上着
霧上市の南西では、田畑や果樹園が続くのどかな風景を見られる。
高橋直樹は、くらくなった農道を自転車で走っていた。彼は霧上大学へ通っているのだが、霧上出身ではない。し、この辺りに住んでいる訳でもない。
自転車の前かごには、5kgの米がはいった袋をいれている。バイトで農家へ行ったことがあるのだが、その際小売店で買うよりもよほど安い値で米を売っているのを知ってしまい、それからはその農家で買うようにしているのだ。
本当ならもっとはやい時間に来る予定だったのだが、思ったよりも資料集めやなにかに時間がかかってしまった。小論文の提出は明後日までで、後二ページほしい……。
自転車のライトのなかにひとがうかびあがり、直樹は慌ててブレーキを握りしめた。
「大丈夫? 高橋くん」
「うん」
農道にはほとんど街灯もなく、直樹は横方向の道を歩いてきていたふたり組に気付いていなかった。ブレーキをかけたので人身事故はまぬかれたが、突然速度が落ちたのでかごの中身が飛びだしてしまった。
自転車を停めた直樹は、拾い上げた米の袋をかごへ戻した。中身は無事だったから、問題ない。
危うくはねるところだったふたり組のうちのひとり、黒田が、しょんぼり肩を落としている。ごめんね、と謝る声が小さい。
彼女は直樹と同じ、霧上大学の学生だ。直樹と違い、霧上で生まれ育った。
彼女は霧上出身の友人も多く、人望がある。可愛らしくて、その上優しい。わかりやすく、男子学生から人気があった。
優しい性格の黒田は、今も直樹の米の袋を心配そうに見ている。
「大丈夫かな。破れたりしてない?」
「平気。袋を食べる訳じゃないんだし」
直樹は答えながら、黒田のつれをちらりと見る。そのひとは、老齢の女性だった。
少し猫背になっているが、きっちりと化粧をし、しゃれた服を着て、髪もセットしている。随分おしゃれなおばあさんだな、と直樹は思う。
直樹の視線に気付いたか、黒田が微笑んで女性を示した。
「おばあちゃんなの。おばあちゃん、こちら、高橋くん」
「高橋直樹です」
「どうも」
黒田のおばあちゃん、は、無愛想にそう云って、顔を背けた。黒田がくすっと笑う。「ごめんね。おばあちゃん、負けちゃってご機嫌斜めなの」
「負け?」
「あっち」
指さすほうを見る。田畑の向こうが、やけに明るい。
彼女が直樹の隣に立った。「ゲームセンター。よなかまでやってて、おばあちゃん、そこでゲームするのが大好きなの」
「へえ……」
老齢の女性がゲーム、というのはなんとなく不思議な気がしたので、直樹はそんなふうに感心したみたいな声を出した。彼女は尚更くすくす笑う。
「昔はパチンコが好きだったらしいんだけど、煙草がいやですぐに行かなくなって、ゲームセンターにくらがえしたんだって。いろんなとこに行ってるの。駅のゲームセンターも大好きだし……おばあちゃん、クレーンゲームはプロ並みなんだよ」
「凄いね」
直樹は彼女とそんなに喋ったことはなかったし、そもそも「黒田さんは無口な女の子だ」と認識していた。これまで彼女と喋ったのの十倍は声を聴いている。
黒田の祖母が腰に手を遣って、不満そうに云った。「プロ並みじゃなくて、ばあちゃんはプロ」
その口ぶりに、直樹も笑ってしまった。
「ありがと……」
「いいよ」
直樹は自転車をおし、ふたりと並んで歩いていた。黒田の祖母が、迷惑をかけたんだからおわびしたい、と云ってきかなかったのだ。
「寒くない?」
黒田が気遣わしげに云う。直樹の半袖を見て云っているらしい。直樹は頭を振った。まだ半袖でも充分だ。
農道から、林道、みたいなところへ這入った。左右が木立なので、林道でいいだろう、と直樹は思う。「黒田さん、大学からはなれたところにすんでるんだね」
「ううん、今は寮」彼女は小さく頭を振る。「たまに家に戻ってるの。週末なんかは毎回」
「ああ」
「高橋くんは市外から来たんだよね」
頷いた。彼女も頷くが。それ以上はなにも云わない。霧上で生まれ育ったひとは、どことなく外から来たひと達に対して壁がある、気がする。単に、僕は友達をつくるのがへたってだけかな……。
林道の向こうに、灯が見えてきた。「あ、おじいちゃん起きてくれてるのかな」
かなりあたらしい家らしい。まあたらしい表札に、「黒田」と綺麗な字で書いてある。
黒田の祖母が玄関を開け、あなたー、と云いながら這入っていった。黒田に促され、直樹は自転車を停める。
洋館、と云えば云えるだろうか。木材の感じから、あたらしいのはわかるのだが、つくりは古めかしい。
家を仰いで、直樹は思わず溜め息を吐く。
「立派なお家だね」
「ん。わたしが高校生の頃に建てたんだ。ふたりはもともとお隣の市に住んでたの」
「え? 黒田さんの実家なんだよね」
「うん」
黒田は平然とそう答える。霧上で生まれ育ったのじゃなかったっけ、と直樹はちょっと混乱する。
