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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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海辺の幽霊

元いじめられっ子の心を病んで手帳持ちのワープアとして生きている中年女性が架空の地方都市で震災に遭い、沿岸の故郷で津波によって死んでしまった加害者たちが『まとも』な大人になっていた事を知り、行き場のない憎しみで頭がおかしくなって、自分にしか見えない幽霊と話す話です。


息を吸うように胸糞な描写が出てきて、不幸な死に方をした普通の人というものをこれでもかというくらいネガティブにこきおろした話なので、未だに生々しく震災の傷の残る方・そのような亡くなり方をした遺族のいらっしゃる方にはおすすしかねる話です。


※あくまで「こういう人もいたかもしれない」話であり、特定の個人の人生を娯楽として消費する意図も、震災の不幸を面白おかしくエンターテイメントとして消費する意図もありません。

 今から十年以上前、あの災害を生き残り、生きているという理由で、残酷な死によって、死者に対する怒りや憎しみを、不謹慎にされ、悲しみ方や怒り方を忘れてしまったあなたと私に。


 まだ幼い、柔らかい心のうちに容赦なく胸を穿たれた傷跡を、無事に生きているというだけで、『そんなこと』にされてしまったあなたと私に。


 学生時代、ほんの六年や十二年程度の、頭から海水に浸かって死ぬことと比較するのもおこがましい。けれど確かにそこにあって、私の心や人格を少しずつ歪ませ、私から声や言葉を奪っていったあなたたちに。

 異分子を徹底的に迫害し、同級生をズタズタに引き裂いて守った、コミュニティの『仲間』の命を理不尽に奪われたあなたたちに。


 学校からも、社会からも。追い出されて死んだものとして忘れ去られていたのに、何故か無事に生き残ってしまった、喪失の傷を抱えた人々に思い出されることの無い生きた幽霊たちに。


 クラスメイトや家族や、社会のニーズに応え、生きたまま墓に眠って死ぬのを待っていたのに、この災害によって墓から引きずり出された優しいあなたに。

 気の合う仲間と無事に大人になったのに、その仲間を思い出ごと失ってしまったあなた。


 何も悪いことをしていないのに、同じ街に住んでいるというだけで、街の鼻つまみ者や、大嫌いなあいつと一緒に『天罰が下った』と後ろ指指され、同じ場所で供養されることになってしまったあなた。

 ――この世の、あらゆる声を失って、あらゆる世界から消えた沢山の幽霊たちへ。これは幽霊だった頃の私と、本物の幽霊の話です。


※※※


「やぁ、マイスイート。久々じゃないか。娑婆の空気はどうだった?」

「こんにちは、エス。あなたは相変わらずね。ふらふらと漂って、軽薄であることだわ。この場所も、あなたも……少女の頃と何も変わらない」

「まぁね。仕方ないさ。こういう場所には、大きな変化があってはいけないからね。君たちのような人々は変化を嫌うから」


「確かにね。少ない刺激が十倍にも、百倍にも膨れ上がるのよね。特に、療養中というのは」

「そうさね。だから君もそんな素敵な格好で、ベッドの上に拘束されている訳だがね……いや、しかし本当に久しぶりなんだね。君は。こうして改めて見下ろしてみると、今更ながらいくつもの変化を見つけたよ。僕ら幽霊は、変化に貪欲であるからね」

「例えば?」


「そうさね……以前はもっとギラギラとした獣のような、非常に文学的な目で僕を見ていたものだし、その君の身体によく似合う拘束ベルトも、以前は食い込む肉もなく。身体とベルトの間にタオルや毛布を挟まれていても、その隙間から逃げ出す体力も無い程に痩せた、餓狼のような少女だった」

「まあやらし」


「純粋な感想さ。僕は娘のように思って居る子に欲情するほど馬鹿ではないよ」

「知ってるわ。仕方ないじゃない……あの頃は、まだ実際に少女だったし、年季の入った拒食症だったし、希死概念だってあったし。復讐だけが、この恐ろしくて差別的な世界に私をつなぎ止めていたんだもの」

「それと、あらゆる物語と、自分の愚かさを克服する為の知恵」


「そして、私にとってはとてつもない年長者で、生まれる前に死んでしまった祖父くらいの年齢の、あなたとの会話。……それが、あの頃の私を何とか正気につなぎ止めて居たのよ。この病室でね」

「まぁ、幽霊に慰めを見出す精神を煩った拒食症娘が正気の正気がどこまで証明できるかは意見の別れる所であろうが……。

 仮に僕が君の妄想から生じた者としても、狂気から産み出された僕もまた正気ではないことになるだろうよ、僕の母君」

「……でも私、あなたの事を本当の幽霊だと思っていてよ。だって私の知らない事まで知っているし。妄想だとしたら、ただの中学生の小娘だった、母であるはずの私よりもあなたの方が賢いことに説明が付かないし。私、元々お化けの話は好きなのよ。それに……」

