☆25 俺はまぎれもなく、父さんの息子だ。(魚住茜音)
「では、解放の儀をしてくれぬか」
「……わかった」
巻物を開き、封印を解除するための術を唱える。
絵の中に写し取られていた赤獅子の魂が、巻物から剥がれるように宙に浮く。
剥がれた赤獅子の形が、炎になって燃え尽きると、赤獅子の首に枷のように付けられていた、炎の鎖も焼け落ちた。
「おぉ、これですっきりしたな」
首の周りを、後ろ足でかきながら、赤獅子がガハハと笑う。
赤獅子が見上げた夏の青空は、色が濃い。真っ白な入道雲とのコントラストが美しかった。
「どこかに行っちゃうのか」
遠い目をしている赤獅子に、俺は尋ねた。
「せっかくお前の力を、ちゃんと使えるようになったのに。寂しくなるな」
赤獅子がこちらを見た。
「……なんだ引き止めぬのか」
「だって、自由になりたかったんだろ。何百年もずっと縛られて、我慢してたんじゃないのか」
赤獅子が前足を舐めて、まるで遊びに飽きた時のような、ムッとした表情を見せていた。
「まったく、おぬしら一族は、本当に女心の分からぬやつらばかりだな」
「女心? ってお前、メスだったのかよ」
「そんなことも知らぬのか? 我にアレはついておらぬだろう」
口調と野太い声のせいで、てっきりオスだと思い込んでいた。改めて確認したら、確かについてなかった。
兄が小さく笑う。
「茜音はそういうところ、本当に疎いよね。僕は三歳の時から、相手が愛でる相手であるかどうかのセンサーは、完璧だったからね」
「うるさいなっ。兄ちゃんみたいな変態と一緒にすんな」
兄は真顔で答えた。
「知らないのか。変態呼ばわりするやつのほうが、変態だという法則を」
「そんな法則ねーよっ」
「いつまで、おぬしらの戯言は続くのだ。我は話の途中だったのだが」
赤獅子が低く唸るように鳴く。たしたしと大きな尻尾を床に打ち付ける。ガチで怒っている時の仕草だ。これ以上怒らせると、面倒なことになる。素直に謝っておいたほうがいいだろう。
「……すみません」
「わかれば良い」
イラついた気持ちを落ち着けようとしているのか、赤獅子は体をしばらく舐めてから、話を続けた。
「茜音にオス猫が、やたらと寄り付いておるのも、我のフェロモンのせいだからな」
「そうなの? てっきり人魚の呪いのせいだと思ってたのに」
「十五の時、急におぬしの眠っていた、まじない絵師の能力が覚醒したのは、発動した呪いをはねのけるためだ。急に強くなった力を、まだうまく制御できていなかったのだろうな。心の弱き者を、言葉で操ってしまうようになったのも、そのせいだろう」
俺がクラスメイトを言葉で殺しかけた、あの瞬間を思い出した。未だに夢に見ることがある。きっと一生あの記憶は消えないだろう。忘れてはいけない。絶対に。
「おぬしの力は、自己防衛のために、常に暴走しているようなものだった。そうでないと、呪いに飲み込まれて、死んでしまう状態だったからな。ゆえに我の力も強く外に出るようになってしまった。漏れ出した我のフェロモンに、オス猫どもが群がっていたわけだ」
「そう……だったのか」
どうりで人魚の呪いが解けたのに、未だに猫たちが寄ってきていたわけか。
「僕はそうじゃないかなと思ってましたけどね」
兄が澄まし顔をしている。
「だったら教えてくれたらよかったのに」
「理由がわかったところで、根本の原因である、人魚の呪いが解けなければ、どうしようもなかったのは事実ですし」
「それはそうだけど」
なんか猫崎さんに宿命とか、恥ずかしいことを言ってしまったじゃないか。
カッと顔が熱くなる。
「茜音、どうかしましたか」
「いや、なんでもないから」
怪訝そうな顔をした兄が言う。
「猫カフェにしたのも、オス猫をはべらせておくと、赤獅子の機嫌が良くなって、少しは能力が安定するみたいだから、茜音のためにやってたんですから。少しは感謝してくださいよ。できることなら、物理的なお礼がいただけると嬉しいですね」
兄がにっこりと笑う。その笑顔がなんか怖い。
なんだろう。また労働で払えと言われるのだろうか。俺の体は持つだろうか。
