27 夢じゃないよ。だから二度と言わないで。俺にさよならなんて。(猫崎桃)
夏休みに入ってからはずっと、山の上に登って、高台にある広場から、街を眺めるのが、私の日課になっていた。
この場所を選んだのは、あの猫カフェ水族館があった広場に、少しだけ似ていたからだ。
そろそろ魚住くんは目を覚ましただろうか。お兄さんの話では、回復するまで、一週間ぐらいはかかるかもと言っていた。
あの日から私はずっと、魚住くんのことを考えている。
どうか無事に目を覚ましますように。
また猫に追いかけられて、走り回れるぐらいに、魚住くんが、ちゃんと元気になりますように。
毎日のように、この場所に来て、祈り続けていた。
ここに来た時だけじゃない。
街中で金髪の人を見るたびに、魚住くんのことを思い出し、突風に見舞われるたびに、絵式神の銀羅と灰羅が、いたずらをしているのではないかと考えてしまう。
いつだって、いるはずのない魚住くんの気配を探していた。
自分からさよならを、手紙に書いておいて、未練がましいなとは思う。
けれど今の私にできることは、祈ることぐらいだ。
「やっと見つけた」
ふいに空から声が降ってきた。
てっきり魚住くんのことを考えすぎて、幻聴でも聞こえているのかと思った。
声のしたほうを見上げると、魚住くんが空を飛んでいた。金髪碧眼ではなく、黒髪黒目になっているが、紛れもなく魚住くんだった。
信じられなかった。
あの日のように、私はまた夢を見ているのだろうか。
ゆっくりと着地した魚住くんは、手を差し出した。
「迎えに来たよ、猫崎さん」
「どうして、ここが」
「赤獅子が君の匂いを覚えていたから」
急に目の前に姿を現したのは、燃えるような赤いフサフサの体をした、大きな獣だった。
あの日、私が見たのは、幻ではなかったのか。
すごい。フワフワのもふもふが、魚住くんと一緒にいる。
「なんて立派な『猫じゅうたん』……」
盆と正月が一緒に来たようだというのは、このことか。
「その顔が、見たかったんだ。猫好きな猫崎さんなら、きっと赤獅子のこと、気に入ってくれると思ってた」
魚住くんが笑っている。
私を何度も幸せにしてくれた、あの笑顔だ。
これまでずっと溜め込んでいた、魚住くんに会いたいという気持ちと一緒に、涙が溢れ出して、止まらなくなった。
私は嘘つきだ。
魚住くんとさよならなんて。やっぱり無理だ。
「さぁ、一緒に行こう。猫カフェ水族館に」
魚住くんに手を引かれ、赤獅子と呼ばれた獣に跨った。
「すごいフワフワ」
「だろ。意外にフワフワなんだ」
「あまり変なところを触るなよ、小娘。それに我は立派だが、『猫じゅうたん』ではない。赤獅子だ」
そう言った赤獅子が、後ろ足を蹴り上げると、ふわりと空に舞い上がる。
「そ、空、飛んでるよ」
「落ちないように、しっかり掴んでて」
赤獅子の背中は暖かくてフワフワで、乗り心地がとても良かった。
「また魚住くんと会えて、こんな風に空を飛ぶなんて。夢みたい」
「夢じゃないよ。だから二度と言わないで。俺にさよならなんて」
ぎゅっと後ろから抱きしめられた。
「もう一度だけなんて言わずに、何度でも、ずっと俺のそばにいてください」
赤獅子がグルルと喉をならず。
「我には言わぬのに、この小娘には言うのか」
赤獅子が急にぐるりと宙を回った。
振り落とされそうになった私の体を、魚住くんが必死に支えている。
「しょうがないだろ。父さんの偉大なる愛の教えなんだから」
「これだから人間は、すかんのだ」
「俺は好きだよ。赤獅子のこと」
「ふん、どうせ我はいつも二番手だ。都合のいいメスというやつだからな。まったくもって、自分勝手なやつらよ。ほれ、もう着いたぞ」
赤獅子が急降下して、広場に着地する。
レトロチックなボンネットバスの前で、青都さんが手を振っていた。
「おかえり、猫崎さん」
そばには、少し不服そうな顔をした、絵式神の銀羅と灰羅もいる。
「ほら、銀羅と灰羅も、お出迎えの挨拶、練習しただろ」
「ようこそ」
「猫カフェ水族館へ」
銀羅と灰羅は、青都さんに促されて、しぶしぶという様子で、挨拶をしている。あまりにも棒読みで、思わず吹き出してしまった。
「ごめんね。あの日は、肝心な時に僕が力尽きちゃってね。銀羅と灰羅は途中からお留守番で、自分たちより赤獅子ばっかり活躍したもんだから、ずっとご機嫌ななめみたいなんだ」
