3 『三回まわってワンと言え』ってどういうことだ。(猫崎桃)
魚住くんを見つけたのは、裏庭の花壇前だった。猫まみれになって、なんとか弁当を死守しようと立ち往生をしているようだ。
「ほーら、こっちに美味しいアレがありますよ」
私がチューブ状のアレをちらつかせると、魚住くんに群がっていた猫たちが、こちらに吸い寄せられてくる。
「今のうちに、そこから上に行けるから」
私が指差した方向を見てから、魚住くんは屋上への非常階段を駆け上っていく。どうやらうまく逃げ切れたようだ。
アレを堪能した猫たちが解散するのを待って、私も非常階段を登り、屋上に向かった。
屋上で弁当を食べていた魚住くんは、私の方を見ると、突然立ち上がって、叫んだ。
「来るな」
「え?」
「三回まわってワンと言え」
「はい?」
しばらく沈黙が続いた。
魚住くんは真剣な顔をしている。ふざけているつもりはないらしい。
「三回まわってワンと言えっ!」
「だから何を? 大丈夫?」
魚住くんの体から、一瞬なぜだか、揺らめく炎のようなものが見えた気がした。目をこすって、もう一度見たときには、もう見えない。なんだったんだろう。
「……まさか、俺の言葉が効いてないのか」
「いや、だから聞いてるけど」
魚住くんは、ホッとしたように座り込んだ。
「なんだ、よかった。君は、俺の言葉が効かない体質らしいな」
「聞かない体質?」
何を言っているのか、さっぱりわからない。もしかして話を聞けない、残念な子だと馬鹿にされているのだろうか。
とりあえず今の魚住くんは、ちゃんと普通に喋ることができるようだ。でも、いろいろと解せない。『三回まわってワンと言え』ってどういうことだ。意味がわからなさすぎる。
私が首を傾げていると、魚住くんは、はにかんだように笑う。
「ちゃんと挨拶してなかったな。魚住茜音だ。助けてもらってありがとう」
「……どういたしまして。猫崎桃です」
魚住くんは頭をかきながら、困ったような顔をした。
「えーっと、朝は、俺のせいで、遅刻させちゃったみたいで、ごめん」
「全然大丈夫。いつも猫トラップに引っかかってる遅刻常習犯だから、問題ないよ」
「それはそれで、問題があるような……」
「大丈夫、大丈夫。遅刻はするけど、学校は一日も休んだことがないし。少しぐらいの熱があっても、気合いで来ちゃうから」
「そう……なんだ。あんまり無理しないほうがいいと思うけど」
「これは単なる意地なの。休んだら、負けた気がするから」
「負けた気がする?」
「あ、なんでもない。気にしないで」
きっと休んだら、もう二度と行けなくなるんじゃないか。そう思っていたから、私は意地でも学校に通い続けている。エリカの嫌がらせのせいで、学校を追放されるなんて、ごめんだからだ。
こちらは間違ったことをしていないのに、なんで逃げなきゃいけないのか。理不尽なことに屈するつもりはなかった。お母さんの繰り出してくる、お小遣い半額攻撃に比べたら、物理的な被害がない分、まだマシだ。
「まぁとにかく、朝も、さっきも助かったよ。ありがとう」
「こちらこそ、とても良い『猫じゅうたん』を堪能させてもらって、楽しかったよ」
「ねこじゅうたん?」
「猫が絨毯を敷き詰めたように集まってるというか。ほら、猫集会をしてる公園とか、日向ぼっこしてる猫がいっぱいいる車のボンネットとか」
魚住くんが頭の中で思い浮かべているのか、視線が上に飛ぶ。
「うっかり遭遇したら、『猫メーター』が、ぎゅんぎゅん補充されそうな場所とか、そういうところのことです」
「猫……メーター?」
「辛い時に猫を見てたら、ほんわかして満たされて、少しだけ幸せになれる感じが、メーターが上下してる感じに近いかなとか」
やばい。魚住くんの視線が、変な人を見る感じに、若干だが変わった気がする。
「つまり、その、猫が絨毯みたいに見えるほど、いっぱい集まっているところを、『猫じゅうたん』と、自分が勝手にそう呼んでるだけの話なんだけど」
「でもそれだと、知らない人が聞くと、猫柄の絨毯みたいに聞こえるというか」
「そうなんだけど、なんか言いやすさで、いつの間にか、自分の頭の中では『猫じゅうたん』になってたというか。言葉の響きで、最後に『たん』ってなるのも、なんか可愛いかなって思えて」
しばらく沈黙が訪れた。
また、やってしまったかもしれない。つい焦って早口で説明をしてしまい、余計に怪しさが上乗せされていそうだ。
魚住くんが急に吹き出すように笑った。
私は慌てて、打ち消そうとする。
「あ、ご、ごめん。やっぱ変だよね。今のは全部、いろいろ忘れてください」
「じゃあ、記憶消すために、俺のことを一発ぐらい殴っておけば?」
「そ、そんなことしないよっ」
思わず大きな声を出してしまった。どんどん怪しい人になっている気がする。
私も変なことを言いすぎたかもしれない。今日出会ったばかりの人に話すようなことではなかったようだ。少し調子にのりすぎた。恥ずかしい。もしここが屋上じゃなければ、土を掘って穴に入るのに。
「あるよな、そういう自分の頭の中だけの、謎変換ってやつ」
「魚住くんも……あるの?」
「俺は英語の教科書で、『Mike』ってやつが出てくる度に、三毛猫のイメージが浮かんでしょうがないから、もう諦めて頭の中では、ずっと『ミケ』って読んでたんだよ。そしたら、音読を当てられて」
「まさか」
「そう。みんなの前でも、うっかり『ミケ』って読み上げちゃって、すげー恥ずかしい思いしたことがある。さっきの授業も、『Mike』って登場人物がいたから、かなりやばかった」