「それに?」


「余りに美しいお話じゃないの。精神科の入院病棟に、拘束された拒食症の少女と――その少女が心を開く、文学青年気取りの地縛霊との物語だなんて」

「ふむ……確かに。僕に身体があったなら。その設定で一冊書いてみたかったかもしれない。

 かつて、精神科医の卵であった男の幽霊が、いつかは患者になっていたかも知れない娘と会話する。

 そうだな。所々を幻想的に。僕が『おじさま』で、君が『三歳っ子』という感じで。会話形式で進もうか」


「いいじゃない。それってとても素敵だわ。会話によって、段々と分かってくる物語よ。私が誰で、ここがどこだか」

「そうだね。では、段々と君を分かるために、いよいよこの質問をするとしよう。君が目覚めるのを待って、ずっと聞きたかったのだ。

 ――やったのか? ついに? 同じ悲しみを知る僕には分かるぞ。その額のガーゼは名誉の勲章という奴だろう?」


「――いいえ。答えはいいえよ、エス。どころか、つい先月まで忘れていたの。いいえ、忘れている振りをしていたの。人間は大人になるために、毎日生きる為に、生きる為の痛みを思い出す為に剥がし続けたかさぶたに蓋をしなくちゃいけない日がくるの」


「いいんだよ、スイートハート。そうだ、人間はそういう風に出来ていたね。長いこと幽霊であったから、忘れていた。幽霊というものは、希望がなく、常に絶望の尻尾を追いかけ回すことで存在しているから」

「あぁ、そうね。まだ居るってことは、あなたはまだ尻尾を追っているのね、私、私は……」


「ごめんよ。話を急ぎすぎたねダーリン。君は今朝、ここに戻って来たばかりだ。焦ることはない。少しずつ、少しずつ話してくれればいい。ここはそういう場所なんだから」

「そう……そうなの、私、久々に夜に眠ったのね……」

「眠れてなかったのかい……?」

「えぇ。あの日から――」

「あの日……近頃よく聞くね。それは一体なんだい?」


「本気で言ってるのエス? 先月、地震があったでしょ、大きな地震が」

「地震……あぁそういえば、一年ほど前から、見かけない病院のスタッフが居たり、院長がぶつくさいいながら、あの太った身体を揺らしてぶつくさ言いながら出かけていたのは、その地震のせいだったのか。あの男の横暴でスタッフが減るなど当たり前過ぎて、気にしてもみなかったね」

「……もしかして、エスには他の幽霊が見えないの?」


「あぁ、そういえば会った事がないね。考えたこともなかった」

「なるほどね……きっと今、幽霊が見えたなら、エスは私なんかより余程気が合う人に会えたでしょうね。……街一つ分の人が居れば、その中に一人くらいは、気が合う人が……死んだら惜しいと思うし。

 人によっては、『出来ればあらゆる苦悩を代わってあげたい』と思う人が、いるのが普通だから」

「ふむ。街一つ分の人間に裏切られ、追い出された君がそれを言うのかい? 君は相変わらず、優しい子であるようだね」


「ごめんなさい、エス。怒ったの? 死者を冒涜したから?」

「なるほど、それで怒られたか――自分を過度に責めすぎるかして、頭と心の具合が少し悪くなったんだね」

「……エスには何でも、お見通しね」

「君の癖だろう? 『ご飯を食べないから怒っているの?』 とか、『あの女達を手酷く殺す方法を付けていたノートを見たから?』とか。君は大人に言われた事を僕に聞いてくる」

「だって、エスが違うっていえば違う気がするんだもの」


「それは光栄だね。兄さんのようなガリ勉には女心どころか、人の心が分からないと、生前よく弟に言われたものだからさ」

「ふふっ。少なくとも、私の心はいつも丸裸にされちゃうわ。生きていたら、きっと凄い精神科医の先生だったわ。エスは」


「そんな、君の事が何でもお見通しな僕の予想だと……君は地震の直後、家から往来に飛び出して、服を脱ぎながら『天罰が下ったんだ!』とでも叫んだことでここに連れて来られた。……どうだい?」

「ふふっ……それより酷いわよ。……死んだの、あの子たち。津波で。家族と一緒に海の底。私の恨みが届く前にね、勝手に死んじゃった」

「でも、天罰ではない?」


「えぇそうよ。そうだったら、私が殺したことになるじゃない。そう言いたかったけど、耐えたわ。けど、結局戻ってきちゃった」

「偉い子だ……詳しい話は、次に目覚めた時に聞こうかな――その間に、僕も、『あの日』というのについて調べておこう」


「えぇ……そうするわ。寝ればきっと、整理がつくもの。それとも、今が夢なのかしら……」

「どちらだっていいだろう? 金魚の見る夢も、金魚の夢を見るのもそう変わらない」

「それもそうね……じゃあ、おやすみなさい。エス」

「あぁ、お休み。僕の可愛い子。永遠に変わらず、ずっと愛しているよ」


※※※


「あぁ全く、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけれど……」

「どうしたんだい、ダーリン。随分不機嫌そうじゃないか。診察に向かう前、拘束ベルトを外された時は、あんなに上機嫌だったのに」

「そりゃあ、自由を喜ばない人間なんて、生まれた時から檻に入れられた来た人くらいしか居ないでしょ? 特に私なんて、青春の殆どを言われの無い牢獄に押し込められていたようなものなんだから。自由への執着は人一倍なのよ。そう、だから喜ばないと。些細な身体の自由にも感謝しないと、すぐに元の檻が恋しくなってしまうのよ。自由は素敵。自由は素晴らしい。人の目が無ければもう最高!」


「オーケー分かった。……僕の甥っ子は、今回はどんな失礼を君に働いたんだい?」

「今回の幻覚症状が出始めた時の話をしたら、私が死者を冒涜しているって言って……見せて来たのよ」

「一体何を?」


「あの藪医者が被災地支援に駆り出された時に撮った、波止場に色が抜けた塩の柱のようになった遺体が漂っている動画や写真。全く、どっちが死者への冒涜なの? あの人たちを可哀想だと思わないの?」