青都さんは苦笑している。
「遠いところを、大変だったでしょ」
「いえ、ちょっとびっくりしたけど、フワフワのもふもふで最高でした」
「それは良かった。じゃあ、立ち話もなんだから、どうぞ中へ。猫崎さんがお待ちかねの猫店員だけじゃなく、ちゃんとガトーショコラも用意してありますからね」
「ありがとうございます」
「その言葉は、猫崎さんの手紙を読んで、ビービー泣いてた、茜音に言ってやってください」
魚住くんが慌てた様子で、青都さんを睨んでいる。
「ビービーとか泣いてないから」
「でも、泣いてたよね」
「ちょ、ちょっとだけだよ。っていうか、バラすなよ、もうっ」
相変わらず仲が良い兄弟のようだ。
青都さんが、私のほうをチラッと見た。
「ほらほら、お客さんを待たせたら、ダメじゃないですか」
「誰のせいだよ」
文句を言いながらも、魚住くんが先にボンネットバスに入ると、猫たちが一斉にわらわらと近寄ってくる。
後部座席の水槽の前に、魚住くんが座った。隣の席をトントンと叩いて、私を見る。
「どうぞ、たっぷり『猫じゅうたん』を堪能してください」
「じゃあ、お言葉に甘えて。『猫メーター』を充電させてもらいます」
私は魚住くんの隣に座った。
魚住くんに群れていた猫が、うっかり私のほうにもやってくる。私の周りも、もふもふだらけになった。とても良い『猫じゅうたん』だ。
「じゃあ、俺も『猫崎さんメーター』を充電させてもらおうかな」
魚住くんが私の手を握った。
初めて繋いだあの日と違って、今日の魚住くんの手は暖かかった。人魚の呪いが解けたおかげなのだろうか
「じゃあ、私だって『魚住くんメーター』を充電しますよ」
私もぎゅっと魚住くんの手を握り返した。
ガトーショコラとコーヒーを持ってきた青都さんが、ニコニコ笑っている。
「君たち、マッチポンプにも、ほどがあるんじゃないですか。その充電とやらに、僕も混ぜてもらおうかな」
私たちの間に、無理やり座った青都さんは、なぜか魚住くんの手を握った。
「なんでそっちなんだよ。おかしいだろっ」
「だって、猫崎さんと手をつないだら、茜音が怒るでしょ」
「そうだけども。だからって、なんで俺とつなぐんだよ」
「女性にうつつを抜かすと、赤獅子に嫌われるから、これからは兄弟愛を極めてみようかと」
「は?」
「茜音、猫崎さんと会えなくて寂しい時は、僕のことを猫崎さんだと思って、ぎゅっとしていいからね」
「意味がわからないよ、この変態っ」
「おしめも替えたことのあるお兄様に向かって、変態呼ばわりとはこれいかに」
青都さんは魚住くんに、猫をポイポイと投げては、笑っている。
「もうやめろって」
猫まみれになりながらも、魚住くんも笑っている。
仲が良さそうな二人を見ているだけで、とても幸せな気持ちになった。
しばらくして青都さんがお開きというように、パンと手を叩いてから、席を立った。
「さて、そろそろ、猫崎さんに見てもらいたい商品があってですね。そうだ、その前に、これ、君のお家で茜音が拾ったのを、渡しそびれていたから」
青都さんは猫のオルゴールを差し出した。
猫の瞳の部分は、今はもう元どおりの青い色をしている。
「ありがとうございます……あっ」
ふいに猫のオルゴールの代金を払ってないことを思い出した。
「どうしたの?」
私は慌ててポケットを探る。財布の中身を確認したが、ちょうど猫グッズを買ったばかりで、四百九十円しかなかった。また十円だけ足りない。
「ごめんなさい。また今度来た時に払います」
青都さんがにっこりと笑う。
「夏休みの間、うちでバイトでもしますか」
「バイト?」
「メーター的なものだけじゃなく、お金も貯められて一石二鳥ですよ」
私は思わず二つ返事をしていた。
「や、やります。やらせてくださいっ」
急に立ち上がったせいで、膝の上に乗っていた猫たちが、不服そうにニャーと鳴きながら、飛び降りた。
「ご、ごめんっ」
クスッと笑った青都さんが、指を一本立てた。
「なんなら、一部屋ぐらい空いてますし、住み込みのバイトでもいいですけど」
「す、住み込みっ?」
魚住くんが飲んでいたコーヒーを吹き出した。耳まで真っ赤になっている。
私だって、一瞬だけど、魚住くんと暮らしている姿を妄想してしまって、カッと体が熱くなった。も、もしかしてお風呂とかで、うっかり鉢合わせ、なんてこともあったりするんだろうか。
