5 明日のことはまた明日考えればいい。(猫崎桃)
急に会話に入ってきたのは、担任の熊野先生だった。
足音に気がつかなかった。いつの間に近くまで来ていたのだろう。
なんだか顔が怖い。まるで私たちを睨んでいるみたいに。いつもの先生と少し雰囲気が違う気がした。
だがすぐに、普段通りな優しい先生の表情に戻っていた。さっきのは逆光の加減で、そう見えていただけだったのかもしれない。
「あ、先生。実は魚住くんのおうちが、猫カフェ水族館をやってるみたいで」
「猫カフェ水族館……ですか。それはまた珍しい、不思議な組み合わせですね」
「アンティークショップが本業らしいですけど」
私が説明すると、魚住くんが眉間にしわを寄せる。勝手にペラペラと話したら、まずかったのだろうか。
つい余計なことを言ってしまうのは、私の悪い癖だ。きっと母に似たのかもしれない。
「なるほど。放課後に、交流を深めるのは結構ですが、最近はこの付近で何度も、猫の死骸が発見されたり、女子高生が行方不明になった事件も続いています。何かと物騒ですから、あまり寄り道をして、遅くならないようにね」
「はい。暗くなる前に帰ります」
私の返事を聞いて、熊野先生がにっこりと微笑んだ。
「あと、そろそろ美術室への移動をしたほうが良いのでは。もうみんな移動した後みたいですよ。また遅刻をするつもりですか?」
「あっ」
ちょうどチャイムが鳴る。いつの間にそんなに時間が。
次の授業は、熊野先生が担当する美術だ。
魚住くんは慌てて弁当箱を片付けて、屋上から駆け下りる。私も後を追うように、走り出した。
今日の美術の授業は、静物画のスケッチだった。それぞれの机の上には、花瓶や本、石像などが積み上げられている。
私たちは好きな角度を選んで、黙々とスケッチしていく。
美術を担当してる熊野先生が、みんなの絵をチェックしている。
「なかなか良い位置を選びましたね。物事には必ず、絵になる場所というのがありますから。ここぞという構図を感じ取るのも、勉強の一つです」
私は先生に褒められて、少し鼻高々になる。だが、ふと視線を感じた方を見ると、クラス委員の熊野エリカが睨んでいた。
ついさっき、先生に構図をもう少し工夫したほうが良いと注意をされていた。だから褒められている私のことが、妬ましいのかもしれない。
いつもこういうほんの些細なことで、彼女には何かと、目の敵にされているような気がする。すぐ近くにいる人間に、ずっと敵意を向けられているというのは、なかなかにしんどい。
小さく息を吐いて、絵を描くことに集中することにした。
今日の授業は静物画だが、本来の熊野先生は、人物画を描くのが得意らしい。
クラスの女子は何人かモデルを頼まれて、先生に絵を描いてもらったこともあるようだ。
私も前に何度か誘われたが、なんだか恥ずかしいからと、「その日はどうしても見たい猫の番組がある」とか「動物病院に猫の様子を見に行く日なんです」とか適当な言い訳をして、断ったことがある。
先生に絵をもらった子は、すごく喜んでいたので、少しもったいないことをしたかもしれない。
「ここはこんな風に影を入れたほうが、質感が出るかもしれませんね」
先生がアドバイスをすると、驚くほどみんな絵が上手になっていく。
私もあまり上手なほうではなかったが、先生のおかげで、少しは見られるような絵が描けるようになった。
放課後に先生に提出している、猫エッセイ漫画みたいな反省文だって、イラスト風の猫の書き方を、先生に伝授してもらったおかげで、まったく猫には見えない残念な絵を卒業することができたぐらいだ。
だが魚住くんは、先生の教えが必要ないぐらいに、とんでもなく上手な、まるで写真みたいに精密な絵を描いていた。
先生も満足そうに、その絵を眺めている。
「どこかで絵の勉強でもしていましたか」
「いえ。ただ父が、手に入れた骨董品をよく模写していたので。見よう見まねで描いてるうちに、俺も気が付いたら描けるようになってました」
「なるほど。そうですか。骨董品相手となると、細かく繊細な描写技術が要求されそうですから、良いお手本になったでしょうね」
魚住くんの絵をじっと見てから、熊野先生は優しく微笑んだ。
「とても良いお父さんからのギフトですね。大切になさい」
「……はい」
魚住くんの目が、少しだけ潤んでいる気がした。
チャイムが鳴った。
絵を描いている時間というのは、どうしてこうもあっという間に過ぎ去っていくのだろう。いつも夢中になっているうちに、気が付いたら時間が過ぎている。
そうか。さっきの休み時間が、あっという間に過ぎていったのは、魚住くんと話すのに、それだけ夢中になっていたということだ。野良猫が魚住くんに夢中になるみたいに、やっぱり魚住くんには、誰かを夢中にしてしまう、不思議な魅力があるのかもしれない。
もしかしたら、苦手な授業も、魚住くんと一緒に勉強したら、少しは短く感じられるのだろうか。できれば、あまり好きじゃない英語や数学の時間も、このぐらい早く終わればいいのに。
でもそんなことを考えていた時の私は、まだ何もわかっていなかったのだ。こうして何かを学んでいる時間が、どれだけ尊いものだったのかを。当たり前に、同じような日々が、明日もやってくるという日常が、どれだけ貴重なことだったかを。