「馬鹿を言え、兄を自殺に追い込んで家を継ぐような男の息子が賢い訳がないだろう?」

「それにしたってよ……! 何なの? 研究の為なら死者を人に見せびらかしても良くて、個人的な恨みであれば、例えどんなに酷い事をされても、死んでしまえば全てチャラにしろとでもいうの?」


「まぁ、赤の他人だからこそというのもあるだろうよ。あの甥っ子は、苦労知らずのボンボンである代わりに、人を憎むという機構の備わっていない、幸せな男であるからして」

「……あの男も、スカートを強要されたり、制服をトイレに流され掛けたり、下着を異性の更衣室に放り込まれたりすればいいんだわ」

「してやればいいさ。今の君はある意味無敵なのだから。医者の態度に動揺したことにして、効果な医学書でも女子トイレに突っ込んでやればいい。デスクの右側に年代物の棚があるだろ? あそこの裏に隠してある酒もお勧めだ」


「まぁ、酷いおじさまだこと。……ありがとう。冷静になったわ。今夜は、水を漂う塩の柱に追われる夢で魘されそうだけれどね」

「今夜も、だろ? 昨日も、その可愛らしいネグリジェの裾を乱しながら、来ないでとか死ねとかずっと言っていたよ」

「……起こしてくれれば良かったのに」

「何だか、子どもの頃のギラギラとした君のようで懐かしかったものだから。……相変わらず、それしか着られないのだね」


「えぇそうよ。……全く、女なんて勝手よね。子どものうちはフリルの似合わない女に人権が無い、着ない奴は女じゃ無いって言う癖に。いざ自分が着られない年齢になったら、『いつまで女の子でいるつもりか』『厚かましい』だなんて。そっちこそ、いくつになっても女児みたいよ。いやになる」

「そいつらに向かって、自傷でも嘔吐でも何でもしてやればいいさ。昔君が、院長と看護師長にやったように」


「あらいやだ。人の黒歴史を掘り返さないでちょうだい。……これでも、少しは良くなったのよ。ほら、このネグリジェ、裾にしかフリルが付いてないのよ。あの藪も、あなたも、気づいていないようだけど。さっきも脱がされ掛けたしね。もう少女でないのにみっともないと」


「まさか……患者を無理に着替えさせようと? この平成に? 精神科医が?」

「あーあ、時が止まっている幽霊の方が時節というものを理解しているじゃないの。どうやら、前回の入院で私の母親から散々に痛めつけられた仕返しをしたいのよ。

 娘に無理に入院服を着せようとして、抑うつ状態を悪化させて、毛が抜けるくらいの絶食を始めた事で訴え掛けられたから。今は私も大人で、訴訟なんて出来ないくらいの心身喪失状態ですからね。復讐にはうってつけの機会よ。……分かるでしょ? あなたも私も、そのチャンスに手を伸ばしてしまう臆病さが。嫌となるほど。ねぇ復讐者さん」


「全くもって皮肉だね。復讐者の弟子である娘さん。君は復讐をし損ねたせいで、今度は復讐される側にされたって訳か」

「まぁ、世の中得てして因果応報という訳よ。……多分、普通の人に与えられる筈のない幸福として神様がカウントしたのでしょうよ。あの、私が火柱にしてしまいたいと、少女の頃にずっと妄想していた、塩の柱たちの死を」


「神様は、彼女たちの……というか、結婚して、仕事や子どもを持って、社会参加している人間の方の味方なの。碌に学校にも通えず、部屋から出られず、決まった時間に三食食べる為に何年も使って、成人してからやっと社会参加した人間を人と数えていないの。だってそうでしょ? 神様も所詮、人が作ったものなんだから」

「君も本来はそうなる筈だっただろう、レディ? きっとあのまま学校に通えていたなら、そうでなくても、父親が君の苦悩を思春期特有の病と切り捨てずあそこを出られたなら、もっと早く、うちの甥っ子よりまともな医者に出会えていたなら」


「たらればの話はもういいわ。……それを言うなら、あなたこそ、馬鹿な弟なんかにそそのかされず、その苦悩を見て見ぬ振りをして、目を、耳を塞いで、この病院の医院長になって。私の主治医になってくれれば良かったのよ」

「……そうだね。これは君じゃない。僕の未練だ。それを君におっかぶせてしまっただけだ。済まなかったね」


「分かれば宜しいわ。……多分、もうすぐ、看護師が睡眠薬でも持ってくるでしょうね。そうしたらまた眠って、今日からは血まみれではなくて、真っ白に変色した塩の柱に追いかけられる夢を見るのでしょうね。魘されていたら、エス、ちゃんと起こしてね」

「……その塩の柱たちは、君に何を言うんだい?」


「……何でお前が生きているのかって。ホモで、化粧もしない、まともな仕事をしていない、引きこもりのガリガリ女が生き残って、なんでアタシらが、子どもを置いてしななきゃいけないのかって。お前が死ねば良かったんだ……本当にその通りよね。ご愁傷さま」