「冗談ですよ。さすがに年頃のお嬢さんを、王子様の皮を被った狼と一緒に、寝泊りさせるわけにはいきませんし」
「王子様の皮を被った狼ってなんだよっ」
魚住くんが速攻でツッコミを入れる。
「猫崎さんと、うっかりお風呂で、鉢合わせになったらどうしよう……みたいな、妄想したでしょ」
「し、してねーしっ」
すみません。私、一瞬だけど、その妄想してしまいました。でもなんだか魚住くんも、少し頬が赤いような。
青都さんは私たちを見て、ニコニコしている。
「ほら、よだれ、たれてますよ」
「たれてねーからっ」
相変わらず魚住くんをからかって楽しんでいるようだ。
青都さんが、手毬と戯れていた赤獅子のほうを、ちらりと見る。
「赤獅子、これからは猫崎さんの送り迎えを頼みましたよ」
「まったく猫使いの荒い一族だな。おい、小娘。お駄賃代わりに、我を撫でよ」
赤獅子が私の前にやってきて、床に寝そべった。
「いいの? いっぱい撫でても」
「しのごの言わずに、とっとと撫でよ。我が良いというまでな」
「じゃあ、失礼します」
私は恐る恐る赤獅子を撫でた。フワフワの毛がもふもふで、もう最高だ。
「まぁまぁだな」
赤獅子はグルルと喉を鳴らす。
魚住くんがこっそり耳打ちしてくる。
「俺たちには、ろくに触らせてもくれないんだよ。だからこれ、ものすごく褒めてるから」
これから送り迎えをしてもらう赤獅子に、少しは気に入ってもらえて良かった。
「そうだ、ずっと猫崎さんに言おうと思ってたんだけど」
魚住くんがじっと私の目を見てきて、ドキッとする。
何を言われるんだろう。まさか。まさかこれって。
「他の人の前では、あんまりしないほうがいいと思うよ」
「しないほうがいいって、何を?」
「その……『べーっくしょい』っていう、おじさん臭いくしゃみ。まぁ、俺は……可愛いと思うけど」
固唾を飲んで見守っていた青都さんが、あいたたという表情をしている。
私も恥ずかしくて、ここがバスの中じゃなければ、穴を掘って潜りたい気持ちでいっぱいだった。
「き、気をつけます」
でも可愛いって言ってもらえたし。それでよしとしよう。
青都さんがにっこりと笑う。
「さて、我が弟の茜音くんが、残念なポンコツ男子だと判明したところで」
「誰が残念なポンコツ男子だよっ」
「じゃあそろそろ、若者には働いてもらおうかな。そうだ。ちょうどいい。猫崎さんにも手伝ってもらえばいいんじゃないかな」
「手伝うって、何をですか」
「茜音と一緒に作ってもらいたいんだ。ガトーショコラ三十個」
「さ、三十個っ?!」
「おい、猫崎さんまで巻き込むなよ」
魚住くんが困ったような顔をしている。
「猫崎さん、やめといたほうがいいよ。十個でも大変だったのに。三十個なんて地獄だよ」
魚住くんの嫌そうな表情を見て、青都さんは満足げに微笑んでいる。
「ちゃんとバイト代を出しますよ。今なら特別に、猫モチーフの骨董品も、超お買い得のお値段でサービスしときますよ。猫崎さんが好きそうな、いいやつが手に入ったんです」
やっぱりこの人、とんでもなく人を上手いこと使い倒す、極悪人なのかもしれない。
だが、超お買い得のお値段なんてことを言われたら、断れるわけがないじゃないか。
「が、頑張りますっ」
あれほどずっと、夢見ていた幸せが、今、目の前にあるのだ。ガトーショコラ三十個ぐらい、なんてことはない。
少しぐらい大変でも、私はもう二度と、自分の人生を諦めないことにしたのだから。
だから、もう二度と言わない。さよならなんて。
あの日、死ぬかもしれないと思った時に、ずっと励ましてくれた、魚住くんのお父さんの言葉を思い出していた。
『お前の人生だ。自分で決めろ』
そうだ。私の人生は、私が決める。
どこに生まれるかは選べない。
けれど、どう生きるかは、自分で掴み取ることができる。
自分で決めて、しっかりと歩みだした道には、素敵な未来が広がっているはずだ。
魚住くんと一緒に、すべてのガトーショコラを焼き終えた時には、身体中がチョコレートの甘ったるい匂いで充満していることだろう。大好きな人と同じように、美味しい匂いがするなんて、それだけで幸せなことに違いない。
きっと今年の夏は、忙しくて素敵な夏になりそうだ。