「まぁ、そんな茜音の猫寄せ体質など、我にとってどうでもいいのだが」
「どうでもいいことないだろ。赤獅子のせいなんだし」
「我のせいではない。おぬしが力を制御するのが、まだまだ下手くそなせいだ。とっとと我のフェロモンのだだ漏れを押さえられるぐらいの、まともな力を身につけよ」
「……すみません」
俺はぐうの音も出なかった。
赤獅子は話を続ける。
「ともかく一番悪いのは、我を初めて使役して、赤獅子という名をつけて、我を契約で縛った、あのまじない絵師の男だ。我のことをあんなに可愛がっておったくせに、人魚の娘なんぞに、うつつを抜かしおって」
「はい?」
「あんな魚臭い女より、我のほうがフサフサで、もふもふで絶対に可愛いのにっ」
俺たちは今、一体なんの話を聞かされているのだろうか。
恋愛というのは自由かもしれないが、いくら異種格闘技的だとしても、まじない絵師と人魚と赤獅子の三角関係とか、あんまりにほどがあるのではなかろうか。
「だがやつは言ったのだ。自分の命をかけても、人魚の娘を助けると。あの日のおぬしのようにな。だから仕方なく、我は二人の逃走を手伝ってやったのだ」
俺が猫崎さんを助けようとした時に、二人目と言われたのは、そういうことだったようだ。
「しかもあの人魚の小娘、魚のくせに、猫に興味があるなどと抜かして、無邪気に我に近寄ってきおって。おかげで我のよだれが、いつも大変なことになるゆえに、エサの魚すら食べることを禁止されたのだぞ。まったくもって迷惑な話だ。そこまで我は譲歩していたのに」
赤獅子はイライラした様子で、尻尾をビターン、ビターンと何度も床を打ち付けている。
「あの男、もう我に面倒はかけたくないからなどとぬかしおった。どうせ、二人きりになりたかっただけであろうに。まじない絵師の兄弟に従属しろと突き放され、皆に二人が死んだと信じ込ませるために、我に嘘の言付けまで頼みおって。何重にも裏切られた気分だった」
自分がやったことではないのに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「それはなんというか……大変だったね」
「我はいいように利用されて、捨てられたのだ。まったくこれだから人間というやつは、すかんのだ。自分勝手で傲慢で、都合の良い時だけ我を利用しおって」
赤獅子は当時のことを思い出しているのか、険しい顔でガルルと唸っている。
俺はしばらく躊躇してから、赤獅子に聞いた。
「やっぱり恨んでるのか、まじない絵師のこと。滅んでしまえばいいと思うくらいに」
「そのようなことを本気で思っていたのは、昔の話だ。何百年も仕えてきて、そう悪くないまじない絵師がいるのも、少しは知ったからな」
「そう……なんだ」
少しだけホッとした。その悪くないまじない絵師とやらに、自分が入っているかどうかは、わからないけれど。
赤獅子の目の前に、ほかの猫たちが遊んでいた手毬が転がってきて、ふいに赤獅子の表情は和らいだ。元の飼い主が作ってくれたという手毬だ。さぞかし大事な思い出が詰まっているのだろう。懐かしんでいるようなその表情は、とても優しかった。
「やはり忘れられぬのだ。あれほど我を撫でるのが上手な者は、元の飼い主と、あのまじない絵師の男以外、他には知らぬ」
俺たちに撫でられるのを嫌がっていたのは、大切な人に撫でられた記憶を、下手くそな撫で方で、上書きしたくなかっただけなのかもしれない。それだけ俺たちの撫で方では、全然なってなかったということだろう。
赤獅子は俺の目をじっと見た。
「おぬしも少しは、あの猫崎とかいう小娘の命を救った我に感謝して、『ずっとそばにいてくれ』ぐらいの言葉を言えんのか」
「言って欲しいの?」
「みなまで言わせるな。馬鹿者。まったく不愉快だ。機嫌取りでもしたらどうだ」
赤獅子はそっぽを向いて、グルルとだけ喉を鳴らした。
俺は恐る恐る、赤獅子の体を撫でた。
「そこではない。もっと上だ。違う。そうじゃない。この下手くそめが」
やっぱり俺にはまだまだ、修行が足りないようだ。
「そういえば、おぬしが寝ている間に、猫崎という小娘から聞いたのだが」
「猫崎さんと会っちゃったのかっ」