「生きている人間の方が勝ちに決まっているだろうに。愚か者は死んでも愚かだな」


「まぁ、そういう頭の悪い言葉を一々真に受けて、一々丁寧に傷つく、かつての私の愚かさから全ては始まったのかもしれないけれどね」


※※※


 その日、私がテレビの前に座っていたのは、他意も悪意もない全くの偶然だった。誓って、期待していた訳ではない。それだけは神に誓える。

 確かに、予感は節々にあったと言える。あの海の街が津波によって殆ど流され、両親の会話でしか聞いたことのない親戚の人の安否が分からないと言われたこと。もし、ネットや、テレビなんかで分かったら知らせて欲しいと頼まれていたこと。

 工場が停止して仕事もなく、ひたすら食料を求めてスーパーをはしごし、帰りにそのおこぼれを実家に届ける以外に仕事らしい仕事もなく。

 明日もあさっても、一体何をすればいいのかも分からず、ひたすらテレビを眺めて深夜になった際に、地元テレビ局が被災地を回って、避難所で家族を探す人や、亡くなった人間の名前の書かれたボードを掲げた人々の顔を一つ一つ映し、更にその日までに判明した死者・行方不明者の一覧を読み上げる番組を発見した事。


 そうして恐らく、専業主婦で朝の早い母は、そういった番組の存在を知らないか、知っていても時間不定のその番組を見るのも、死者の名前や他人の憔悴しきった顔が延々と連なるそれを録画に掛けるのも抵抗があるだろうこと。


 それを踏まえて、仕事を探していた私は、毎日惰性でテレビを見ては、その番組が始まるとスマートフォンを画面に向けて動画を撮る、翌朝にそれをひたすらノートに書き写す、という日々を繰り返していた。

 そんな中に、見たことのある少女の面影のある、釣り目の少女が映ったのは全くの偶然だった。その子どもが、携帯の写真を何とかして引き延ばしたらしい、茶髪の女の荒い写真を貼った手書きのボードを構えていたことも。


「おかあしゃんがしにました。おとうしゃん、迎えにきて……」


 ペソペソと泣き出す彼女の構えるボードの横に、どうやら彼女の親を知っている大人が書き加えたらしい癖のある文字は、記憶の底に沈んでいた見たことのある名前で。

 反射的に引っ張り出したノートには、一週間前の日付でその名前があり。翌日、実家で何とか探しだした中学生時代の連絡網と、母の記憶を綴り合わせて……この世で誰よりも憎いと思っていた女たちが死んだということ。


 次いで調べたインターネットのSNSで、彼女らが高校を卒業し、大学や専門学校を卒業し、または結婚して『まともな大人』になっていたということを知った。


 その時に感じた気持ちは何だったのか――今となっては思い出せないけれど。結果として、再びの冬が来る頃には、すっかりおかしくなった私はアパートを引き払って実家に連れ戻され。

 気づいた時にはベッドに寝転がり、興味深げに覗き飲んで来る懐かしい顔――エスと向かい合ったのだった。


※※※



「やぁ、おはようハニー。よい夜だね」

「ん、おはようエス……こんばんはかしら? 私、今日も魘されていたようね。いえ、魘されてくれてありがとうという感じかしら」

「どうやら、今日も殺され掛けたようだね。例の塩の柱たちに」

「そうなのよ。エスが起こしてくれなかったら危なかったわね。今日は腕を掴まれて、水の中にまで放り込まれる所だったんだから。このペースなら、明日はいよいよ私の入水式よ」


「子どもの頃によくやられたみたいにかい?」

「そう……そうね。そういえば子どもの頃は入水の名人だったわね。信じられる? 一月の海に着衣のままに飛びこむことになったこともあるのよ。……ちょっと待って、あぁっもう!」


「どうしたんだい?」

「思い出したのよ! 夢の中のあの女たち、自分たちはずぶ濡れで真っ白にむくんだ身体でわざわざ私のアパートまで来て私を引きずり出した癖に、自分は海に入ろうとしないのよ! なんてこと、人の根性は人の親になったり、津波で体温まで洗い流されてしまった所で代わりゃしないのよ。死んでも嫌な奴は嫌な奴のまんまなんだ! 畜生っ!」

「……」


「ねぇ、エスもそう思うでしょ? 性根の腐った女より性質が悪いものったらないわ。あの女たち、自分たちの身代わりの人柱に私を――あの子たちの物差しで見たら何の役にも立っていない私を差し出せば自分たちが代わりに生き返れるとでも思っているのかしら!!」


「ダーリン、そんなに興奮しないで……今は真夜中だから、また看護師が来てしまうよ……」

「来れるもんなら来なさいよ! 殺してやる! あいつらもそうよ。次に来たら頭から水をぶっかけてもう一回殺して――」


「いい加減に落ち着きたまえ!」

「な、何よエス……なんでいきなり、怒ったの? 私が死者を冒涜したから……」

「違うよダーリン。そうじゃないんだ……そうじゃないから、僕に君を抱きしめさせて欲しい」

「別にいいけど……でも、どうせ、前のように腕が私の身体をすり抜けるだけよ?」

「それでもだよ可愛い子。どうか、君を僕に慰めさせてくれ……もしかしたら、君は僕のことを、僕がこれから言うことで、次の瞬間には触られたくないくらい嫌いになるかも知れないのだから」


「ふふっ、なぁにそのセンスの無い冗談は。いいわ、乗ったわエス。さぁ、抱きしめさせて――いいえ、抱きしめてあげる」

「あぁ、ありがとう……優しい子。愛しい子。誰よりも優しくて繊細で、それでこの世の幽霊になってしまった、僕の大切な娘のような子」

「まぁ、大げさな言い草だこと」


「君は僕の存在をやたらと崇めるが、本当に救われたのは僕の方だった……だから、今度は僕が、君を救わなければいけないんだ」

「ふぅん。どうやって? ……あら、あなた、腕を通すとちょっとひんやりするわ。掴めないけど温度はあるのね。幽霊って。同じ幽霊でも、あの女たちと違って控えめで、海の霧のようだわ」


