☆24 それだけ恋というのは、人間も妖も、皆を狂わせるということですかね。(魚住茜音)
「姫を救った王子様は、ようやくお目覚めですか」
兄が俺の顔を覗き込んでいた。
どうやら俺は、一週間ぐらいずっと寝込んでいたらしい。急に力を使いすぎたせいだろうと、兄は言っていた。
俺の身に起こったことは、赤獅子がすべて兄に伝えたらしく、何も話さなくていいと言われた。
「偉大なる愛は世界を救う、ですか。いかにも親父らしいですよね」
兄はそう言って、いつものように、にっこりと微笑んだ。
だが、その目はなんだか赤く充血しているように見えた。きっと俺が寝ている間に、こっそり泣いていたのかもしれない。けれど、そんなそぶりを見せもしないところは、やっぱり父に一番似ているのは、兄かもしれないなと思った。
「でも、その偉大なる愛が世界を救う前に、お姫様は一足早く、遠くへ行っちゃったみたいですけどね」
猫崎さんは、俺の寝込んでいる間に、親戚の家に引っ越すことが決まったらしく、もうすでにこの街を出てしまったそうだ。
別れの言葉も言えなかった。
だが猫崎さんが無事なら、それで十分だ。そう思うことにした。
いつかきっと会えることもあるだろう。生きていればきっと。
「じゃあ、一緒に行きますか」
「行くって、どこに」
「家宝のチェックですよ。一人で勝手に見るのもなんですから、茜音が起きるのを、待ってたんですよ」
家宝があるという話は、あの最悪のタイミングで、父が俺の気をそらすために、適当なことを言っただけの可能性もある。
だが、父が最後に残した遺言めいた言葉でもあった。一応確認しないわけにはいかないだろう。
ボンネットバスの中に入ったら、相変わらず猫たちが、わらわらと寄ってくる。人魚の呪いが解けたら、この現象はなくなると思っていたのに。
まさかまだ呪いが消えてないんじゃ。そんな一抹の不安がよぎる。だが純粋に、飼い主として、俺に懐いているだけなのかもしれない。そう思うことにした。
ボンネットバスの運転席の下を、調べていた兄が声を上げた。
「ありましたよ」
小さな桐の箱が見つかったようだ。年季が入っている。いかにもな感じの箱だった。
「なんか古そうだな」
「結構なお値段になる、お宝だったりするんですかね」
すでに兄の目は、円マークが浮かんでいそうなキラキラした守銭奴の瞳になっていた。
飾り紐を解いて、蓋を開けてみる。中に入っていたのは、小さな手毬だった。たっぷり使い込まれたものなのか、かなりボロボロになっていて、色も薄汚れていた。
まったく金になら無さそうだと踏んだのだろう。明らかに兄が、がっかりとした表情を見せている。
「あーっ、それはっ」
呼んでもいないのに、赤獅子が姿を現した。楽しそうに手毬にじゃれている。ほかの猫たちも一緒になって駆け回り、バスの中は大運動会状態になっていた。
「なんだお前も結局、ただの猫じゃないか」
「なんだとぉーっ、我を侮辱するな。ただの猫などでは……断じてないっ」
言葉とは裏腹に、赤獅子は夢中で手毬を追いかけている。やっぱりその姿は、まるで普通の猫みたいだった。
「もしかして、その手毬、赤獅子のなの?」
「我が飼い猫だった時に、主人がわざわざ手作りしてくれたものだ」
箱の底を見ると、『赤獅子』と記されている古い巻物が入っていた。
巻物は、きっと祖先が、赤獅子の魂を封印した時に作ったものだろう。
その下に、比較的新しいメモがあった。
『赤獅子へ。もしオレの代で、約束が果たされた時は、契約を解く。もう好きにしていいぞ』
父が書いたであろう達筆な文字だった。『魚住紫道』という署名の上には、血判も押されている。
ここにはもういない父の文字を見て、こみ上げそうになる涙をぐっとこらえながら、俺は質問する。
「赤獅子、これ……どういうこと?」
「すべてに決着がついた今、もう我が嘘をつく必要がなくなった、ということであろうな」
「嘘をつくって、なにを」
「おぬしらは知らぬだろうが、我を最初に使役していたのは、人魚を連れて逃げたまじない絵師であったのだ」
「どういうことだ、それ」
「かの者は、人魚の肉を独り占めしたくて、人魚の娘を攫ったのではない。美しい人魚の娘に恋をし、彼女もまた、まじない絵師の男を愛してしまったのだ。許されざる恋というやつだな」
「は? 俺たちに伝わってる話と、全然違うじゃないか」
「だから嘘をついていたと言うただろうが。かの者は、一緒に逃げただけだ。人魚の娘を殺そうとしているまじない絵師の一族の手から助けるために。つまりあやつがやったのは、ただの駆け落ちだ」
「か、駆け落ちっ!?」
「人魚の娘が死に、まじない絵師が自殺すると、嘘を書き記した文を届けたのも、我だ」
「なんでそんな嘘を」
「人魚の娘と、我が子を守るために決まっておろう」
「我が子って、まさか」