「いや、青都と話していたのを、姿を隠したまま聞いていただけだが」
少しだけホッとしていた。夢ではなく現実だとわかった上で、初めて赤獅子を見た時の猫崎さんの表情を、見逃さずに済んだようだ。
だが今後、その機会があるかどうかもわからないけれど。
「別れの選別に、バスの前におる娘に、こっそりと我が近づいて、猫まみれにしてやったら、泣きそうな顔で喜んでおったぞ」
どうやら赤獅子なりに、少しは気を使ってくれたようだ。
「あの女が言うには、猫島という場所があるらしい。猫だらけのパラダイスだそうだ。バイトをしてお金を貯めて、猫島に遊びに行くのが、夏休みの目標らしいぞ」
「へぇ、そんな計画をしていたのか」
さすが猫好きの猫崎さんだ。
「我も自由になった記念に、その猫島とやらに行って、我のフェロモンで、下々のオス猫をはべらせるのも良いやもしれぬな」
「どんだけはべらせたいんだよ。俺を散々猫まみれにしておいて、まだ足りませんか」
「愛情に上限などない。お前の父親も言うておったろうが」
まったく。父は絵式神にまで、愛を語っていたのか。とんでもない愛の戦士だ。
「だいたいさ、自分は良くて、兄ちゃんには女にうつつを抜かしてるって、非難するのはおかしくないか」
「しょうがないであろう。我はモテモテでないと、いざという時に大きな力が出ぬのだ。だから日々オス猫をはべらせて、妖力を補充しておるだけだ」
猫崎さんの『猫メーター』を補充するというのと同じようなものなのだろうか。
その猫島は、猫崎さんにとっても、パラダイスなのだろう。きっと『猫じゅうたん』をいっぱい堪能できると、大喜びするに違いない。
彼女の笑顔を思い出したら、胸がぎゅっと苦しくなった。
「あの小娘は、かの者と人魚の娘と似た匂いがする。ほんのわずかだがな」
「似た匂いって、まさか」
「もしかしたら、生きながらえたあやつらの子孫かもしれぬ。あの小娘が猫好きの変人なのも、猫好きのまじない絵師と、人魚の娘の血が、多少濃く出ているせいなのかもしれんぞ。それだけではない。言葉で人を操るおぬしの力が、あの小娘に効かなかったのも、あながち、その血筋と無関係ではあるまい」
猫崎さんが、二人の子孫。そんなことが本当にあるのだろうか。
「おぬしらが惹かれあっていたのも、結局はそういう運命だったということかもしれんな」
「運命……か」
あの日、兄が方位を占って、「とても良い出会いがある」と言っていたのは、そういう意味だったのだろうか。
「まぁ信じるか信じないかは、おぬし次第だがな」
「なんだその、どこぞの都市伝説みたいなの。一気に嘘臭くなったじゃないか。っておい」
どうやら俺の抗議に、赤獅子は答える気はないようだ。
飛んできた手毬を、追いかけるのに夢中になって、赤獅子はあちこちを駆け回っていた。
やっぱりただの猫にしか見えない。
思わず吹き出すように笑ってしまった。釣られたように兄も笑う。
その瞬間、ふいに生前の父の笑顔が、脳裏に浮かんだ。いつも太陽みたいに笑う人だった。父が笑うだけで、周りがパッと明るくなる。そんな笑顔だった。
俺はいつか、赤獅子を満足させられるまじない絵師になれるのだろうか。父に負けないぐらいの立派なまじない絵師に。
気弱になった俺の心を撫でるように、父の言葉が頭をよぎった。
『無理でもやるんだよ。オレの偉大なる愛で作られた息子だろ』
そうだよ。俺はまぎれもなく、父さんの息子だ。
『だったらやれるさ』
そうだな。俺は偉大なる父に愛された息子だからな。きっとやれるはず。
そう思った瞬間、父の笑っている顔が、見えたような気がした。
兄が背中を叩いてきた。
「痛いって」
「ほら、ぼーっとしてないで。労働でちゃんと返してもらう約束は、まだ生きてますからね」
「まさか、それって」
「ガトーショコラ三十個、よろしくお願いしますね」
「ぶっ倒れてた人間に、それを言うのか。って増えてるし」
「追加注文があったんですよ。働かない子には、これ、あげませんから」
兄が着物の胸元から取り出して、ヒラヒラとちらつかせていたのは、猫崎さんからの手紙だった。