「そう……海の霧。あってもなくてもいいもの……あっても忘れてしまうもの。……こんなに愛しいのに。こんなに苦しんでいるのにね」

「あら、まるで呪文のようなのね。一体どんな話なの?」


「君の話さ、愛しい人。……正確には、君が仕留め損ねた敵の。あの海の街で、進学し、就職し、結婚をして子どもを作って、毎日を地に足を付けて生きていた女達から見た、君の話だ」

「……エス、分からないわ。なんのことだかわからない」


「本当は分かっているんだろう? ダーリン。彼女たちの逆恨みなんて、始めからないってこと。本当は、それを必要としているのが誰かってこと。聡明な君はもう気づいている筈だ」

「ねぇ待って? 本当に分からないの。一体なんの話をしているの?」


「だから――君の話だよ、ハニー。君を執拗にいじめ、ついに街からさえ追い出した、元少年と少女たちの物語から弾き出された、日常に埋もれた生き霊のお話だ」

「生き霊……」

「そうさ、ハニー。彼女たちは、彼たちは死ぬ前も今も、とても忙しいんだよ。子育てをして、仕事をして、友人達と集まって……その間、自分たちの罪の証である君を思い出す時間は、一体年に何回くらいだったろうね?」


「それは……」

「一方の君は、いつも彼女たちの事を考えていたんだろう? どうやって殺してやろうか、この苦しみを知って貰おうか、何でこんな目に遭わなければいけなかったのかと毎日毎日――もし、『あの日』死んだのが君だったら、彼女達を殺したいというのが最後の願いになったことだろう。だが――彼女たちはそうでもない」


「……そうでもない」

「そうさ。きっと死ぬ時に考えたのは……自殺者である僕の経験からで恐縮だけれど、きっと、家族の事、子どもの事……破ることになった約束のことだったよ。僕を憎む弟の事なんか、死んでからやっと申し訳なく思ったくらいだ。弟に死ねと言われて死んだのに、皮肉なものだろう?」


「それは……とんだ片思いなのね、憎しみって」

「そう、よく言うだろう? 愛の反対は無関心と……君は、認めたくないだろうけれど、彼女たちに認めさせたかったんだよ。自分が生きているということを、生きてても良いんだということを」

「……でも、失敗したのね。私。化けて出る価値もないから……」


「彼女たちには、だね。だから……君が毎晩見ているそれはね……幻覚なんだ。幽霊だから僕に見えないのだと君は言ったね。違う、居ないんんだ、初めから。幽霊を呪う幽霊なんて、初めから居ないんだよ」

「ふふ……そうなの? そんな覚悟で、私の事をいじめていたの、彼女たちは? それで? 私があの子たちのせいで心を病んで、幻覚に海に突き飛ばされていた間? 実際の幽霊のあの子たちは何をしていたのかしら? 子どもの心配? 子孫の反映のお手伝い? それとも、清らかな魂だから海を司る巫女にでもなったの?」


「ハニー……」

「ねぇ、その、他人を思いやれる清らかな死者たちが『身内』の心配をしたり、復興のお手伝いをしているその間、『赤の他人』の私がしていたことはなぁに? 薬を飲んで、寝て起きて、幽霊と話して……幻覚に怯えて毎晩錯乱して? 素敵じゃない。笑えるわ。役立たず。お前が死ねば良かったんだ。本当にその通りよ」


「そんな事ない! 君が役立たずだなんてこと――」

「……話しかけないでエス。もう私、今日は幽霊なんかと会話したくないの。ほんと、エスの言うことはその通りだものね。だから私、あなたが大好きだったのよ」


「……だった、か」

「今の所はね。……少なくとも今は、あなたの親切を受け取る余裕がないわ。出ていって。今すぐ消えて! エス!」

「わかったよ……僕は、いつでも仲直り出来ることを夢みているよ」

「……」

「じゃあね、愛しい子。……きっと今日からは、魘されることはないだろうよ」


 ※※※


「今日は良い天気だね、ハニー。桜が綺麗だ。ほら、そこのブラインドの端から見える。昔、一緒に庭に出て見たのを覚えている?」

「……だんまりか。それとも、見えなくなってしまったのかな。僕が。君はもう『お化け』を卒業してもいい年頃だから」


「……エス」

「なんだい? 可愛い僕の娘。今日は毛布から出て、外に出る気分になったかな」

「……そうだ、そろそろ面談の時間……」

「そうか……退院が近いんだね。ハニー。また僕は、君に置いて行かれてしまうんだ。……君は、誰かにとっての幽霊である自分に苦しんでいる娘だけれど。でもね、ハニー。君は生きている」


