7 やっぱり魚住くんのお兄さんは、ちょっとはっちゃけてるようだ。(猫崎桃)
青都さんに促されるように、私はレトロチックなボンネットバスに乗り込もうとした。
だが魚住くんは動かない。
「入らないの?」
「俺が中に行くと、大変なことになるから」
「……そっか」
猫がいっぱいいるところに、魚住くんが入ったら、どうなるか目に見えている。
ボンネットバスのほうをちらりと見ると、中に他の客はいないようだ。青都さんといきなり二人きりというのは、ちょっと不安かもしれない。
「あ、やっぱり入るよ。階段の柵のあるところまでなら」
まるで魚住くんが、私の気持ちを読んだみたいに、そう言って微笑んだ。
「あと……ごめん、さっき、嘘ついてた」
「え?」
「十五分じゃなくて、駅から三十分ぐらいかかるんだ、ここ」
「さ、三十分っ?」
どうりでいつまでたっても、なかなかたどり着かなかったわけだ。
「本当のことを言ったら、来てくれないかもと思って……ごめん」
魚住くんは深々と頭を下げた。
「いいよ、いいよ。そんな謝らないで」
「でも……」
「じゃあ、お詫びにお茶もデザートも、少し多めにサービスしてもらおうかな」
魚住くんの顔が、パァっと明るくなった。
「それならまかせといて。俺が腕によりをかけたデザートを用意してあるから」
「え? 魚住くんが?」
「デザートは、俺が作ってるんだ」
「うそ。本当に?」
魚住くんが同意を求めるように、ちらりと兄の青都さんの方を見ると、肯定するようににっこりと微笑んだ。どうやら本当らしい。
「そうなんだ。すごいね」
「すごくはないよ。小さい頃からご飯の用意は、俺が担当だったし。必要に迫られてしょうがなく、だけどね」
古典は得意で、英語は苦手なイケメンが、猫に好かれすぎてるだけじゃなく、料理までお手の物とは。魚住くんには驚かされてばっかりだ。設定盛りすぎというやつではなかろうか。
いろんなパラメーターが渋滞しすぎている。そんなにいっぱい特技があるのなら、一つぐらい、私に分けてくれたらいいのに。
魚住くんが小さな声で耳打ちをする。
「うちの兄ちゃんに料理を作らせると、すぐゴージャス食材を使って、家計が大変なことになるから」
やっぱり魚住くんのお兄さんは、ちょっとはっちゃけてるようだ。
「また僕の悪口言ってますね」
青都さんが睨んでいる。魚住くんが首をブンブンを横に振る。
「……というわけで、お安く美味しく作ることなら得意だよ。だいたいネットスーパーの食材の底値は把握してるし」
「うちのお母さんと気が合いそうだね。どんな節約料理が得意なの」
「グラタンとかパスタとか。洋風レシピが多いかな」
「へぇーいいなー。実はうち、和食ばっかりで。そういうのが食卓に並んだことって、生まれてから一回もないかも」
母が結婚して初めての夜に、かなり手の込んだフランス料理のフルコースみたいな洋食を作ったら、父が激怒したらしい。それ以来、我が家では和食しか作られないことになっていた。
魚住くんの家では魚が食べられないみたいに、洋食が食べられないのが、猫崎家のルールというやつだった。
「なら猫崎さんが、自分で作ればいいのに」
「そう……だね」
いくら両親が、洋食を毛嫌いしているからといって、自分で作ろうなんて考えもしなかった。
「そうだよね。その発想はなかったよ」
お弁当ぐらいなら、自分の分だけ洋食にしたって、きっと大丈夫かもしれない。
なんでこんな簡単なことに、気付かなかったんだろう。家で洋食のご飯は食べられないものだと、完全に諦めていた。思い込みというのは恐ろしい。
まるで蛇口を逆にひねってる時みたいに、本当に簡単なことなのに、目の前にあるものが、見えなくなったりもする。こんなに何気ない、たった一言が、気づきをくれることもあるんだなと驚いた。
やっぱり魚住くんはすごい。私の目の前をパァーっと開いてくれる。
どんどんエネルギーをもらえる気がする。
いつも周りにいる人は、私のエネルギーを吸い取っているみたいな人が多い。いつも小言ばかり言う母も、嫌味ばかりいうエリカも。私を弱らせるために、この世界に配置されてるのかなと思うぐらい、私の心から元気を奪う人が、いつもそばにいた。
だから魚住くんみたいに、エネルギーをくれる人といると、こんなに心地良いなんて知らなかった。
「なんなら激安お手軽レシピとか教えてあげようか」
「お願いします」
「なら、連絡先教えてもらってもいいかな」
魚住くんがスマートフォンを出す。
「ごめん。あの私、持ってなくて」
「そうなの?」
「だから自宅の電話番号になっちゃうけど」
私たちが連絡先を交換しあっていると、青都さんが間に割って入ってきた。
「君たち、仲が良いのは結構だが、そろそろ店に入ってもらえないだろうか。夏場に着物姿で外にいるのは、なかなかきついのだよ」
「だったら着物なんか着なきゃいいだろ」
「やせ我慢をするのが、粋な大人というやつでだな」
「我慢できてないなら、全然粋じゃないじゃん」
魚住くんに言い負かされて、ちょっとだけムッとした表情をしている青都さんが、屋上で見た、魚住くんの表情によく似ていた。やっぱり似た者同士の兄弟のようだ。
私と魚住くんは苦笑いをしてから、ボンネットバスの階段を上った。