たどたどしいカタカナ英語を思い出して、ちょっと吹き出しそうになるのを必死にこらえる。まさかそんな攻防が裏であったとは。
「だから英語って苦手なんだよ。見た目と音が違いすぎる。法則もむちゃくちゃだろ」
「まぁ……そうだね」
日本語も結構な当て字があるけれど、そこは突っ込まないでおくことにした。自分も英語は苦手で、その気持ちはよくわかるからだ。
「誰でも頭の中だけで、変なことを考えてるのは、あるある系だよなってことで。だから猫崎さんも、俺の前では『猫じゅうたん』が正式名称ってことでいいよ。つーか、俺も使わせてもらおうっかな」
魚住くんは、ニッと笑う。
もしかして気を使ってくれたのだろうか。わざわざ自分の恥ずかしいエピソードを晒して、私のやらかした感じを、中和してくれたのかもしれない。
なんか恥ずかしい。でも嬉しい。なんだろうこの、胸の奥で、すごいあったかい感じがする。ドキドキするのに、ほんわかとしてる。猫を見ている時の幸せな感じと、なんだか似ている気がする。猫以外の人間に、こんな不思議な気持ちは、味わったことがない。
どうしよう。もっと魚住くんのことが知りたい。こんなに気になる男子は初めてかもしれない。
「朝も、さっきも、すごいもふもふっぷりだったけど、魚住くんって、なんであんなに猫にすごい人気なの?」
「人気というか……ただ寄ってくるというか。そんなに魚臭いのかな」
魚住くんは、くんくんと腕を匂っている。
「家が魚屋さんなの?」
「違う」
「じゃあ、魚料理が好きだとか?」
「いや食べたことない」
「えっ」
びっくりした。そんな人いるのか。
「一度も?」
「うん」
「アレルギーか何かなの?」
「まぁ、そんな感じかな。うちはみんな魚が食べられないというか、食べたらダメなしきたりがあるというか」
魚住家のルールということなのだろうか。うちの食事も和食ばかりで、洋食が食卓に並んだことがないのと、同じようなものかもしれない。
魚住くんが死守していたお弁当にも、入っていたのはハンバーグや唐揚げ、ポテトサラダや卵焼きなどだけで、魚類は入っていなかった気がする。
「なら何が原因で、あんなに猫が寄ってくるんだろうね」
「むしろ、俺が聞きたい。なんでこんな変なことになってるのか。わけがわからないよ」
魚住くんは腕組みをして、少し考えてから言う。
「まぁたぶん……十五歳の誕生日を過ぎたあたりから、急にオス猫に狙われるようになったんだよな。避けようのない宿命というか」
「避けようのない宿命って……もしかして、中二病の世界の人ですか」
「いや、嘘じゃなくて、本当に避けようのない宿命なんだよ」
「でも世間ではそういう子は、左手に謎の力とか宿しちゃってるんでしょ」
「や、宿してないし。いいよもう。どうせ信じてもらえないし」
ムッとした顔の魚住くんも、なかなかのイケメンだ。彼に吸い寄せられる猫たちは案外、面食いなのかもしれない。オスだけど。私もちょっと吸い寄せられそうになっている。苗字に猫が入っていると、似た性質があったりするのだろうか。
「ごめん、ごめん。じゃあその宿命ってやつのせいで、猫だけにわかる、何か良い匂いがするんだよ、きっと」
「うーん」
魚住くんは首を傾げている。私も無意識のうちに同じように首を傾げていた。
「あ、でもうちの店、大きな水槽があって。熱帯魚がいっぱいいるんだけど、たまにその水槽にぶっこまれることがあってさ。兄ちゃんのせいというか、俺のせいでもあるんだけど」
「なかなか……豪快なお兄さんだね」
水槽の掃除で落ちるとかならわかるが、ぶっこまれるという状況がよくわからない。何かおいたをして、お仕置きされるみたいなものなのだろうか。
「っていうか、魚住くんのお家、水族館なの?」
「あえて言うなら、猫カフェ水族館……風のアンティークショップ……兼まじない絵師の店かな」
「猫カフェ水族館……風のアンティークショップ……兼まじない絵師の店?」
いろんな情報が渋滞しすぎている。どういう店なんだろう。お店の内装を想像しようとしたが、さっぱり思い浮かばない。っていうか、まじない絵師ってなんだろう。聞いたことがない職業だ。
「あの、ちょっと、よくわからないんだけど」
「俺もよくわかんない」
魚住くんは苦笑する。
「元々は父さんが、レトロチックなボンネットバスを改造して、全国を渡り歩く移動式のアンティークショップをやってたらしくて」
「へぇ、なんか謎の旅人っぽくて、格好いいね」
「だろ?」
魚住くんは、少し誇らしげに笑う。
お父さんのことを尊敬しているのだろう。とても良い表情をしている。きっと魚住くんに似て、背が高くて、色白のイケメン外国人だったりするのだろうか。
少し羨ましいと思った。
うちの父は小さな会社の社長をしているが、家の中では威厳のかけらもない、ただの中年太りのビール腹のおじさんだ。たまに取れた休日もソファーでゴロゴロして、いつも母に掃除の邪魔だって、邪険にされてるような、いかにもな残念系おじさんだった。
けど、今は父のビール腹のことは忘れることにした。もしかしたら父だって、私みたいな、クラスの女子に無視されているような空気系女子より、目も覚めるような、金髪碧眼の美少女のほうが良かった、なんて思っている可能性もあるからだ。
現実世界では、トンビがタカを生むなんてことは、まぁ滅多にないのだから、お互い様というやつだろう。