「……それが?」

「聞こえていたね? そう、生きているんだ。だから、これから先、こうやって僕を無視したように、死者を踏みつけにして、過去にして生きていくことができるんだよ」

「……」


「君は、生き残ったことにより、自分を幽霊にした人間に、初めて勝ったとも言えるのさ。……もう時間だね。続きは、君の退院の時にでも」

「……退院できるとは限らないわ」


「いいや、出来るさ。だって君は、もう幻覚を見ないはずだよ。津波で死んだ同級生につけ回されることはないし……ここ三日ほど、エスという架空の友達とも会話していない」

「……」


「これから、入院設備のある精神科というのは濡れ手に粟だからね。君もじきにここを追い出される」

「……もう、嫌なんだけどな。人間として生きるのは」

「でも……君はもう、幽霊には戻れないんだよ。君を社会の裏側に追いやった人間がいなくなったのだから」


 ※※※


「いいかいハニー、外に出るなら覚えておいで。君はもう、それを知ってもいい年頃だ。……もし、世の中に平等というものがあるのなら、それは、世の中の誰も彼も、美しく死ぬことが出来ないということさ。

 君も知っての通り、水死体は真っ白な塩の柱か膨れたガスに、首つりは首が折れて長く伸び、布団の上で死ねても、腸の中身は垂れ流し。眠るように老衰で死んだって、環境が悪ければあっというまに人間由来の泥になる。


 結局、善人も悪人も、醜い肉体を晒して死ぬしか無い。どんなに清らかな魂を持ってようが、肉は所詮肉なのだ。死に方に拘れるのは生者の、物を知らない子どもの特権なんだ。


 君はもう、死に方を選べない大人になってしまったんだよハニー。悲しいことだ。もう、大人になった君は、大義の為に美しく死ぬことも、復讐を果たして海に飛びこんで美しいまま死ぬこともできない。


 だからね、大人は生き方に拘るんだよ。大人になった君は、君を拒絶し、蔑んだ世界に跪き、奉仕せねば生きてはいけない。生きることとは、お金を稼ぐことであるからね。


 この優しい、時が止まった真綿のような。親の跡を継いだ藪医者が院長を務める、やたらとキラキラと純粋な目をして自分の殻に篭もる純粋な善を体現した患者達や、良くも悪くも君に無関心な看護師とに守られた優しい檻には戻ってなどこれない。


 そうして、身体の弱さを区にして死んだ前院長の兄などという『幻覚』とは、金輪際さよならをしないといけない。


 どう生きるかを考える人に、死者はただの染みでしかない。僕は……君の頭の中に居る、本当は君のことなどどうでもいいと思っている同級生のように君を呪うなんてできやしない。だから、もう戻ってこないで。君はどうか。僕は君を娘のように思っているのに、何もできない僕の惨めさを、どうかどうか分かってくれ」


「……分かったわ。分かった。本当よ。分かった。分かったの。復讐と死を結びつけない。あの子たちの中で死んだりしない。だから泣かないでエス。きっと私はお墓参りに行くわ。それで、言ってやるの。『ざまぁみろ』って。あんた達が幽霊にした私は、お前たちの分も生きていくんだってこと」


 ※※※


 私は地方にある中学に通っていた二年間、括りとしては、この病院があるのと同じ。市の沿岸の街で暮らしていた。父方の実家があった場所で……幸いにも、あの日までに祖父母も亡くなり、近しい親戚も皆、故郷を離れて生計を得ていた。


 近しくない知人――幼い頃、帰省の度に他の子どもたちとまとめてお祭りに連れて行ってくれおばさんや、正月に集まって飲食をしていた時に、自力で雪見障子を開けようとする二歳の私の代わりにそれを開けてくれた、節くれたった手の持ち主など――は、どうなったか分からない。親に聞けば教えてくれるかも知れないけれど、私はそれに関心がない。 というより、興味を持ちたくない。早く忘れてしまいたい記憶なのだ。


 あの髪がべたつく潮風の匂いも、祭りの日の船と男たちの活気も。

 ……夏休みに、海の仕事の手伝いで得たお小遣いも、中学の裏の森でやたらと鳴いた蝉の声も。


 ひったくられた鞄を一番下まで放り投げられ、最後の一段で足を滑らせて大笑いされたた私のことを守ってくれなかった、鎮守の森の苔むした石段も。


 おやつ代わりに彼女たちが囓っていた魚も、休みの日に下ろしたてのTシャツの胸にぶつけられた、ソースがひたひたに満ちた、父が子どもの頃から買い求めてきた老舗のたこ焼き。


 潮騒に溶けた耳障りな嘲笑の声も、海藻の中に突き込まれた絵の具セット、はさみでザンバラに切られた髪の毛、男なら海に出ろとからかって来た教師――。


 そういう、人情のオブラートで包まれ、事の前後も善し悪しも、気持ちも怒りも何もかもが一体になって、嘲笑と海鳴りをBGMにした記憶。あの、『怪物』たちと、いよいよ心を病んで入院するまで、転校を聞き入れてくれなった父。


 それを産み出した土壌と、それを許した小さな街とを、私はこの世界の地図からだけではなく、私の記憶からも早く消してしまいたかったのだ。


 ※※※


 切っ掛けは、私が彼女たちの憧れる都会の象徴である仙台から来たのに、少年のような格好を好み、服のブランドに疎く、男の子たちと友達になったから。


 そうして、その中で特に仲良くなったのが、2クラス3学年の中で、みんなの憧れるイケメンだったから。

 それだけで、転校の翌日から、私のあだ名は『ホモ』になった。

 今なら嫉妬だと分かるけれど、あの頃は本当に、意味が分からなかった。毎日くっついているそっちの方がよっぽどレズじゃんって言ってやることもできなかった。


 水泳の授業の終わりに、「ホモの下着だ汚い」「男は男と着替えろ」と言われながら、男子の着替える教室に下着を放り込まれて、汚い汚いと踏みつけにされた。ホモには贅沢と、鞄の中から日焼け止めや、仙台の友達とお揃いで買ったリップなんかを盗み出された。夏休みのゴミ拾いで、テトラポットの間から、特徴のあるリップケースが出てきた時、私は泣いた。その時は……まだ泣くことが出来た。