後から知っても遅いのだ。
「では、皆さん、あまり寄り道をしないように。気をつけて、早めに帰りなさいね」
ホームルームでの熊野先生の言葉は、私に向けられているような気がした。
小学生の子供じゃないんだから。そんなに心配しなくても大丈夫なのに。もう一度釘を刺したということだろうか。だが先生というのは、心配性なぐらいじゃないと務まらないのかもしれない。
私もなるべく、早めに帰るように努力しよう。そう心に誓った。守れるかどうかは未知数だけど。
ホームルームが終わって、みんなが教室を出て行く。私が荷物を片付けるまで、魚住くんは待っていてくれた。
「なんかごめんね」
「なにが」
「勝手におうちのこと、先生に話して」
「なんで。別に全然いいよ」
「なら、いいけど」
また気を使われてしまったのだろうか。ならあの時の、先生を見る怪訝な表情はなんだったのだろう。別に気にするようなことではなかったのかもしれないけれど。
ふいに視線を感じると、またクラス委員の熊野エリカが睨んでいた。それだけではない。ほかのクラスメイトもこっちを見ている。
きっと誰とも話さなかった魚住くんが、私とだけ話していることが、許せないということなのかもしれない。もしかしたら、また明日からエリカが手を回して、さらにもっと、嫌がらせが増えるのだろうか。
だが先のことを気にしてもしょうがない。明日は明日の風が吹く。古い映画のヒロインも、そう言っていたではないか。明日のことはまた明日考えればいい。きっと今日がダメでも、明日は良い日になるかもしれない。そう信じ込むだけならタダだ。
荷物の準備が終わると、魚住くんが声をかけてくる。
「じゃあ、行こうか、猫崎さん」
「うん」
教室を出ると、並んで廊下を歩いていく。
つい『猫じゅうたん』を見たいがために、勢いで猫カフェ水族館に行くことにしてしまったけれど、放課後にクラスメイトと肩を並べて帰るなんて、なんだか久しぶりだった。
「影谷駅だっけ。隣の駅だけど、ちゃんと降りたことないかな」
「まぁ、駅周辺には、なんにもないところだから」
魚住くんは苦笑いをする。
ふいに背後から、熊野エリカの声が聞こえてきた。
「テスト前に寄り道とか。さすが、えこひいきされてる子は余裕ですね。どうせうちのパパにも、そうやって取り入って、いっつも点数を盛ってもらってるんじゃないの。不正で手に入れた一番を、母親がこれみよがしに自慢って、恥ずかしくて、私だったら死んじゃいそう」
吐き捨てるような言葉を投げつけてきたエリカが、そのままズカズカと横を通り抜けて行った。
魚住くんが怪訝そうな顔で聞いてくる。
「誰、あの子」
「熊野エリカさん。クラス委員をしてる子だよ」
「ふーん。熊野先生と同じ名字だね」
「親子だから」
じっとエリカの背中を見つめている、魚住くんの目は険しかった。
「そのエリカって子と喧嘩でもしてるの?」
「別にそういうんじゃないけど」
「ないけど?」
「私がテストでトップになって、彼女が二位になることが多いから……気にくわないんだと思う」
魚住くんが小さく笑う。
「なんだそんなことか」
「そんなことって」
「嫌味を言いたくなるぐらいに悔しいなら、努力して勝てばいいだけなのに」
「それはそうだけど」
努力して夢が叶えば、誰だって苦労はしない。いくらやっても叶わないことなんていくらでもある。だからこそ、こうして人と人の間は、常に火種が埋まっているのだろう。
知らないうちに、誰かの地雷原を踏み荒らして、大爆発なんてことも起こるのは無理もないのだ。それだけ私にとってのこの世界は、理不尽で不可思議なものでしかない。
「実力で勝てないからって、相手に嫌がらせをするなんて、そんな卑怯なやつの言うことに耳を傾ける必要なんて一ミリもないよ」
魚住くんはニッと笑いながら、頭を指差した。
「さっきのセリフを動画として記録して、頭の中に辞書を作って、『負け犬の遠吠え』っていう項目に登録しといたらいいと思うよ」
私は想像して、思わず吹き出してしまった。
「なんなら別の『負け惜しみ』とか『卑怯者』とか『みっともない』とかでもいい。彼女が嫌味を言うたびに、新しい項目の箱を作って、ポイポイ投げ入れて、全部忘れてしまえばいいよ」
エリカの嫌味たっぷりの動画が、どんどんラベリングされていくのを想像したら、なんだかシュールで笑えてきた。
「ただのゴミみたいな言葉なんだから、別にいちいち猫崎さんが傷つく必要なんてない。そのうちきっと彼女は、『残念な女ランキング』の世界一位に、君臨できるだろうね。一位になるのが大好きな彼女なら、きっと喜ぶんじゃないかな」
ずっと心の隅で、嫌な気持ちとして、重たく粘ついていたものが、なぜだかもうすっかり笑い飛ばせそうなものに変わっていた。魚住くんはすごいかもしれない。
「ん? どうかした」
「な、なんでもない」
私は心の中の辞書に、『尊敬』という項目の箱を作って、魚住くんの言葉を記録した。
心の中に、あったかくて大切なものが収められている。そう考えるだけで、なんだか足取りが軽くなった。