「二人は愛し合い、子供ができた。このままでは逃げきれないと判断して、あの男は一芝居を打ったというわけだ。我はその片棒をかつがされた。まさかあのような大事になるとは思いもせなんだが」
「じゃあ、お前のせいで、俺たちの一族はずっと」
赤獅子を睨みつけたが、そっぽを向かれた。
「我は契約に基づき、約束を守っていただけだ。文句は、おぬしらのご先祖様に言え」
「それは、そうだけど」
「元々、我は勝手に絵式神にされ、仕えさせられていた身だ。まじない絵師など滅びてしまえばいいと思ってたぐらいだ。そのような文句を言われても知らぬ」
「滅びてしまえばいいって……そんな悲しいこと言うなよ」
確かに絵式神にとっては、まじない絵師なんて縛り付けているだけの、やっかいな相手でしかないのかもしれない。だからって、あんまりだ。
兄が俺の肩を、なだめるように優しくポンポンと叩く。
「赤獅子を責めるのは可哀想ですよ。ずっと嘘を突き通していたのも、契約に縛られていたせいでしょうから」
兄が困ったように笑う。
「まぁなんにせよ、それだけ恋というのは、人間も妖も、皆を狂わせるということですかね」
「兄ちゃんがそれ言うなよ。なんかシャレになってないぞ。女性客の恋心を利用して、金を巻き上げてるくせに。いつか酷い目にあっても知らないからな」
「大丈夫ですよ。まじない絵師としての才能には恵まれませんでしたが、商売のほうは、多少は向いているみたいですし」
「全然向いてないよ。うちの貯金はどんどん目減りしてるの、少しは自覚してくれよ」
「いざとなったら、ヒモにでもなりましょうかね」
苦笑いを浮かべている兄に向かって、赤獅子が手毬を蹴り飛ばす。
見事におでこに命中した。
「痛いですってば。大事な商売道具の顔に、傷がついたらどうするんですか」
ずっと姿を隠していた絵式神の銀羅と灰羅が現れ、兄を守るように宙に浮かぶ。
「赤獅子っ、黙って見ていたら、アタシの青都に何してくれてんのっ」
「いい加減にしろ、赤獅子。ちょっとぐらいボクより体がでかいからって、調子に乗んなよ。ボクたちが二人でかかれば、お前なんか」
赤獅子は威嚇するように、銀羅と灰羅を睨みつけている。
「ほう、我とやる気か?」
兄が間に入ってたしなめる。
「ほらほら、喧嘩しない。僕は別に、大丈夫ですから。みんな僕のために喧嘩しないでください」
赤獅子が鼻で笑う。
「誰にでもいい顔をして。これだから青都はダメなのだ」
「なにをぉ」
「なんだとぉ」
さらに突っかかろうとしている銀羅と灰羅に向かって、兄が着物の懐から出した棒を、二本投げた。
こんな緊急時のためのまたたびだ。銀羅と灰羅は猫カフェの猫たちと一緒に、すっかりメロメロになっている。
赤獅子も誘惑に負けそうになりそうな表情を見せつつも、話を続けている。
「青都、おぬしは勘違いしておるようだが、我が青都に従属しなかった理由は、まじない絵師の才覚がないからではないぞ」
兄が驚いたように赤獅子を見る。
「どういうことですか」
「どうもこうもない。幼き頃から何も変わっておらんではないか。隙あらば女に色目を使って、あちこちの女にうつつを抜かすところが、我は気にくわんかっただけだからな」
「そんな……理由で?」
「十分であろう。現実の女だけではなく、絵式神までメスを二匹はべらせるなど、そのような浮ついた男に仕える義理などない」
「ちょ、ちょっと待ってください。可愛い女の子がいたら、そりゃ口説きますよ。男なんだから。それに絵式神ぐらい、自分の好きな者を作ったっていいでしょうが。それの何が悪いんですか」
やっぱり兄は父の子供だ。理屈じゃないらしい。
だが兄の反論も虚しく、赤獅子は軽蔑の視線を飛ばしている。
「何が悪いのかもわからぬとは、嘆かわしい。そんなだからダメなのだ。その点、茜音のほうが、一筋な気質があったから、少しはマシと考えて、しょうがなく従ってやっただけだ。まじない絵師の才覚など、おぬしも茜音も、さして変わらんわ。馬鹿者が」
兄が開いた口がふさがらないという表情をして、しばらく固まっていたが、弾けるように笑いだした。
「もっと早く言ってくれたら、ずっとこんな思いをしなくてすんだのに」
「おぬしのような、いい加減なやつは、少しはへこんでおるぐらいで、丁度いいのではないか」
フンッと言わんばかりに、赤獅子が顔を背ける。
「まったく、赤獅子は昔から釣れないなぁ」
兄が赤獅子を撫でると、大きな口を開けて、シャーッと威嚇をする。
「気安く触るでない。撫でて良いのは、我が認めたものだけだ」
赤獅子がちらりと、俺のほうを見た。
「で、契約がなくなったということは、我はやっと自由になれた、ということで良いのか」
「そう……なるのかな」
父が残した言葉なら、従うしかないのかもしれない。
「自由というのは実にいいものだ。茜音、呪いから解き放たれた、おぬしならわかるだろう。自分を縛るものがなくなるという、開放感の素晴らしさが」
赤獅子が窓の外を見て、遠い過去を見つめるように、目を細めた。