 私服で歩いていると、ホモはホモの星に帰れと、海に突き落とされ掛けたり、たこ焼きをぶつけられたこともあった。


 その様を、微笑ましげに見ていたたこ焼きやのおばちゃんを睨み付けて、「大人を睨むなんて」と父親にぶたれた。

 本当にホモか見てやると、ズボンを奪われ掛けた時にはさすがに殴り返したけれど、少年のような格好の私は、女の子に暴力を震ったというのは心証が悪くて酷く叱られた。


 ある時、体育でジャージに着替えようとして吐いて、ホモから、ゲロホモというあだ名になった。

 それからは、今まで好きだったズボンも、メンズライクなシャツも着れなくなった。


 フリルがいくつついているか、色がパステル調に見えるかが可愛い、女の子のような服しか着れなくなって、体育の時間は制服で見学することになった。


 そうすると今度は、ホモが生意気だと、休みの日、買い物の帰りを見張られて、都会のショッピングモールで買ったばかりのその服を、ショッピングバッグごと奪い取られて海に捨てられた。一月二日の、もしまだ涙が出たなら凍っただろう寒い夕方のことだった。


 欲しくもないのに、生きる為に、お年玉と小遣いを工面して買った、私を縛る美しい服は、ドロドロに濡れた。

 けれどその日着ていた服は、ショッパーを拾う為に海に入ってもっと濡れていて、真っ白い息を吐きながら、テトラポットの裏で必死に着替えて、それを着て帰った。


 一週間、高熱に魘されながら、ヘドロの絡みついた服を着せられて、真冬の浜辺で踊る夢を見た。

 化粧や髪型を整え、服が様になると、今度は服が可哀想なデブ。それを真に受け食事を減らすと親に怒られ、吐くということを覚えた。何かを否定する、何かを隠すというのは、みっともないと否定され続けた私にとっては、密かで、そして確実な快感だった。


 入院が必要と判断されたのはその時で、皮肉にも、やっと私は自由になれて、私は父と別れた代わりにエスと出会った。


 エスと私は、病気と憎しみとで繋がった、いわば父と子、母と息子のようなものだった

 エスだけが、私の遭った仕方ない悲劇に、仕方ないではない名前を付けてくれた。彼は別れ際に言った。「君の復讐が果たされて、君が戻ってくればいい」と。

 私は、それもいいなと思った。

 彼女たちに、いや、あの学校に、ガソリンを撒いて日を放つのはどうだろうと夢想した。


 ※※※


 私の髪を切った少女たちが、私の肌を笑った少女たちが、その自慢の髪と肌を炎に焼かれながら、私を突き飛ばしたあの海に向かってきりきり舞いを踊りながら商店街を駆け下りるのだ。

 そうしてペンギンのように埠頭から飛び降りる火炎に包まれた彼女たちを見送ったなら、私は――私だけは、睡眠薬をたっぷり飲んで、きりきり舞いに皆が腹を抱えている間に、穴を開けたゴムボートで沖へとこぎ出す。

 眠りに身を任せ、ゆっくりゆっくり沈んで行き――誰も居ない海底で目を開けたなら、きっとあの病院のベッドの上。

 春風に煽られるカーテンの端で、初めて私とエスは互いの温かさをしるのだろう。

 ――首尾はどうだい? ハニー

 ――もうばっちりよ。


 そんな幻想が、高校を二年遅れで卒業し、障害者雇用の工場作業で何とか生計を立てていた、夢も希望もない私の唯一の夢だった。


 その間、あの女たちは田舎特有の早さで結婚して、子どもも生まれたとSNSで知ったけれど、それでも私は、あの学校に火を付け続けた。工場で一言も喋らずレーンを見守り続け、かつての私のような不良品をはじき、仕事をミスしては作業監督の猫なで声で、赤ん坊や、善悪が分からず悪戯をした幼児のようにやんわりと叱られて。


 家に帰って、テレビを見ながらご飯を食べ、布団に包まり、段々と襲ってくる眠気の合間で、夢想の果てに、来る日も来る日も。

 そうしたら『あの日』がやってきて、少女の焼死体がきりきり舞いで列をなして下るあの海まで同じ高さの店舗と家の密集した商店街の坂も、私が船出する埠頭も。


 来る日も来る日も思い出していた私の記憶の中だけに残って、全てが波に洗われてしまった。ネットにも、ニュース記事にも、あの子たちの知り合いが載って、口を揃えて言った。「死んでしまって悲しい」と。


 同級生の下着を男子の間で回し、人の服を海に投げ捨て、持ち物を盗み、不登校の摂食障害の子ども部屋おばさんにしたような女たちに、「もう一度会いたい」と。


 それはなぜ? 私は死ななかったから。とっとと死ななかったから、善人になれなかったのだ。それを認めたくなくて、心を病んで、私はエスの元に帰り……そうしてまた、現実へと戻ってきた。