それから、ああ、はなれて暮らしていた祖父母が同居するようになったってことか、と納得した。それなら、おかしくはない。
「どうぞ」
「あ、いいよ、僕もう帰らなくちゃ」
「悪いよ」
「高橋くん、これどうぞ」
どたどたと、黒田の祖母が走って戻ってきた。両手に紙袋を提げている。にっこりと、ご機嫌だ。
「これ、戦利品だけど、この子もわたし達もお菓子ってあんまり食べなくって」
「えっ、うわー、いいんですか?」
紙袋の中身は、スナック菓子だった。チョコ菓子やポテトチップスが沢山はいっている。
黒田の祖母が自慢げに胸を張る。「あたしはクレーンゲーム、すっごく上手なんだよ」
自転車の後部のかごに、紙袋をのせた。黒田の祖母はご機嫌だ。直樹がお菓子で喜んだのが嬉しかったらしい。
「高橋くん、また来てね。ぬいぐるみとか、ほしいもんとってあげる」
「おばあちゃん」
「かくげーもやろうね」
辿々しい発音で「格ゲー」というのが可愛らしい。直樹はにこにこする。「はい。やりましょう」
「いい子だね! じゃ、この子も一緒ね」
「もー、おばあちゃん、強引なんだから」
黒田はそう云いながらも、どことなく嬉しそうだ。
「ほんとにありがとう」
「黒田さん、もう戻りなよ」
「この辺りまでは大丈夫」
直樹が帰ると云うと、黒田は見送ると云って、ついてきてくれた。
林道は静かだ。かなり遅い時間なので、心配なのだが、黒田はのんびりしている。
「うちの土地だし、おじいちゃんが監視カメラを沢山つけてくれてるから」
「あ、じゃあ黒田さんにキスできないな」
直樹の冗談に、黒田はくすくす笑ってくれた。
「じゃあ、ここまでで」
「うん……ほんとにまた遊びに来てくれない? おばあちゃん、高橋くんのこと気にいったみたい」
「お菓子もらえるなら、また来るよ」
「おばあちゃんが張り切っちゃうな。クレーンゲームはもうやり尽くしたって云ってたんだけど、またやりそう」
黒田はくすくすして、それからなにかを思い付いたらしい。にこにこして、上着を脱ぐ。デニム地で、丈は短め、袖口と裾にピンクのレースが施されているものだ。
「これどうぞ」
「え、わるいよ」
「わたし達の所為で遅くなっちゃったんだし。寒いでしょ」
「寒くないって」
「風邪ひいちゃったら申し訳ないから」
黒田は自転車の前かごの、米の袋にかぶせるように上着を置く。「じゃあね」
いたずらっぽく笑い、黒田は踵を返して走っていった。
「明日、返すよ!」
彼女は一瞬こちらを見て、頷いた。
自転車をゆっくり走らせる。さっきは焦っていたからよくなかったんだ。ひとにぶつかったら、大変なことになる。
上着はたたんで、お菓子の紙袋にいれてあった。黒田の気遣いと、無知が可愛くて直樹は笑顔になっている。彼女の上着を僕が着ていたなんて、誰かに見られたら大事だ。大学で噂になってしまう。彼女の為にならない。
それでも気遣いは嬉しかった。あの、面白くて優しいおばあさんに似たんだろうか?
直樹は誰にもなににぶつかることなく、歩行者をおどかすこともなく、家へ辿りついた。寮ではなく、小さなアパートだ。米の袋を台所に、お菓子の袋を居間兼寝室に置く。彼女の上着は、皺にならないように、ハンガーを通してつるしておいた。
翌朝、寝坊しかけて焦り、直樹は黒田の上着に袖を通そうとしてしまった。「あ」
ぷっと、ふきだして笑う。彼女も自分も、体格のことをまったく忘れていたらしい。黒田の細腕でぴったりだったその上着は、直樹の腕が通らなかった。直樹も、特段体格がいい訳ではないが、黒田は痩せ型なのだ。
直樹は笑いながら、うすでの上着を羽織り、彼女の上着はかばんに仕舞いこんだ。
「今日はちゃんと、あったかそうだね」
キャンバスで顔を合わせた黒田は、微笑んでそう云った。
直樹は苦笑いになる。今日は肌寒い。流石に、半袖ではいられなかった。
「昨日、ありがとう」
たたんだ上着を渡すと、彼女はそれを自分のかばんへしまう。
「こちらこそ。おばあちゃん、ほんとに高橋くんのこと気にいってるから、また遊びに来てね」
「それはできないかも」
直樹の言葉に、黒田はちょっと哀しげに眉を寄せた。直樹はくすっとする。「それよりも、一緒にゲームセンターに行くって約束じゃなかったっけ。格ゲーやらなくちゃ」
「高橋くんてば」
彼女は楽しそうにくすくす笑う。
直樹はそれに微笑んで、視線を感じて右方向を見た。霧上市外出身同士、ということで付き合いのある友人達が、目をまるくして直樹を見ている。直樹はちょっと、首をすくめる。
黒田が直樹の袖をちょいとつまんだ。「うん?」
「直樹くんって呼んでもいい?」
「う、うん」
ちょっとどぎまぎしたが、直樹は頷いた。黒田はにっこりする。
「じゃ、わたしのことは、来夢でいいから」
友達へのいいわけが大変そうだぞ、と、直樹は嬉しさと困惑とがない交ぜになった気分で頷いた。