと言った私の目を真っ直ぐに見て謝るその姿に、人間の時と変わらない誠実さが感じ取れる。
「私の方こそごめんなさい。ヴェール様の苦しみを、私が少しでも変わってあげられたらいいのに」
この目を見たヴェール様が何を思われたって構わない。正気を保ってもらいたくて視線を合わせ続けていると、次第にズキズキと目の奥が痛み始めた。
次第に目を開けていられなくなって何度も瞬きを繰り返すうちに痛みが増して、とうとう目の奥から外に向けて針で貫かれたような激痛が走り立っていられなくなる。
「ヴェール様っ……痛っ、め、目が……」
「奥様」
自身を守ろうとしているのか涙が溢れ出るが、あまりの痛みに全く瞼が上がらなくなった。思わず蹲って目元を抑える。
「リア……ナ」
「ヴェール様……」
今のヴェール様に心配はかけられない。声を噛み殺してただただ痛みが去るのを待っているうちに、肩や背中を誰かに触られた。
セバスチャンか、オリビア、使用人の誰かかもしれない。
「リアナ様、目から血が……」
「シッ」
目から血……? 涙じゃなくて血だったのかな。目が開けられなくて確かめられない。
「リアナ……リアナ!」
しっかりとしたヴェール様の声が聞こえる。気のせいだよね、獣の濁声とヴェール様の声じゃ全然違うもの。
「リアナ! なんてことを、リアナ!」
あれ、やっぱりヴェール様の声だ。もしかして本当に、ヴェール様の苦しみを変わってあげられたのかな。
目が痛い。瞼が開かない。最早目も通り過ぎて頭が痛くて吐きそう。嫌だな、ヴェール様の前で吐く姿なんて見せたくない。
ああ、この痛みと苦しみには覚えがある。ヴェール様の体から出る、瘴気に触れてしまった時の感覚に似てる。やっぱり…………
「リアナ!」
「奥様」
「リアナ様!」