 ※※※


 今年、私はあの日から十年ぶりに、私はあの街があった更地に向かった。

 ――そう、そこは、どこまでも遠くまで、ここでは無い場所を求めた、中学生の私が憧れた、大地の彼方までが見通せる更地だった。


 鎮守の森だった丘以外、真っ白で、水平線さえも見えなかった。見えてしまうと、津波の時に心配だからと防波堤として埋め立てられたのだ。 狭い商店街も、学校も、あの雪見障子もない。真っ白な砂と緑の丘と青い空。


 鎮守の森だったはずの若木の茂る丘の上に、その真っ白な慰霊塔はあった。出来てから何年も経っているのに白い。何故白いのか。それが憎らしかった。


 その日の私はウェディングドレスのような白い、一番気に入っているワンピースを着た。海色のリボンが特徴的だった。希死概念が薄くなったと判断されて、先生からお許しが出た。首も括れる長さのリボン。手には、参道の途中で買ったたこ焼き。


 目線の先には、見覚えのある名前が、同じ名字の名前と並んでいた。子どもか姉妹か母親か……どうでも良かった。


 でも、名前があるということは、あの女たちの『不在』を証言する人間が居たということだ。

 誰かの記憶に、彼女たちは良い印象で残り、良い妻として、良い隣人として、娘として、妻として。何の罪もなく、善良に生きた女としてここに居たという記録が確かに残っている……。


 そう、この街では、度重なるいじめで、中学二年の途中で、急に頭がおかしくなってヤバい奴が入院しているという噂の山の向こうの精神病院に入院して、学校に来なくなった、私の方こそ幽霊なのだ。エスの言う通りなのだ。化けて出られるような価値も、存在感もない。それを思い知った。


 折角治ったばっかりの頭がおかしくなりそうだった。私は死んでいないのに、こいつらを悼む人間の過去だ。被害者なのに黒歴史確定だ。彼女たちが善良な死者として語り継がれる為に、存在してはいけない存在なのだ。

 なんでお前らは綺麗なままで死んだんだ。人を散々汚しておいて。


 ふと、手に持ったたこ焼きを、汚れ一つない慰霊碑に向かって振りかぶった。人の真心で磨き上げられたそれを汚してしまいたくなった。

 だけれど、私の手は勝手に、そのたこ焼きを掻き抱いた。


 ぶちゅっと、お腹の辺りでソースの潰れる音がした。続いてじわじわと腹が濡れて温まってくる感触。血のような、人の体温のような熱さがどろりと広がる感覚。


 それは、中学生の頃、まだ少年のようだった頃以来に感じた熱だった。たこ焼きを投げつけられた時に感じたもので。生理用品を隠された時に脚の間を垂れた血の温度で、海から突き落とされた時に体温で温まった海水が背中を伝う感触だった。

 それは、幼い私の、海のどこかに眠っている彼女たちの血であったに違いない。


 命を守るために手に入れた、彼女たちから心を守る為にずっと身につけていた女の子らしい服は、生ぬるい、血のようなソースで汚れた。


 そんな姿が、深く悲しんでいるように、許しを請うているように見えたのだろうか。

 観光客に呼ばれたという、麓でたこ焼きを売っていたおばさんに連れられて、屋台の前の椅子に座らせてもらった。


 こんなのでも有ればマシだろうと差し出されたエプロンを――事務的で、女らしさの欠片もない、男のようなエプロンを巻いた。

 たこ焼きを売るおばちゃんは、かつて店の前でたこ焼きをぶつけられた私を覚えて居なかったけれど、中学生にずっとたこ焼きを売っていたというような話をしていた。


「あの慰霊碑の中には、そんな子達もいるのだと。みんなまだ若くて、よい子たちだったのに」

 私は――相づちを打ちながら、出されたたこ焼きを機械的に口に運んだ。そこに、かつて同級生にたこ焼きをぶつけられて泣いていた少女という微笑ましい光景があったかどうかを。

 その子が、大人を恨みの篭もった目で睨むような、根性の悪い嫌な娘だったかを尋ねることはしなかった。おばちゃんの語る、かつての美しい海の街の回想に、一切、余計な口を口を挟まず、機械的にたこ焼きを頬張り続けた。


 ――ハニー、それでいいんだよ。


 そんな、エスの声が聞こえた気がしたその日、私はやっと、中学時代を卒業して、大人になったのだろうと思う。

 それは、十五歳から、実に二十五年が経過した、私が四十歳になる、夏の日のことだった。

こちらは地元の文学賞で落選したお話です。津波で近しい人を亡くした人間の目にも入る文学賞なので、とっても当たり前だと思います。


震災の当時、私が感じたのは『怒り』でした。

まだ立ち直れない人の尻を絆という言葉で叩く者への怒り。

その地域の『絆』から取りこぼされて孤立し、なんの生産性も無いまま生き残ってしまった人間の行き場のなさによる怒り。

理不尽で全体的な不幸が、私個人の今日はイヤな事があったとか、言いたい事を言えなかったと言った些細な不幸を塗りつぶしてくだらない事にしていく怒り。

絆を結べない人間に生きている価値はなく、全ては関東のペースで進まねばならないという事に対する怒り。


もちろん、それはこの規模のあらゆる死に対して余りにも幼稚で個人的な怒りでしたので、真っ向から発することはありませんでした。


ただ、10年目になり、「そろそろいいのかな」と思い、そこから更に角を落とした結果として出来上がったのがこのお話です。


できるだけ、『私』個人の妄想として、やんわりと、最後に救いも入れましたが、やはり今もまだ不謹慎な題材だと思います。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

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